世界は彼らのことを『裏切り者』と称するだろう ~生まれる境遇を違えた、悪名高い王女とスパイの物語~
王宮の庭園に、夜風が吹き抜けていった。風は薔薇の甘い香りを運び、夜会を終えたばかりの熱気を冷ましていく。
ドレスの裾を翻し、テラスの手すりにもたれかかる女王の横顔を、彼女の護衛騎士であるレオは息をひそめて見つめていた。
月の光を浴びて輝く銀の髪、静かに伏せられた長い睫毛。この世のあらゆる美を凝縮したようなその姿に、多くの人は息を呑むことだろう。彼女のことを近くで見守り続けているレオでさえ、改めてその美しさを認識した。
「ねえ、レオ。今夜の月は綺麗な青だと思わない?」
静寂を破る、涼やかな声。女王は振り返ることなく、空を見上げたまま問いかける。
レオは近づき、女王の半歩後ろで立ち止まった。
「はい。幻想的で美しい月ですね」
女王はくすりと笑った。その笑顔に、レオの胸は締め付けられる。しかし程なくして、女王は悲しそうに目を伏せた。
「きっと、何かが大きく変わる前兆ね」
その言葉の真意を、レオは誰よりも理解していた。
きっと、女王は知っている。
この国が、終わりを迎えようとしていることを。
レオは、ある国から派遣されたスパイだ。
ただの騎士として女王に仕え、信頼を得るために多くの歳月を費やした。そして、ようやく得た絶大な信頼を利用して、彼はこの国の機密情報を流し続けた。
そう。今夜もまた、胸元に隠した紙切れを祖国に流す話になっている。この紙に記された情報が、明日には祖国の手に渡り、この国を滅ぼすきっかけとなるだろう。今回の密偵行為が最後となることは、レオ自身も察していた。
「陛下、」
レオは何かを言おうとして、言葉に詰まってしまう。何を言っても、嘘にしかならない。
女王は全てを察しているのか、儚げに笑う。
「レオ、私はあなたと出会えて本当に幸せよ。例え、どんな形であったとしても」
その言葉に、レオは拳をきつく握る。
__ああ、なぜ、こんなにも愛してしまったのだろう。
初めは任務のためだった。女王の信頼を得るための演技。だが、いつからか、それは本物の感情へと変わっていた。女王の笑顔を見るたびに胸が高鳴り、悲しげな瞳を見るたびに心が痛んだ。
この国を滅ぼすという任務と、彼女を守りたいという本音。
その2つの間で、レオの心は引き裂かれそうだった。
(ここまで分かっているのならば、いっそのこと、陛下の手で断罪して、)
そんなことを思っていると、優しく顔を掬われる。白い手袋越しに、女王の体温が伝わった。
「あなた、私と出会った頃と比べて随分人間らしくなったわね」
笑う女王は、その細くて綺麗な親指でレオの目元をなぞった。
◇◇◇
陽光が降り注ぐ午後。王宮の庭園には、穏やかな時間が流れていた。
咲き誇る薔薇のアーチの下に置かれたテーブルには、銀のティーセットと、色とりどりのケーキが並んでいる。
女王陛下はお茶を嗜みながら、楽しげに歌う小鳥の声に耳を傾ける。その傍らで、レオはただ静かに、女王の護衛として立っていた。
「レオ。そんなに硬くならずに、そこの椅子に腰かけても良いよ?」
女王がいたずらっぽい笑みを浮かべて言う。
「お気遣いありがとうございます、陛下。ですが、これが私の務めですので」
レオは表情を変えずに答える。だが、女王もそれに慣れたような様子だ。
毎回のやり取り。しかし、その会話をどこか楽しみにしているのは、お互いだった。
その時、近くの木陰から、話し声が聞こえてきた。侍女たちだろうか。軽やかな笑い声に混じって、耳を澄まさずとも聞こえる、ひそひそ話。
「あの方、本当に女王の務めを理解しているのかしらね」
「仕方ないわよ。あんなに世間知らずじゃ、国が傾くのも時間の問題だわ」
「せめて、もっと愛嬌があればいいのに。人形と大差ないわよ」
女王への、ひそやかな陰口。レオは、瞬間的に眉をひそめた。腹の底から、沸き上がる怒りを感じる。
彼は、彼女がどんなに民を想い、この国の未来を憂いているかを知っている。夜遅くまで書斎にこもり、分厚い書物を読み漁る姿も、貧しい人々に分け与えるため、自らの宝石を売却したことも。
彼女の努力を知らない、無責任な言葉。
レオは無意識に1歩、木陰の方へ足を踏み出そうとした。だが、
「いいのよ、レオ」
振り返ると、女王は微笑んでいた。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「慣れているから。それに、彼女たちの言うことも、あながち間違いではないわ」
「陛下…!」
レオは胸が締め付けられた。この人が、どれだけの孤独を抱えてきたのか。なりたくもない女王の座に就き、民のために尽くしても理解されず、軽んじられ、それでも決して弱音を吐かない。
スパイとして派遣される時に得た情報では、もっと悲惨なことも書かれていた。
でも、その全てを伝えることはできない。だから代わりに、
「私が、陛下の盾になります」
そう、誓う。例え偽りでも、いつか嘘になるとしても。
__今この時は、女王陛下の護衛騎士で居られるから。
だからどうか、1人で抱え込まないで欲しい。
女王は、レオの真剣な眼差しをじっと見つめ、そして、ふわりと笑った。
「ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで、十分よ」
そして、女王は庭園の薔薇に視線を戻した。まるで最初から何もなかったかのような態度。
この誓いを嘘にはしたくないと思うも、それが叶わないことは、レオが1番よく理解していた。
◆◆◆
王宮に、静かに雨が降りしきる午後。書斎の大きな窓から差し込む光は、雨粒に遮られて鈍い銀色に変わっている。パチパチと音を立てる暖炉の火だけが、部屋に温かな色を灯していた。
「レオ。そこの本を取ってくれないかしら?」
「すぐにでも」
女王の声に、レオは頷いた。彼女は机に向かい、たくさんの書類に囲まれている。レオは言われた通りに本を手に取り、女王に渡した。
「ありがとう。疲れたら、遠慮なく休んでね」
女王は微笑んでそれだけ言うと、再び書類に視線を落とす。レオは女王の邪魔をしないよう、そっと元の位置に戻った。
女王が執務に追われる間、基本的にレオは護衛として傍に控えている。決して邪魔はしないものの、頼まれごとをした時はすぐに動く。立ち続けては疲れないかと女王に問われても、レオは「問題ありません」の一点張りだった。
「ふぅ…。少し休憩にするわ」
そんな声が聞こえたのは、女王が仕事を始めてから実に3時間が経過した時のことだった。
「何か飲まれますか?」
「そうね…。じゃあ、紅茶をお願いするわ」
「かしこまりました」
「もちろん、あなたの分もね」
「……」
「命令よ」
「…はい」
命令であれば仕方ない、とレオは思い、2つのカップを用意した。その間に、女王は部屋に設置されているソファーに腰を下ろす。相当疲れたのか、深々と息を吐く様子が見られた。
机を挟むように2つのソファーが向かい合わせに設置されているそこに紅茶を運ぶと、女王はレオに向かいに腰かけるように促した。最初こそは拒否したものの、すぐに「命令」と付け加えられる。
渋々向かいに腰を下ろしたレオに満足したらしい女王は、淹れられたばかりの紅茶に口をつけた。
「ねえ、レオ。雨の日は好き?それとも苦手?」
女王は、ソーサーにカップを置くと、レオに尋ねた。何でもない問いだからこそ、レオは不思議そうに首を傾げる。
「雨の日……ですか」
レオは、一瞬言葉に詰まった。
スパイとして生きてきたレオの人生に、「雨の日の思い出」など、感傷的なものは存在しなかった。雨はただ、任務の邪魔になるもの。濡れた道は足跡を残し、視界を遮り、計画を狂わせる。
「……どちらかと言えば、嫌いです」
彼はそう答え、視線を床に落とした。
女王はレオの言葉に微笑むと、ゆっくりと話し始めた。
「私はね、昔から雨の日が好きなの。雨が降っていれば、泣いていたって分からないでしょう」
「陛下…」
「今はもう泣くことも無くなったから、雨の日に隠すものも無くなっちゃったけれどね。でも、雨の日は許されたような気になるの」
女王は、窓の外に目を向ける。その目には何が映るのか、レオには読み取ることはできない。
「…なんてね。許されるわけがないのに」
「そん、」
「変なことを言ってごめんなさい。ちょっとした冗談よ」
自虐的に笑う女王に、なんて声をかけるべきなのか。レオは考えあぐねていた。しかし考えた所で言葉にはならない。レオは小さく首を振るだけ。
「ふふっ、無理に言葉にしなくていいわよ。こんな戯言、聞き流してくれて構わないわ」
「…すみません」
「いいのよ。止まない雨はないわ。流される罪だって、同じように存在しないのよ。……ただ、そんな雨に止んで欲しくないと願うのは、無粋なのかしらね」
雨に打たれたことのないはずの女王陛下の言葉は、酷く重い。
かつて、雨に打たれながら人を殺めたことを、なぜかレオはこの時に思い出した。
◆◆◆
その日の執務は、いつもより長くかかっていた。先日の夜会の疲れが残っているのか、女王の顔にはわずかな疲労の色が見える。執務室の窓の外は、すでに藍色に染まり、星が瞬き始めていた。
もう少しで今日の執務が終わるという時、部屋にノックが響いた。
「コニーです。お手紙をお持ちいたしました」
「入りなさい」
「失礼します」
部屋に入って来たコニーに、レオが近づく。そして数言交わす間に、 女王は最後の書類にサインを済ませた。
「では、私は失礼いたします」
「お疲れ様。もう遅いから早めに休んでちょうだいね」
「……はい」
相変わらず侍女からは不評のようだが、そんなことを気にも留めない女王。机の上の片付けをしている彼女の元に、レオは顔を顰めながら戻って来た。
「陛下、申し上げたいことがございます」
女王は顔を上げると、レオの真剣な表情に気がついた。そして、首を傾げる。
「珍しいわね。そんなに嫌な話?」
「え、っと?」
「顔に出てるわよ。あなたがそんなに嫌悪感を表に出すなんて、よっぽどのことかしら」
片付けの手を止め、女王はレオを見上げた。レオは、意を決したように口を開く。
「隣国の王太子から、陛下へ縁談の申し込みがございます」
レオは、感情を押し殺すように、淡々と報告した。簡潔なその言葉に、女王の顔は強張った。
「そう」
「あの、陛下、」
「…王族にしては粘った方よね」
小さく呟く女王は、降参を示すように背凭れに体重をかけた。ギギギ…と軋んだ音を鳴らす椅子が、彼女の本音を代弁しているかのようにレオは感じた。
「そういえば、もうすぐ結婚できる年齢ね。私に婚約者がいないことを知って、とりあえず打診してきた感じかしら」
「……」
「悪名高い私にまで打診なんて、隣国の王太子も焦っているようね」
「陛下が悪名高いなんて、おかしいです」
思いもよらぬフォローに女王は驚いた。そして、レオの顔を見て、優しく眉を下げる。
「…なんであなたが傷ついた顔をしているのよ」
困ったような女王の表情。しかし、どこか嬉しそうだ。
でも、レオはそんな表情に気づけない。当の本人は、悔しそうに眉をひそめているばかりだ。
全ては、女王の両親が広めた根拠のない悪評。そして、罪を犯していたのは彼女の両親である、先代の国王と王妃だ。
彼女はその2人の元に生まれただけだ。
胸の奥に、得体の知れない重苦しさが広がる。それは任務とは関係のない、個人的な感情だった。心臓が締め付けられるような不快感。
「優しいのね」
レオは息をのんだ。そんなこと、初めて言われた。どんな表情をすべきなのかさえ、分からない。
「たとえ、私へのお世辞だとしても嬉しいわ。本当にありがとう」
その言葉に、レオは顔を歪めた。この言葉は本心で、嘘なんてほんの少しも含まれていない。それでも、それを伝える手段がない。
(どうやって嘘ではないことを証明すれば、)
スパイ行為は慣れている。嘘を本当にする力だって、語彙だってある。
でも、その時ばかりは、そのどれにも頼りたくはなかった。
結局何も言えないまま、時は過ぎるだけだった。
◆◆◆
祖国の城の一角。石造りの冷たい部屋に、一筋の光も差し込まない。
____は、ただ黙って、老いた男が語る言葉に耳を傾けていた。
「…今回はスパイとしてある国に潜入してもらう。期間は未定。得た情報を全て流し、いつか戦争を行う時は内側から国を壊すんだ」
「はい」
「そのために、お前は玉座に就いたばかりの若き女王に狙いを定めろ。女王に取り入り、信頼を得て、この国を内部から崩壊させるのだ」
男の言葉は、まるで何十年も前に聞いた台本のように、____の心に響かなかった。
「承知いたしました」
____は簡潔に返事をした。跪いている____の表情には、何の感情も浮んでいない。
この任務が成功すれば、また1つ、彼の功績に加わるだけ。たかが仕事。それ以上でも、それ以下でもない。滅びゆく国がどうなろうと、そこで暮らす人々がどうなろうと、彼の知ったことではない。
命じられたことを、ただ遂行する。それが彼の存在意義だった。今までもそうだったし、これからも、きっとそうだ。
「だが、気をつけろ。あの女王は、悪名高い。どれだけ卑劣な手段を使ってくるか分からないからな。念には念を入れておけ」
「はい」
____にとって、人の心はただのパズルのピースだった。相手が何を求め、何を恐れているのか。それを見抜けば、後は簡単だ。優しく、頼もしく、時には弱々しく振る舞う。そうすれば、誰でも彼に心を許した。
そして、彼はその心を利用し、任務を達成してきた。今回も同じことだ。国にとって、彼は道具。ただの、命令に従うための、優秀な道具。
「では、行け。我が国のために、その才能を存分に振る舞うのだ」
____は一礼し、部屋を出た。暗い通路を歩きながら、彼は考えた。
「…面倒だな」
彼の心に去来したのは、面倒くささだけだった。また新しい偽りの自分を演じなければならない。
本当の名前を呼ぶ人は、きっとこの世にもういない。名を捨て、過去を捨て。頭の中に入っている記憶も本当の物か分からない。
それに胸を痛めなくなったのは、いつからだったか。
◆◆◆
忘れもしない、あの夜。
吐き気がするほどの血の匂いが、王宮中に満ちていた。
悲鳴と怒号が交錯する中、少女はただ1人、静かに自室のベッドに横たわっていた。
(きっと私も、殺される)
それでもいいと思った。でも、死ぬなら固い床ではなく、柔らかいベッドの上が良かった。
だから、ずっと横になって待っていた。
彼女の両親は、彼女に愛情を注いだことはなかった。公の場では優雅な王と王妃を演じながら、2人きりになると、彼女の存在を無視した。
「お前は、この国の継承者として生まれただけの存在だ」
「感情など持つな。人形のように、ただそこにいればいい」
そう言い聞かされて育った彼女にとって、両親はただの「王」と「王妃」だった。
安らかに眠れるはずだった。しかし予想外にも、彼女の部屋に入ってくる者はいなかった。
暗殺者も、護衛も、誰も入って来なかった。
翌朝、侍従長が震える声で告げた「陛下と王妃様が、暗殺者の手によって…」という報告も、彼女の心に何の衝撃も与えなかった。何となく察していたし、殺されて当然の悪行に手を染めていたのも知っている。
「そうですか」
だから、彼女は淡々と答えた。
その時、きっと世に広まっている本当の『悪名高い女王』が誕生したのだと思う。
侍従長が、その冷淡な反応に顔を曇らせたが、彼女は気にしなかった。
王位継承の手続きが進められ、儀式のために身を清める間も、彼女の心は凪いだままだった。そして、その日の夜明け、彼女は望むことのない王冠を頭に載せられた。まだ十歳にも満たない少女の頭には、あまりに重すぎる、冷たい金属の塊。
それ以来、彼女の心は、凍りついたままだった。
周りの者たちは彼女を「可哀想な姫」と憐れみ、裏では「頼りない女王」と陰口を叩いた。
そんなある日、執務室で書類に目を通していた彼女のもとに、侍従が静かに報告書を差し出した。
「陛下、新しい騎士が1人、王宮に仕えたいと申し出ております」
彼女は淡々と書類に目を通す。
「面接はどうだった?」
「はい。経歴、実力ともに申し分ありませんでした」
「そう」
嫌な予感はする。
でもそれ以上に、もうやめたかった。
これが、きっかけになればいい。もう疲れてしまった。
最後ぐらい誰かの役に、糧になって死ぬことができれば、
「彼に採用通知を」
書類に押した承諾印は、酷く重いものだった。
◇◇◇
「私の盾。私の剣。そして、私の、唯一の理解者」
「それは、」
「たとえ偽りだとしても。全て繕った言葉でも、私は嬉しかったのよ。喜んでしまった」
女王は静かに、スパイの顔から手を離した。
そして再び、夜空に浮かぶ青い月に視線を移した。夜会を終えたばかりの熱気は、すっかり冷えてしまった。
「やはり、お気づきだったのですね」
スパイの震える声に、女王は笑う。その笑みに、一切の後悔はない。
「ええ。私が、あなたのことを『レオ』と呼ばないことが増えた辺りから、かしら」
「……」
「でも、安心して。私以外はきっと気づいていないわ」
風が吹く。本来ならば、スパイはすぐにでも女王の口封じをすべきだろう。でも、動けずにいた。
「あなたの本名を知らないから。『あなた』と呼ぶしかなかったのよ。許してちょうだいね」
「…本名なんて、」
「お互い呼ばれない立場よね」
困ったように笑う女王も、周囲からは「陛下」「女王」と呼ばれるだけだ。本名なんて、きっと書類へのサインぐらいでしか使わないのだろう。音となって、届けられることは滅多にない。
「でも、一足先に私はこの重荷から解放されるわ。他でもない、あなたに救われる」
女王の笑顔は、いつもと変わらない。悲しみも、後悔も、そこには微塵もなかった。まるで、最初からすべてを望んでいたかのように。
スパイの胸に、言葉にできない感情がこみ上げた。
「一緒に逃げましょう!!!」
スパイは思わず、心の叫びを口にした。
「女王としての死に、新たな人生を歩みましょう!俺が、あなたのことを守ります!!!」
スパイの声は、懇願するように震えていた。感情が胸を占める。ああ、こんな感情はいつぶりだろうか。苦して、苦しくて、どんな毒よりも首を絞めてくる。
しかし、女王はただ、ふわりと笑った。
「私、痛いことは苦手なの。拷問を耐え抜ける自信もない。私が死んだ証拠がいるのならば、目玉でも何でもあげるわ。だから、」
女王は拷問にかけられると思っていた。当然だ。スパイからの甘い言葉を鵜呑みにするほど、彼女は馬鹿ではない。
しかし、ようやく振り返った女王は、驚いたように固まった。
「なんで、泣いているの…?」
目の前のスパイは、かつて女王に縁談を申し込まれた時に護衛騎士が見せた表情とよく似た表情をしていた。
傷ついたような、苦しいような、もどかしいような。悔しそうに眉をひそめるそれは、酷く幼い。
この時、女王は理解した。自身に縁談が申し込まれた時、彼は嘘偽りなく、本心で擁護してくれたのだと。
悪名高いと自虐する自分に、本気で「悪名高いなんておかしい」と言ってくれた、と。今更ながら、それら全てを理解した。
「……信じてもらえないことは分かっている」
「…ぁ」
「でも、殺したくないんだよ」
「え、っと、」
名前を呼びたい。でも、長く一緒に居たはずなのに、偽りの名前しか知らない。
だから女王は、意味のなさない言葉を零すことしかできずにいた。
「俺に、あなたの抱えている苦しみを消す力はない!!でも、新たに幸せにすることはできるかもしれないだろ!!」
「っ、」
「『生まれてきてよかった』って! 『今日を生きることができて良かった』って! そう思うための手助けはできるかもしれないだろ!!!!」
スパイの頬には、いつの間にか涙が伝っていた。泣く経験が少なかったのか、何度も苦し気にあえぐスパイは、乱雑に目元を拭う。
「だから、だから一緒に逃げよう!!!!お願いだ!!!手を!手を取ってくれ!!!!!」
嘘塗れの関係。でも、この場には本心しかなかった。
スパイは、本音で女王に向き合っている。だから、
「ごめんなさい。私は逃げられないの」
女王は、泣きながらも頭を振った。
女王もスパイに心を奪われていた。だから、彼女はスパイの身を案じた。
ターゲットである自分を匿えば、彼の立場が危ない。スパイを命じられるの立場だ。きっと、吹けば飛んでしまうのだろう。惚れた人を失いたくない気持ちは、女王にだってある。
「だから、もしも次があるのなら、結ばれましょう」
「次なんて、」
「身分も境遇も違えず。皆に祝福してもらえるような立場で。それで平和に暮らしましょうよ」
声を荒らげようとしたスパイは、女王の顔を見て固まった。
悔しそうに、それでも綺麗に泣く女王。彼には女王が、ただの少女のように見えて仕方なかった。
ずっと耐えてきた。ずっと1人で戦ってきた。膝も折らずに、歯を食いしばって戦ってきた。
そんな少女が、自分のために泣いてくれている。
「好き」
「私も好きです」
「愛してる」
「私だって、負けないぐらい愛してますよ」
どうして、こんなにも残酷なんだ。
ただ、好きな人と結ばれたかっただけなのに。
それなのに、どうして、
「抱きしめてください。あなたからの愛情を、目一杯受け取りたい」
「ああ。任せてくれ」
腕を広げた青年の胸に、少女は思いきり飛び込んだ。
きつく抱きしめ合う中、少女は明るい声で言葉を紡ぐ。
「あははっ、楽しい人生だった!」
「……」
「あなたと出会ってから、本当に楽しかった。私と出会ってくれて、私に惚れてくれて、本当にありがと!」
少女の頬には、未だに涙が伝っている。それでも、心の底からの笑顔だった。
「あなたに殺されるのなら、きっと幸せな気持ちであの世に行けるわね」
「……ヴァネッサ」
それまでの笑みが消え、少女の顔がくしゃりと歪む。それは、迷子の子どもが、ようやく親を見つけた時のような顔だった。
「もう1回」
「ヴァネッサ」
本当に仮面が崩れた。そんな顔に、青年は笑う。
「あなたの名前も呼びたい」
「…俺の?」
「教えて、ほしい」
もう思い出せないと思っていた名前。でも、はっきりと思い出せた。
「カイレン」
「かいれん、」
「水に関係した名前、だった気がする」
「…いい名前ね。……大好き、カイレン。愛しているよ、カイレン」
2人は、何度も何度も名前を呼び合う。
そして青年は、少女を抱きしめたまま、右腕を高く上げた。少女も察したように、目を閉じる。
少女は分かっていた。彼はナイフを脱ぎっており、それで自分を刺す気であると。最初に押されるような衝撃。その次に、冷たい感覚がし、燃えるように熱くなるはず。
「ごめん」
その言葉と共に、少女は青年に何かを刺された。彼が持っていたのはナイフではなかったと気づくと同時に、何かを流し込まれる。
体を離した青年は、手に持っていた物を見せた。それは、小型の注射器だった。少女の身体は、変な熱を持ち始める。
「なに、したの」
「祖国で独自に開発された『自白剤』だ。投与されれば、変に嘘がつけなくなる。本当は、情報を引き出すために使うものだった」
その言葉に、少女は慌てて自身の口を手で塞いだ。まるで、言ってはいけない本心を抑え込むように。
「ヴァネッサ」
「……」
「一緒に逃げよう。逃げて、逃げて。それでも無理だった時は、一緒に死のう」
嘘を吐けない。最後まで、本心さえも騙そうとしていたのに、
「はは、…ねつれつなぷろぽーず、ね」
「本気なんだ。いいか?」
「うん・・・つれていって」
降参するように笑う少女を抱き上げ、青年はテラスから飛び降りた。
「女王陛下ー!! どちらにいらっしゃいますかー!!!」
ある国の女王が失踪した。
悪女と名高い女王が逃げ出すには、あまりにも不自然な点が多い。
そして、彼女の護衛騎士も姿を消した。
世界は彼らのことを『裏切り者』と称した。
生まれる境遇を違えた2人が、その命尽きるまで続ける幸福で凄惨な逃避行。
その末路に待つものは、
【作者からのお願い】
「面白かった!」「続きが気になる!」
と思ってくださったら、
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします。
星5つをいただけると嬉しいですが、正直な気持ちで勿論大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願い致します。
※沢山の反響をいただけた際は、長編化したいと考えております!