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Φ≪ファイ≫  作者: RPM
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第6話 ペンダント

月が雲間から顔をのぞかせている。

裏通りには人影もなく、都会の喧騒から切り離されたこの場所では、時折どこからか猫の鳴き声が聞こえてくるだけだった。

そんな路地が交差する一角、そこに建つ小さな事務所の窓からは、穏やかな光が漏れだしていた。


「…」

事務所の応接室には、誰一人として言葉を発する者はなかった。

ただ重苦しい沈黙だけが立ち込め、天井の電灯が、床の上に三人分の長い影を落としている。


「......その...今日はありがとうございました。」

最初に声を発したのはエリナであった。

彼女は、それまで眺めていた在りし日の父と自分の写真を机に置き、探偵に向きなおって言った。

「依頼を引き受けてくださった上に、命まで助けていただけるなんて......」

「......気にするな。」

探偵はそれだけ言うと、部屋は再び静寂に包まれた。


「もう遅いし、そろそろ解散したら?」

次に口を開いたのは、イザベラだった。

研究所での一件以来、彼女にはエリナに対する微かな気まずさが消えずに残っている。

「それも……そうですね……」

エリナは力なく頷き、ゆっくりと席を立った。

「明日また来ます」とだけ告げて、重い足取りで出口へと歩き出す。


そして彼女がドアノブに手をかけた時、

「...待て。」

背後から届いた探偵の声に、エリナの足が止まる。

「?」

振り返ったエリナの視線の先で、探偵は一瞬、何かを言い淀むような、珍しく躊躇う仕草を見せた。

しかし、すぐに意を決したように、重々しく口を開いた。

「少し、話がある。」


***


探偵に促され、エリナは応接室のさらに奥へと進んだ。

突き当たりの壁には、「所長室」と掲げられた重厚な木の扉が静かに佇んでいる。


扉を開けると、まず正面にどっしりとした木製の大きな机と、革張りの黒い椅子が目に飛び込んできた。

椅子の背後、部屋の西側は一面が大きな窓になっていたが、厚手のブラインドが下ろされ、外の景色は完全に遮断されている。

それでも、雲間から覗く月光がブラインドの細い隙間から漏れ出し、静まり返った床の上に、幾筋もの青白い横線を等間隔に描いていた。


探偵は窓を背に、黒い革張りの椅子へと深く腰を下ろすと、デスクを挟んだ正面の空間を指し示した。


「座ってくれ。……お前もだ、イザベラ」

その言葉に、壁際に控えていたイザベラがわずかに眉を動かす。

彼女は無言のまま部屋の隅に置かれていた椅子を二つ引き寄せると、デスクの前へ並べ、エリナを促してから自分も腰を下ろした。


「……まずは、親父さんのことだが――残念だったな」

探偵は、暗がりの中でエリナの瞳をまっすぐに見つめた。

エリナは何も答えず、膝の上で拳を固く握りしめている。

「……わかっている。他人に知ったような顔をされても、いい気はしないだろう」

そう言って、探偵はデスクの引き出しから一枚の名刺を取り出し、机の上に置いた。


『アルベルト・イアハート』


「これは……?」

「昔、あんたの親父さんからもらった物だ。」


探偵がため息交じりにつぶやく。

「初めて会った時に言うべきだったのかもしれないが...」


***


アルベルトと俺は、仲の良い友人だった。

他愛のない話で夜を明かすことも珍しくなかった。


……あれは、十二年前の冬だったか。

あいつの勤め先だったシグマー工業で爆発事故が起きた。

俺は現場に駆けつけ、必死にあいつを探したが……生存者なしという非情な発表に、諦めて引き返すしかなかった。


腹の底に、まるで大きな穴が開いたような気分だった。


だが、あいつは帰ってきたんだ。


目の前に現れたあいつを見た時、俺はただ嬉しくて、笑うことしかできなかった。

……なのにあいつときたら、薄く笑ったきり、沈んだ目でうつむいていた。

命拾いしたのになぜそんな顔をするんだと聞くと、あいつはこう言った。


「俺は、死ぬかもしれない」


シグマーの残党があいつを狙っていたんだ。

シグマーが崩壊した後、残された残党達は新たな組織を結成した。

その名も、「Φ(ファイ)」だ。

……そう、アルベルト・イアハートを殺したのは、間違いなく奴らだ。


そして今、奴らの標的(ターゲット)はあんただ、エリナ・イアハート。

俺たちがセキュリティロボに襲われたとき、あんたが狙われていただろ?


解読したプログラムを見るに、奴らの狙いはペンダントそのものだ。

アルベルトは、奴らが躍起になって探すほどの重大な「何か」を、そこに隠した。

……俺がスキャンしたときには何も出てこなかったがな。


とにかくあいつは、あえて自分の記録を一切消し、あんたに唯一の希望として――そのペンダントを託したんだ。

そうすれば奴らに勘付かれることなく、時が来たときにあんたを俺の元へ送り届け、同時にペンダントを託すことができる。

あいつはそう踏んだんだろう。


あいつはかつて、俺に言った。「娘を守ってくれ」と。

だが当時の俺はただの流れ者で、自分の命一つ繋ぎ止めるのに必死だったんだ。

……だから一度は断った。

子供を養う余裕なんてありゃしないし、その時はペンダントの件も知らされていなかったからな。


そうしたらあいつは……「お前に迷惑が掛からないときに、必ず連れて行くから」と言った。

あの時は理解ができなかったが、まさかこういうことだったとはな……


さて、昔話はこれくらいにしよう。

俺たちがここで探偵事務所を営んでいる本来の目的は、ファイの奴らを根絶やしにすることだ。

こうしていれば情報も入りやすいし、奴らにこちらの真の目的を感付かれることも少ない。


......気持ちはわかる。アルベルトは何も間違ったことをしていない。

なのに奴らは、あいつから命を奪い……その志さえも、闇に葬り去ろうとしている。


そこで、提案だ。……俺たちと手を組まないか、エリナ・イアハート


***


暗闇の中、探偵の瞳だけが寂しげに赤い光を放っていた。

エリナはたった今告げられた真実、そしてあまりに突然な探偵の提案に、ただ唖然とするしかなかった。


父が命を懸けて守ろうとしたもの、自分が知らぬ間に背負わされていた運命、そして目の前の男が秘めていた執念。

それらがあまりに巨大な濁流となって押し寄せ、彼女の思考を真っ白に染め上げていた。


震える指先が、無意識に首元のペンダントに触れる。

さっきまでただの形見だと思っていたそれが、今はひどく冷たく、そして恐ろしいほど重く感じられた。


「...もちろん、すぐにとは言わん。」

探偵は静かに、部屋の出口を指差した。

「覚悟が決まったなら、明日の九時にここへ来い。……嫌になったなら、故郷に帰るなり逃げ回るなり好きにするがいい。引き止めはしない。ただし...」


一際鋭くなった赤い光が、エリナの瞳を射抜く。


「そのペンダントは、ここに置いていってもらう。」


***


月はすでに雲で隠れていた。 裏通りにはただ一人の少女が歩いている。


夏の夜の凪が、エリナの頬を静かに撫でていく。

遠くで街のざわめきが微かに鳴り響く中、彼女の耳に届くのは、湿り気を帯びたアスファルトを叩く自分の力ない足音だけだった。


「……九時」


彼女は小さく呟き、顔を上げた。

探偵の言葉が、呪文のように脳裏を離れない。

――覚悟が決まったなら来い。嫌なら逃げろ。


「お父さん、私……」


見上げた夜空はどこまでも暗く、進むべき道を示してはくれない。

故郷へ帰るシャトルに乗るか、あるいは、あのサイボーグの元へ戻り、引き返せない運命に身を投じるか。


迷いの中、彼女の指先は無意識に、いつもの場所――胸元を探っていた。

だが、そこにあるはずの冷たい感触はもうない。


指先に触れるのは、薄いブラウスの布地と、自分の頼りない鼓動だけだった。

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