第11話 美しきとんぼ返り
サロン『マリアージュ・ミラージュ』の重厚な扉が開くと、そこには奇妙なコントラストを放つ男女が立っていた。
女性は、鋭いカッティングのイタリア製スーツに身を包んだ、葉山直美(36)。大手広告代理店の敏腕プロデューサーとして名を馳せる彼女は、全身から「仕事ができる女」のオーラを立ち昇らせている。
対して、その彼女の腕にぶら下がるようにして入ってきたのは、ハル(23)だ。
透き通るような白い肌に、色素の薄い髪。目元には濃いアイラインが引かれ、退廃的な美しさを湛えているが、その瞳には意志の光がない。まるでショーケースの中に飾られた、精巧なビスクドールのようだ。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
水指浄呂美は、完璧な所作で二人を出迎えた。
今回のターゲット(A組)。
事前の調査によれば、新郎は売れないビジュアル系バンドマン。新婦は年収二千万超えのキャリアウーマン。
一見すれば「格差婚」だが、二人がソファに腰を下ろした瞬間、水指はそのさらに奥にある歪な構造を嗅ぎ取った。
「ハルちゃん、こっちの席がいいわよね? エアコンの風が当たらないから喉に優しいわよ」
「うん。ナオミさんがそう言うなら」
直美がハルの背中を優しく押し、クッションの位置まで直してやる。ハルはされるがまま、スポンと音を立てて座った。
その仕草には、大人の男性に対する敬意が欠片もない。あるのは、愛玩動物に対する溺愛だけだ。
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「では、お式の具体的なプランについてお伺いします。まずはテーマカラーや、会場の雰囲気についてご希望は……」
水指がカタログを広げると、直美は待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「ゴシック調で統一したいの。黒と真紅の薔薇を基調にして、彼の美しさが際立つような……そう、『デカダンス調の晩餐会』というイメージで。キャンドルは通常の三倍の量をお願いできるかしら?」
「かしこまりました。非常に幻想的で素敵ですわ」
直美は次々と具体的な指示を飛ばす。迷いがない。
水指はメモを取りながら、ふと視線を隣のハルに向けた。彼は退屈そうに自分の爪を眺めているだけで、会話に参加する気配が微塵もない。
「ご新郎様はいかがですか? 何か取り入れたい演出や、楽曲などは」
水を向けると、ハルはキョトンとした顔で目を瞬かせ、すぐに助けを求めるように隣を見た。
直美は慈母のような笑みを浮かべ、ハルの頭を撫でる。
「あ、彼はいいの。私が全部わかってるから。ね、ハルちゃん?」
「うん。ナオミさんの選ぶものが一番カッコいいから。ナオミさんがいいって言うなら、それが正解なんだ」
ハルは疑いようのない純粋な瞳でそう言った。
その言葉を聞いた直美の表情が、とろりと溶ける。それは恋人に向ける顔というより、自分の思い通りに育った作品を愛でるような、どこか湿度の高い愉悦に満ちていた。
(……なるほど。「飼育」ね)
水指は心の中で冷徹にラベリングした。
生活費、楽器代、スタジオ代。すべて直美が負担していることは調査済みだ。だが、これは単なるヒモとパトロンではない。
直美は、ハルから「判断能力」を奪うことで、彼を無力な子供のまま繋ぎ止めている。そしてハルもまた、その「甘い檻」の中で思考停止することに安らぎを覚えているのだ。
その時、スタッフが紅茶を運んできた。
湯気が立つアールグレイの香り。ハルが「わぁ」と無邪気に手を伸ばし、カップを持ち上げようとする。
その瞬間、直美の鋭い声が飛んだ。
「ダメっ! ハルちゃん、熱いってば!」
直美はハルの手からカップを奪い取るように確保した。
「猫舌なんだから、火傷しちゃうでしょ? もう、目が離せないんだから……」
そう言って直美は、自身のふっくらとした唇を尖らせ、フーフー、と紅茶に息を吹きかけ始めた。
二十三歳の大人の男に対して、母親が幼児にするように。
異様な光景だった。だが、ハルはそれを恥じる様子もなく、むしろ安心しきった顔で待っている。
「はい、どうぞ。これなら飲めるわよ」
「ありがとう、ナオミさん」
冷まされた紅茶を啜るハルを、直美はうっとりと見つめている。
彼女の深層心理にあるのは支配欲だ。「私がいなければ、この子はお茶さえ飲めない」という全能感。それが彼女のプライドを満たし、激務のストレスを癒やしているのだろう。
――滑稽だわ。
水指は美しい所作で自分のカップを傾けながら、内心で嘲笑った。
これを愛と呼ぶなら、ペットショップのショーケースにも愛は溢れているだろう。
対等な人間関係の構築を放棄し、共依存の沼に沈んだ二人。ロックスタアを自称しながら、首輪に繋がれることに喜びを感じる男。
壊し甲斐がありそうだ。
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「それでは、お日取りも決まりましたので、契約書へのご記入をお願いいたします」
商談の最後、水指は契約書を差し出した。
直美は流れるような筆致で自分の欄を埋め、ペンをハルに渡す。
しかし、ハルは住所欄の前でペン先を止めた。
「……あれ? ナオミさんのマンションの住所、なんだっけ。漢字が難しくて……」
「もう、まだ覚えてないの? 『港区』の『港』はさんずいよ」
直美は苦笑しながら、ハルの手ごとペンを握り込んだ。
まるで習字の先生が子供に教えるように、二人の手が重なり合って文字を綴っていく。
大人の男が、自分の住所さえ書けず、女に手を引かれて名前を書く。その情けない姿を、直美は愛おしそうに見つめ、ハルはヘラヘラと笑っている。
「はい、書けました!」
「よくできました」
完成した署名を見届け、水指は契約書を回収した。
そして、いつものように事務的な口調で、しかし決定的な「罠」の説明を行う。
「ありがとうございます。では、第15条のキャンセル規定についてご説明いたします。挙式2週間前を過ぎてのキャンセルは、いかなる理由であれ全額返金不可となりますので、ご了承くださいませ」
「ええ、構わないわ。キャンセルなんてありえないもの」
「うん、僕もナオミさんと結婚できるなら何でもいいよ」
二人は顔を見合わせ、幸せそうに微笑み合う。
その笑顔の下にある脆い地盤に、まだ気づいていない。
「それでは、当日を楽しみにしております」
二人を見送った後、水指はサロンの奥でタブレットを取り出した。
画面には、すでに同じ日時に予約を入れている『B組』の情報が表示されている。
B組:新郎は看護師、新婦は女医。
こちらもまた、「格差」と「プライド」が複雑に絡み合った案件だ。
「女医と看護師……掘ればいろいろ出てきそうですわね」
水指はA組のハルと直美、そしてB組の医療従事者カップルを脳内で天秤にかける。
今回は、どちらも崩すのは簡単そうだ。
特にA組。あの「飼い主とペット」の関係は、一見強固に見えて、環境の変化には極めて弱い。
ペットが野生の味を知ったら? あるいは、飼い主がペットに飽きたら?
「まずは、可愛いワンちゃんを野に放ってみましょうか」
水指は優雅に指を鳴らす。
結婚式という名の「卒業試験」に向けて、残酷なカリキュラムが動き出した。




