第2話 堕落
今から10年ほど前、この世には世界のあらゆるものを掌握する巨大企業が存在した。
その名を「シグマー工業」という。
日用品からロボット産業、サイボーグ技術から軍事機器まで、世の中目に付くもののほぼすべてにシグマーのマークが記されていた。同社は実に、世界を支える根幹だったといえる。
しかしその繁栄は、必ずしも企業努力の成果というわけではなかった。
エリオット・ハワード。
人は彼のことを英雄と呼ぶ。
彼は天空に浮かぶ島を築き、荒れた地上から人類を救った。
そんな彼は、人類を再発展させる足がかりとして一つの会社を立ち上げる。
それがシグマー工業。
英雄の会社ということで世間はこのビジネスに沸き立ち、会社は急成長を遂げていった。
数学記号で「総和」をあらわすΣの文字通り、会社は世のすべてを掌握するかのごとく巨大化していったのである。
西暦XX25年 12月10日 18時30分:フロンティア島 シグマー工業施設01
灰色の空から白い雪が舞い降りる、寒い冬の夜
街灯の明かりが、うっすらと積もった雪を照らす。
この時、同社で勤務する社員は帰路に就くところであった。
一人の男が、ふと足を止めた。
地面が揺れている。
はじめは小刻みだった揺れは、次第に激しさを増していき、やがて歩いていた全員が足を止めた。
どこからともなく響く地鳴りと、立っていられないほどの激震に、周囲の人々は一斉に恐怖を覚える。
そして彼らが最後に目にしたのは、砕け散るビルの窓ガラスだった。
突如として噴き上がった赤い炎と黒煙が街を包み込み、辺りは一瞬にして灼熱の地獄と化す。
その衝撃波は、隣接する島々にまで及んだという。
[シグマー工業本拠地爆発 創設者エリオット・ハワード氏死亡]
ネットニュース、テレビ、新聞――あらゆるメディアが一斉にこの見出しを掲げ、世間は一時騒然となった。
英雄の死は大きな話題となり、人々はその死を惜しんだ。 だが同時に、英雄の作った会社が、この程度の事故で揺らぐはずがない――そんな空気が、世間には広がっていた。
会社側は、安全管理体制に不備があったとして謝罪を表明し、警察もまた「事件性は認められない」と発表した。
それを受け、事態は収束へ向かうかと思われた。
だが、その空気を一変させる出来事が起こる。
きっかけは、ネット上に投稿されたある匿名の「密告」だった。
元シグマ―社員を名乗る人物が投稿した画像や動画には、薬剤のようなものを注入される人間の姿、そして独房めいた簡素な部屋で生活を送る人々の様子などが映し出されていた。
さらに、その背景の至るところには、はっきりとシグマーのロゴが刻まれていた。
この投稿は瞬く間に人々の疑念を煽った。
――シグマー工業は裏で人体実験を行っているのではないか。
投稿自体はすぐに管理者によって削除される。
しかし、一度電子の海へ流れ出た情報は止められない。データは切り取られ、転載され、爆発的な勢いで拡散していった。ネットメディアだけでなく、世界的なテレビ局までもがこれを報道した。
会社側は疑惑を全面否定したものの、警察は再び捜査に着手した。
そして数か月に及ぶ捜査の末、ついにシグマー工業の裏の顔が白日の下に晒される。
「シグマー工業において人体実験が行われていた事実を確認。実験体となった被験者の多くは現在も所在不明。」
世間は震撼した。
あの大企業が、ここまでの悪事――いや、もはや悪魔の所業としか言いようのない行為に手を染めていたとは......
一度は世界を支配しかけた大企業は、一夜にしてあっけなく崩壊した。
そしてその波紋は、世界を地獄へ突き落とす。
市場からはありとあらゆる製品が姿を消し、物価は歯止めなく跳ね上がる。
シグマー工業の崩壊を引き金に、多くの企業が連鎖するように倒産し、
街には職を失った人々があふれていった。
一度は世を席巻した同社であったが、その一夜を境に、悪徳企業の象徴として世間に認識されるようになったのである。




