第7話 新入り(前編)
窓から差し込む強い陽の光が、容赦なく一日の始まりを告げる。
どこか遠くで、朝の静寂を切り裂くように蝉が鳴いていた。
探偵は応接室のソファに深く腰掛け、一人の客人を待っていた。
赤く光る眼が、壁の時計をじっと見つめる。
9時00分。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
しかしそれは探偵のものではなく、彼の背後――イザベラから発されたものだった。
「……もう、来ないんじゃない?」
突き放すような言い草だったが、彼女の視線は窓の外と時計を何度も行き来している。
探偵は、掌に握られたペンダントに視線を移した。
冷たい金属の指がその表面をなぞるが、ペンダントは何の反応も示さない。
『……それでは今日の天気予報です。セレスティア島中央部では、午後からも安定した快晴が続くでしょう。絶好の洗濯日和となりそうです。熱中症に警戒して…』
廊下の奥からは、のどかな報道番組の音声が聞こえてくる。
かちり、と時計の長針が六度回転したその瞬間、事務所のドアが勢いよく弾け飛ぶように開いた。
「はぁ……はぁ……っ」
激しい息遣いと共に、そこには二人が待ち侘びていた客人の姿があった。
「一分の遅刻だ。……この調子じゃ、先が思いやられるぞ、新入り。」
探偵は、咎めるような言葉とは裏腹に、どこか満足げな響きを声に滲ませた。
その無機質な音声は、かすかに弾んで聞こえる。
「ごめんなさい……道に……迷っちゃって……」
肩を上下させ、乱れた髪を直す余裕すらないエリナの前に探偵が立つ。
「……まぁいい。万事、これから学んでもらうとしよう。」
エリナに片手を差し出す。
「ようこそ、セレスティア探偵事務所へ。」
すでに太陽は高く昇り、空に浮かぶこの島の地表をじりじりと照りつけている。
湿気をまとった熱気と、島を支える浮上モジュールの微かな駆動音。
その中で、新たな夏の一日が始まっていた。
***
机の上にはアイスティーの入ったカップが二つ、置かれている。
サイボーグも茶を飲めるのかというふとした疑問を、エリナは頭から追いやった。
「あのー……書類とかって……」
「書類だと? ……用意したか?」
探偵は背後に立つイザベラを振り返る。
「あなたが用意してないのに私が用意するわけないじゃない……」
二人に見つめられたイザベラは、心底あきれた口調で言った。
「……契約書のようなものはないが、あんた……いや、お前の名刺は用意しておいた。」
探偵から手渡された名刺ケースを開けると、そこには「エリナ・イアハート」と印字された名刺が収まっていた。
自分の名が記されたそれを眺め、何とも言えない高揚感に包まれたエリナだったが、その余韻に水を差すように探偵が言った。
「それでだが……今日からはここに住んでもらう。」
「えっ」
あまりに唐突な発言に、エリナは危うく手元の名刺を落とすところだった。
「ここって……この事務所に、ですか?」
「そうだ。ちょっと来い。」
探偵に連れられて事務所の奥へと進む。
所長室の扉を前に右へ曲がると、そこにはごく普通の家庭のような空間が広がっていた。
テレビとソファの置かれたリビング、キッチン。
そして廊下の奥には、いくつかの扉が並んでいた。
「開けてみろ。」
促されるまま、手前のドアノブに手をかける。
扉を開けると、そこには六畳ほどの小ざっぱりとした部屋が広がっていた。
「ちょうどこの部屋が空いていたから、片づけておいた。……まぁ今は何もないが、好きにしてくれて構わない。」
確かに、室内に置かれたものといえば、窓際に寄せられたベッドとクローゼット、それに小さめの棚くらいである。
エリナは、ふとホテルに置いてきた荷物のことを思い出した。
「じゃあ、荷物を取りに戻らないと……」
「それなら大丈夫だ。」
「え?」
その時、玄関の方からイザベラの弾んだ声が響いた。
「来たわよー!」
玄関の扉を開けると、空には大勢の輸送用ドローンが着陸の姿勢をとっている。
「???」
状況を飲み込めないエリナをよそに、探偵が一機のドローンへと歩み寄る。
すると荷台が展開され、ホテルにあるはずのスーツケースがせり出してきた。
「私の...スーツケース……?」
呆然と呟くエリナをよそに、他のドローンからも大小さまざまな段ボール箱が吐き出されていく。
「……よし、いいだろう。」
探偵が短く命じると、ドローン群はその言葉を待っていたかのように一斉に離陸し、空の彼方へと消えていった。
「????」
「知り合いにこういうのが得意な奴がいてな……ホテルの予約も、全部キャンセルしておいたらしい。」
あまりにも見慣れない、そしてあまりにも強烈な出来事の連続に、エリナの思考回路は完全に焼き切れていた。
部屋に戻り段ボール箱を開けると、中にはクッションや毛布、果ては洗面用具まで、ありとあらゆる生活用品が詰め込まれていた。
「『新生活応援セット』らしいわよ。新入りさんによろしくって。」
イザベラが荷解きを手伝いながら言った。
一体、どんな人物なのだろう。
そんな疑問を胸に抱きながらも、エリナは届いたばかりの柔らかな毛布にそっと触れた。
気づけば、彼女の部屋はつい先ほどまでの殺風景さが嘘のように、色彩豊かな空間へと様変わりしていた。
「すごい……」
出来上がった自室を見渡し、エリナは思わず感嘆の声を漏らした。
これまで泊まり歩いてきた、どんなビジネスホテルよりも豪華で、何より温かい部屋だった。
「片付いたか?......これは随分と洒落た部屋になったな。」
探偵が部屋の入り口から顔をのぞかせる。
「こういうのに疎そうな人だけに意外だったわね。...だれか私にもくれないかしら、『新生活応援セット』。」
イザベラが探偵に熱い視線を送った。
「自分で金を貯めて買うんだな。」
「...ケチ。」
「……それはそうと、買い出しに行くぞ。今夜は新たな住人の誕生を祝うからな。」
「お祝いですか?」
「せっかくの機会だからな。出かける準備をしておけ。」
そういうと、探偵は部屋を出ていった。
――ふくれっ面のイザベラを残して。
***
「暑い......」
外は猛暑日である。
エリナは額に浮かぶ汗をぬぐった。
「こんな暑い日に出かけるなんて、私たちを殺す気?」
イザベラは先ほどからずっと不機嫌である。
イザベラの小言に付き合いながら、探偵のあとに続く。
しばらくすると、路地から抜けた。
そこは川の土手下で、前方には巨大な橋が架かっている。
橋に近づいてはじめて、それが道路橋であることが分かった。
頭上からは、絶え間なく車が通り過ぎる低い走行音が、地響きのように伝わってくる。
探偵は歩調を緩め、土手側にあった鉄製の扉を開けた。
扉の先は、薄暗い地下通路になっていた。
外の真夏日とは打って変わって、ひんやりとした湿った空気が肌をなでる。
探偵は迷いなく、闇の中へと歩き始めた。
「この道で合ってますよね……?」
「あぁ」
二人の声がコンクリートの壁にこだまする。
若干の不安を抱きつつ、照明を頼りに進んでいくと、不意に前方が開けて明るい場所に出た。
そこは、地下鉄駅の構内へと続く連絡通路だった。
駅の盲導鈴、アナウンス、人々の足音...
エリナはその騒がしさに、少しだけ肩の力が緩むのを感じた。
***
『まもなく、1番線にセレスティア・セントラルステーション行きが到着します。危ないですから・・・』
「そういえば、買い物ってどこに行くんですか?」
エリナはベンチを立ちあがる。
「アルファスクエアだ。」
――アルファスクエア。
島内外の流行が集まる、この島で一番の巨大なショッピングエリアだ。
地方でニュースを見ていた時にも、何度かその名前を耳にしたことがあった。
「アルスクですか!? 一度は行ってみたかったんですよね〜」
憧れの場所に行けるとあって、エリナの目はキラキラと輝いた。
「まったく……あんな人混みのどこが良いんだか」
隣でイザベラが、いかにも面白くなさそうに毒づく。
「おいおい……週末のたびに『アルスクに連れて行け』って騒いでるのはどこのどいつだ?...頼むからそう機嫌を損ねないでくれ......」
探偵がやれやれと肩をすくめると、イザベラは待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「じゃあ〜、新しく後輩を持つことになった『先輩さん』にも、なにかお祝いが必要だと思わない?」
「まったく......」
探偵は観念したように、深いため息をつく。
そんな二人のやり取りを見て、エリナはたまらず口元を抑え、小さく肩を揺らした。
―― 後編へ続く ――




