ブルームーンのはじまり
ハワイ、オアフ島。
海に面して立つ小さな白い建物は、人々の記憶の中で今も生き続けている。
賑やかな笑い声とコーヒーの香りが、目を閉じれば波音とともに蘇る。
その店の名前はブルームーン。
人々に沢山の思い出を残した店の物語。
「レイコ、ここにしよう」
ユウサクはカウンターの中から、入口に佇むレイコにきっぱりと言った。
数ヶ月かけて何件も物件を見てきて、初めてユウサクが乗り気になっていることがレイコには嬉しかった。
ユウサクは物件を見に行っても厨房が狭いとか店自体が広過ぎるとか難癖をつけてろくに物件を見ないこともあったし、立地が気に入らないと建物の中に入ることなく帰ってしまうこともあった。
「でも日本人の観光客はここまで来る?ワイキキから遠いよ」
ここはノースショア、ハレイワタウンからも少し離れている。
「来てもらえる店にするんだよ」
ユウサクはカウンターの奥の厨房を眺めながら言った。
「そうね。ユウサクの作るものなら、お客さん来てくれるね」
店の名前は物件を探すと同時に決めていた。
『ブルームーン』
日が落ちたあと、空に浮かぶ月が眺められるような場所がいいと、ユウサクが決めた名前だった。
ワイキキ、アラモナア、カイルア、西オアフ。どこの物件も帯に短し襷に長しでもう諦めようかと思っていた。ノースショアのこの物件がダメなら弟と一緒に店を出すのではなく、レイコひとりでワイキキ周辺でギフトショップをやっていこうと思って訪れた最後の候補地だった。
道路に面して立つ店は横に長い造りで奥行きはあまりない。窓の面積を大きく取ってあるから店内は明るく、窓の外には海が広がっている。
ドアは建物の中央にあって中に入って右側にカウンターがあり椅子が8脚ある。カウンターと平行して海を見渡せる窓際に四人掛けのテーブルが2セット置いてある。
厨房はカウンターの奥、山側だった。
ドアを入って左側はホールになっていていくらでもアレンジできそうだった。
壁はグレーがかった水色。この壁にBlue Moonの文字を書いて月と椰子の木のイラストがあってもいいとレイコは思った。
右側をユウサクのカフェ、左側はレイコのギフトショップ。ふたりでやっていくにはまたとない店、文句のない物件だった。
ユウサクはレイコの弟だ。高校を卒業と同時にアメリカへ留学したレイコは大学卒業後にハワイにやってきた。レイコに会いにきてハワイが気に入ったユウサクもハワイで生活を始めた。
ふたりともいつかハワイに自分の店を持ちたいと考えていた。でもどちらもそんな思いを口にすることはなく、オアフ島内で別々に暮らしていた。あるときレイコがぽつりと
「お店やりたいな」
と言ったことで急に事態は動き出した。
「一緒にやろうよ」
ユウサクはこれ以上ないパートナーがあまりにも近い存在でその日まで気が付かなかった自分がおかしくもあり恨めしくもあり。
それから物件を探し始めてようやくここにたどり着いたのだった。
ノースショアの長閑な景色の中にポツンと立つ白い店、道を渡ればすぐに海。ビーチに降りられる。
ハワイの明るい青空を遮るものなく眺めることができる。
「ここからのサンセットは絶景だね。そのあとは月も見られる」
ユウサクの一言でブルームーン開店が決まった。
ブルームーンの開店にあたり、協力を惜しまなかったのはユクサクのサーフィンの仲間たちだった。
レイコが考えたように、店の中の水色の壁には白でBlue Moonの文字と月と椰子の木を、同じものを白い外壁には茶色で描いてもらった。描いたのはミズタニだった。
「お前サーフィン以外にもできることがあるんだな」
とユウサクが軽口をたたくと
「ほかにもあるぜ」
とペンキで汚れたTシャツでミズタニは汗を拭う。
ロコのジュリアはコーヒーカップやマグカップ、皿やグラスを大量に運んできた。おじさんがレストランをやっていたときのものだけど使って、とピックアップトラックの荷台から段ボールを下ろして箱をあけると白地にブルーのラインが一本入った食器が大量に入っていて、ブルームーンのために作られたようなものだとみんなで歓声をあげた。
日系のコウタロウの家はベーカリーで、日本のパン屋のようなふわふわと柔らかくしっとりとしたパンを焼く。父親の後を継いだたコウタロウはブルームーンへ毎日パンを卸すことを約束してくれた。
「儲けさせてもらうよ、ユウサク」
とコウタロウは笑いながらユウサクの肩を叩いた。
ギフトショップで商品をディスプレイする棚や、レイコがホールの真ん中に置きたいと思っていた大きめの丸テーブルはミズタニとコウタロウがガレージセールを回って探してきて塗り直した。
そして偶然にもこの店の建物オーナーは櫻子の祖父のナカタで、建物だけでなく周りの土地も所有していた。充分すぎる駐車場スペースを提供してもらい、ナカタファームで採れる野菜や果物も安値で譲ってもらえることになった。
「みんなになんとお礼を言ったらいいの。本当にありがとう」
開店を明日に控えたブルームーンに集まったユウサクのサーフィン仲間との前祝いでレイコは目を潤ませた。
「レイコさん、しばらくしたらその涙は後悔の涙になるよ、いつまでお前たちここに居座るんだよって」
コウタロウは店と同じ名前のビールを飲んでいる。
「そうだよな、こんないい場所ないよな、目の前でサーフィン出来るんだもんな」
ミズタニがそういうと
「住み着いちゃだめよ
とジュリアが返して笑いが起こり、また乾杯をした。
ブルームーンが開店して初めの頃のお客さんはユウサクのサーフィン仲間の知り合いや地元の人たちだった。朝食を食べに来るひと、買っていくひとがほとんどでランチタイムが終わるといつもの仲間だけが残った。
ノースショアはサーフィンの大会がある時期で普段より観光客がやって来ていたけれど、町外れにオープンしたばかりのブルームーンの存在はまだ観光客には知られていなかった。
ブルームーンが急に賑わいはじめたのはオープンから3ヶ月ほど経った頃だった。駐車場にはレンタカーが停まるようになり、ハレイワタウンからの一本道を20分かけて歩いてきたというひともいた。みな日本からの観光客でインスタを見たと口を揃えた。
レイコはそんなお客さんのひとりに声をかけた。
「インスタって?」
女子大生三人組のひとりがスマホを見せてくれて
「ハワイの観光のインスタやってるひとの投稿にここのお店が載ってたんです。サーフィンの大会を見にきてブルームーンを見つけたって書いてありましたよ」
レイコもスマホを取り出して、そのインスタを見てみた。日本に住む綿貫藍子というインフルエンサーがブルームーンの写真を何枚もあげていた。
「いついらっしゃったのかしら、覚えてないわ」
藍子の写真も載っていたがレイコには記憶にない顔だった。
それから間もなく、ブルームーンに朝から観光客がやって来て地元の人に混じってテイクアウトの窓口に並んぶようになった。店の裏口のドアの横に窓があり、そこをテイクアウト専用の受け渡し場所としていた。
長く伸びた列を見てパンを納品にきたコウタロウが厨房を離れられないユアサクに変わって窓口対応をしてくれたり、昼前頃からギフトショップにお土産探しにやってくる観光客にナカタファームから野菜を届けにきた櫻子がランチタイムの接客に忙しいレイコに変わってレジを担当したりと、レイコとユウサクだけでは手が足りない時間帯が発生した。
ランチタイムのあとしばらくのんびりムードとなるもののサンセットが近付くとまた賑わいが戻りそのままバータイムとなる。窓越しに月を見ながら過ごしたいお客さんもいるので少し店内の照明を落としてBGMもボリュームをしぼって、ハワイの月を堪能してもらう。
週末にはミズタニが来てくれて接客に厨房にと軽快に動き回ってくれるのだったが、日本で放送されているハワイの情報番組でブルームーンが紹介されてからはそれだけでは手が回らなくなっていた。
今となってはブルームーンを訪れたひとの心の中にだけ残るこの店はこうして始まった。
つづく




