第9話 悪魔の契約書
挙式まで残り1週間。
いよいよ「最終確認」と呼ばれるフェーズに入った。
通常のカップルであれば、席次表の最終チェックや、両親への手紙の推敲に涙する、最もセンチメンタルな時期だ。
しかし、高城タクヤと西園寺エレナに、そんな湿っぽい情緒はない。
サロン『マリアージュ・ミラージュ』のVIPルーム。
二人は、まるでM&A(企業の合併・買収)の調印式に臨むような面持ちで、革張りのソファに座っていた。
「……さて、水指さん。今日のアジェンダ(議題)は?」
高城が腕時計をチラリと見ながら問う。彼の時間は1分単位で金を生む。無駄話は許されない。
水指は恭しく一礼し、手元のワゴンから重厚な黒革のバインダーを二冊、取り出した。
表紙には金の箔押しで『Prenuptial Agreement』と刻印されている。
「本日は、お二人のような賢明なエグゼクティブ経営者にふさわしい、最後の儀式をご用意いたしました」
「儀式?」
「はい。愛という不確かなものを、確固たる契約へと昇華させるための……完全な『婚前契約書』の作成です」
契約書、という言葉に二人の目が輝いた。
愛や信頼よりも、彼らが最も信用する概念だ。
「ほう。欧米のセレブや大富豪が結んでいるという、あれか」
「ええ、左様でございます。通常の結婚式場では敬遠されがちですが、当サロンでは『リスクヘッジ』の観点から推奨しております」
水指は滑らかに言葉を紡ぐ。
「口約束の愛など、トラブルの元ですわ。万が一の破局や離婚に備え、または円満な結婚生活を維持するために、互いの権利と義務を明確に数値化・言語化しておくのです」
高城が膝を叩いた。
「素晴らしい。まさに僕が求めていたソリューションだ。感情論で揉めるのは、最も非生産的な時間だからな」
「アグリーよ。私の資産やブランドを守るためにも、ルールは明確にしておきたいわ」
二人は完全に乗り気だ。
水指は心の中で冷笑しながら、バインダーを開いて見せた。
中身は、条文の大部分が空欄になっている「穴埋め式」のフォーマットだ。
「こちらは、お互いへの『要望』や『条件』を自由に書き込める特別仕様になっております。ただし、ルールが一つだけございます」
水指は人差し指を立て、声を潜めた。
「決して相談なさらないこと。相手に忖度せず、ご自身の本音を包み隠さず記述してください。それが真の『最適化』への鍵となります」
二人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
相手への不満や要求を、正当な「契約」として押し付けられるチャンス。
彼らにとって、これほど魅力的な提案はなかった。
「わかった。別室を用意してくれ」
「私も集中して書きたいわ。クリエイティブな作業になるから」
水指は優雅に頷き、二人をそれぞれ離れた個室へと案内した。
+++
第一個室。
高城タクヤは、モンブランの万年筆を握り、真っ白な条文欄と対峙していた。
彼の脳裏には、最近のエレナの姿が浮かんでいた。
(エレナは確かに美しい。Sクラスの美貌だ。だが……最近、少し気が緩んでいるのではないか?)
高城はペンを走らせた。迷いはない。
書き終えて、高城は満足げに頷いた。
(これでいい。彼女もプロだ。高いハードルを課されることで、モチベーションも上がるだろう)
彼は自分が「残酷な夫」になりかけているとは露とも思わない。
あくまで「優秀なマネージャー」として、妻という資産の価値を最大化してやっているつもりだ。
+++
第二個室。
西園寺エレナもまた、鬼気迫る表情でペンを走らせていた。
彼女の苛立ちは、高城の「出たがり」な性格に向けられていた。
(彼は確かに優秀よ。お金もある。でも……私が主役の場面でも、すぐに自分のビジネスの話を割り込ませてくるのがウザいのよね)
エレナは怒りを文字に叩きつけた。
書き上げ、エレナはフフンと鼻を鳴らした。
(これでスッキリ。彼も頭のいい人だから、数字(フォロワー数)の論理には逆らえないはずよ)
彼女もまた、自分が「傲慢な妻」である自覚はない。
「ブランド戦略」という名目のもと、夫を便利なアクセサリーとして固定しようとしているだけだ。
+++
30分後。
記入を終えた二人が、VIPルームに戻ってきた。
二人とも、仕事をやり遂げたような清々しい表情をしている。
自分たちの書いた内容が、相手をどれほど激怒させるかなど想像もしていない。なぜなら、彼らにとってそれは「論理的に正しい要求」だからだ。
「書けたか、エレナ」
「ええ、バッチリよ。タクヤも?」
「ああ。完璧なドラフト(契約書)が完成した」
水指は二人の手からバインダーを受け取ると、パラパラと内容を確認した。
その視線が、一瞬だけ鋭く光る。
(……素晴らしい。予想を超える、自己愛の展覧会だわ)
水指はバインダーを閉じ、聖女のような微笑みで二人を見つめた。
「お疲れ様でした。お二人の『本音』、確かに受け取りましたわ。これほど合理的で、嘘のない契約書は見たことがございません」
「ふっ、そうだろうな。僕たちは常にコア・バリュー(本質)を追求している」
「水指さん、これを清書して、式の当日にサインするの?」
エレナの問いに、水指は首を横に振った。
「いいえ。鉄は熱いうちに打て、と申します。……今ここで、この内容を読み上げ、互いに合意形成を行っていただきます。そして正式な調印と致しましょう」
水指の提案に、二人は「望むところだ」と頷いた。
彼らは信じている。相手も自分と同じレベルの「高い意識」を持っているから、この程度の要求は当然受け入れるはずだと。
「楽しみだ。これで僕たちの結婚は、盤石なものになる」
「ええ。世界一、計算されたカップルの誕生ね」
悪魔の契約書は完成した。
水指の描くシナリオ通り、愛の損益分岐点は、もう目の前に迫っていた。




