第0話 プロローグ
西暦XX37年 ヨーロッパ平原
旧世紀には青々とした草原が広がっていたとされるこの地帯だが、いまでは雑草一つ見つからない赤茶けた砂漠が広がっている。
はるか昔から続いていた環境破壊と保護の果てしなき戦いは終結し、前者の勝利に終わった。その結果、地球上では異常気象や汚染物質を含んだ雲が頻発している。
もはや、地上は人の生存に適した場所ではない。
一匹のトカゲが砂漠の巣穴から這い出てきた。トカゲは数回舌を出し入れした後、おもむろに顔を上げ、空を見あげる。
そこには、天空に浮かぶ島々の姿があった。
それは、ある一人の科学者が生み出した発明品であり、いまや人類の居住地となっていた。
その科学者の名はエリオット・ハワード。のちに英雄と称される男だ。
彼は地上から一定の高度で物体を浮遊させる技術を発見した。それを応用し、地上の危険な環境から離れた天空に新天地を築いたのである。
そして人類は、浮遊するこの島で新たな歴史を紡ぎだそうとしていた――
「泥棒だ!捕まえろ!」
ある夏の日の昼下がり、路地裏の静けさを破るかのように怒号が鳴り響いた。
――ここは、地上五〇〇〇メートルに位置するセレスティア島。数ある浮上島の中でも最大の島である。
近くにいた人々は皆声のしたほうを見た。路地の向こうのほうが騒がしい。やがて声の主が現れた。一人の男である。彼は仲間とともに前方を走る少女を追っていた。少女の手にはペンダントのようなものが握られている。
「そのブツはうちの組のもんだ!返しやがれ!」
仲間の男が叫んだ。
「だから違うんです!」
少女が後ろを振り返って弁明する。
「ならとっとと止ま――」
次の瞬間、鈍い音があたりに響いた。
全速力で走っていた少女は通行人と衝突し、そのまま地面に倒れこんだ。手に持っていたペンダントは見事な放物線を描き、地面に着地した。
よく見ると少女は、この路地裏にはふさわしくないほど清潔な装いで、普段このあたりの社会になじみがないことは明らかであった。
「まったく手こずらせやがって……」
追いついた男たちは肩で息をしている。相当走ってきたようだ。
「…いったい何の騒ぎだ?」
ようやく衝突された人物が口を開いた。夏にもかかわらず着ている黒いレザーコートの隙間からは、機械の体が顔をのぞかせている。
男たちのリーダーらしきものが声の主を見て
「お、探偵さんじゃねぇか。ちょうどいい。この間相談したブツを盗んだのがこいつでさぁ。」
と、それまでとは打って変わって親しげな口調で喋った。
探偵と呼ばれたサイボーグは少女の持っていたペンダントを手に取る。
「ちょっ!それは――」
慌てる少女をなだめ、探偵は銀色に輝くそれを持ち上げた。
「少し、形が違うようだな。」
探偵は以前見せられた盗品の写真を思い返し、そう告げ、男たちに見えるよう前に突き出した。
「あ?…確かにうちで盗まれたもんじゃねぇみたいだな。すまねぇ、嬢ちゃん。」
男たちは先ほどの誤解を口々に謝罪しつつ足早にその場を去っていった。騒ぎにつられてやってきた野次馬もすでにいなくなっていた。再び路地裏に静けさが戻ってくる。
少女は呆気にとられつつも立ち上がって探偵に謝罪した。
「さっきは失礼しました…お怪我はありませんか?」
探偵は肩をすくめ、
「俺なら大丈夫だ。」
と短く答えた。
それから少女の姿を見て、言葉を続ける。
「あんたはここらの人間じゃないだろう。こんな裏の社会じゃ、何が起こるかわからん。早く大通りに戻ったほうがいい。」
しかし、少女は一向に戻ろうとする気配を見せない。何か言いたげなことがあるように体をもじもじさせて立っている。
「どうした?」
「その……さっき探偵さんと呼ばれてましたよね。」
「それがどうかしたのか?」
一呼吸おいて少女が言った。
「私の依頼を受けてもらえませんか?」




