第9話 探偵という仕事
真夏の太陽がアスファルトを照り付け、陽炎が地面の上でゆらゆらと揺れている。
「はぁ……はぁ……っ、待って!」
エリナは走っていた。
――目の前を走る一匹の猫を追いかけて。
路地の角という角を曲がり、建物の隙間を縫うように進む。
次第に道は狭まり、やがて行き止まりへと到達した。
「しゃぁぁぁぁ!」
逃げ場を失った猫が、牙を見せながら鋭く威嚇する。
「ひっ……」
エリナは身をすくませながらも、膝を突き、恐る恐る手を差し伸べた。
「うぅ……。どうして、こんなことに……」
***
「我が家の猫がいなくなってしまって...」
事の始まりは数時間前。
事務所にやってきた依頼人は、一人の眼鏡をかけた老婆だった。
「ね...猫?」
あまりに牧歌的な依頼内容に、エリナは耳を疑った。
「あの...探偵事務所って尾行とか、何か調べたりするものじゃないんですか......?」
「ドラマの見すぎだ。調査することだけが探偵の仕事じゃない。」
探偵が、失踪した猫の写真を眺めながら言う。
「...そうだ。この仕事はお前にやってもらおう。初仕事だ。」
「え?私...ですか?」
エリナは自分を指さす。
「お前の他にだれがいるんだ......猫探し程度なら何の訓練もなくできる、だろ?」
探偵は、老婆から預かった写真をひらひらとエリナの前で振った。
***
エリナは、恐る恐る手を差し伸べる。
だが、猫は毛を逆立て、今にも飛びかからんばかりの形相である。
「怖くないから……ね?」
次の瞬間、猫がわずかに後ずさったかと思うと、弾丸のような勢いでエリナに飛びかかった。
「きゃぁぁっ!」
猫を胸に受け止めた衝撃で、エリナは背中から地面に倒れ込んでしまった。
眼前には、網膜に焼き付くほど鮮やかな青空と、暴力的なまでに白い積乱雲。
***
「ぷっ……!」
帰ってきたエリナの姿を見て、イザベラが噴き出す。
「これはまた...ひどいな......」
探偵もエリナの顔をまじまじと見る。
エリナの頬には、絵に描いたような三本線のひっかき傷。
さらには、格闘の末に路地のゴミ箱でも倒したのか、服には埃がつき、髪にはどこから紛れ込んだのか小さな枯れ葉まで刺さっていた。
依頼人の老婆はといえば、申し訳なさそうに猫を抱きかかえていた。
「ごめんなさいね。ただの猫探しで、こんなにひどい目に遭わせてしまって……」
老婆は何度も頭を下げながら、テーブルに包みを置くと、足早に事務所を去っていった。
パタン、とドアが閉まる。
「その...なんだ。災難だったな.......」
探偵が救急箱を開ける。
「……猫探し程度なら何の訓練もなくできると言ったのは、どこの誰でしたかね...」
エリナが恨めしそうに探偵を睨むと、彼は気まずそうに視線を逸らし、手元の脱脂綿と消毒液をエリナの鼻先に突きつけた。
「……ほら、さっさと手入れをしろ。傷跡が残ったら、いよいよこの事務所の面汚しだ」
「もう! 少しは心配してくださいよ!」
事務所に響く、消毒液がしみるエリナの悲鳴と、イザベラの我慢しきれない笑い声。
セレスティア探偵事務所。
茹だるような夏の日差しの中、この小さな場所で、騒がしくも新しい日常が始まっていた。
***
その日の午後、エリナはガーゼの貼られた頬をしきりに気にしながら、ソファに深く腰掛けてテレビを見ていた。
指先がガーゼの端に触れるたび、ズキリとした痛みが走る。
「……あいたた。やっぱり、結構深くやられちゃったかな……」
...コンコン
不意に、事務所の扉がノックされた。
慌ててエリナが玄関へ向かい扉を開けると、そこには一人の男が立っていた。
エリナは、目の前の客の姿を見て息を呑む。
ボロボロに破れた服の隙間から、禍々(まがまが)しい刺青が覗いている。
その威圧感は、どこからどう見ても街のギャングそのものだった。
エリナの脳裏に一つの単語が思い浮かぶ。
招かれざる客――!
固まっているエリナをみて、男が口を開いた。
「...誰だ、お前。」
男の鋭い眼光がエリナを貫く。
「きゃぁぁぁぁ!命だけはお助けくださいぃぃぃぃ!!」
騒ぎを聞きつけて、イザベラが奥から駆けつける。
最初はぎょっとした表情を浮かべていた彼女だったが、玄関に立っていた男の顔を見るなり、ほっと胸をなでおろした。
「一体なんだ、騒々しい……あぁ、あんたか」
後からやってきた探偵も、男の顔を見るなり脱力したように息を吐く。
どうやら、この物騒な風貌の男は彼らの知己であるらしい。
「聞いてくれよ。ドアを開けるなり、この小娘が叫び声をあげたんだ。一体誰なんだ、こいつは」
男が不機嫌そうにエリナを指さす。
「頼むから面倒ごとを起こさないでくれ......こいつはエリナ。うちの新入りだ。」
探偵は座り込んだままのエリナに手を差し伸べる。
ようやく我に返ったエリナは、慌てて立ち上がった。
「え?」
男は目の前に立つ少女を見る。
その顔には、隠しきれない驚きが浮かんでいる。
「こいつが...新入り?」
「見ての通り、まだまだ教育が必要だがな。」
探偵はため息をついてエリナを見た。
エリナは縮こまりながら、消え入りそうな声で謝罪した。
「すみません……。てっきり、強盗か何かだと思って……」
そういってからエリナははっと自分の失言に気づいた。
だがもう遅い。
最悪の事態を覚悟し、エリナは恐る恐る男の顔を見上げた。
「ふ……っ、ははっ!」
エリナの予想に反して、男は大きな笑い声を上げた。
あまりの声量と迫力に、エリナは思わずびくっと肩を揺らす。
「俺が強盗か……! 違いない、この格好じゃそう見えるわな! 違ぇねえ、ははは!」
「...そういうあんたも、ギャングみたいな顔してるわよ。」
イザベラが床に落ちたガーゼを拾い上げ、ひらひらとエリナの前で振った。
「あっ!」
エリナは顔を押さえて、慌てて洗面所へと走っていった。
ドタドタという足音が遠ざかると、事務所に冷ややかな静寂が戻った。
「……で。一体何の用だ?」
探偵が男の顔を見る。
そこにいる男の顔にはもう、先ほどの陽気な男の影はなく、ただ真剣な表情が浮かんでいた。
「...わかった、入れ。」
男の表情から何を読み取ったか、探偵は彼を所長室へと招いた。
バタン、と重い扉が閉まり、廊下には洗面所の方から聞こえる微かな水の音だけが残されていた。




