5 大裂谷3
陽の光が谷底まで届いた時分になって、猛烈な胃と下腹の痛みからようやく回復した俺は上流に向かい歩き出していた。
ん?ええ、食べましたよ?食べましたとも。
毒濡れ人面タスマニアデビルね。
マジで全身毒まみれ。
でも食べました。腹減ってたし。臭いけど焼いて塩ふるとわりといけたし。臭いけど。
そしてのたうち回ったと。
まぁ、もう慣れましたけど。
有能だね、超順応。
剣鉈で苦労しながら解体した毒入り魔物肉は全て亜空庫に収納。
当分、肉には困らない。嘘です。普通の肉が欲しいです。臭くないヤツ。
十分に火竜から距離をとったところで、試すべきはまず谷からの脱出。
いやぁ……ここさ、絶対いわゆる谷とは違うなにかだよね。
上の方は普通に段々狭くなっているんだけど、途中からこう、グッと抉れて谷底辺りが最も広くなっているっていう。
登ろうとすると基本オーバーハングなわけで。
一応ね、身体強化ブン回してアタックしてみました。無理でした。
想像以上に壁面が脆い。
固そうな地層もあるんだけど連続していないのでとても無理。
今は諦めて、上流に向かいつつ登れそうな場所を探すしかないと。あれば、だけど。
ということで、当面はこの谷底で生き抜かなければならないわけだ。
まずは衣食住の算段をつけることだね。
衣もなにも全裸なわけだが。
考えたくない、凄く考えたくないことなんだけど、この状況が数ヶ月も続くとする。
今は春。これから夏に向かうわけだから全裸でも問題ない。いや、あるけど。
そして秋はともかくその後に冬。死ぬ。
……死ぬよねぇ?順応しちゃったりするのかな?モサモサ体毛生えたりして。
一応人面タスマニアデビルの毛皮は収納してるけど、鞣し方とかわかんないし。
うん、冬になる前に脱出だね。できると信じよう。信じたい。
で、食なわけだが。
肉はある。栄養価は不明、毒以外。いや毒は栄養じゃねぇよ?
ボアだのオークだの、魔物の肉は普通に食べられている。そして強い魔物、魔力の高い魔物の肉は一般的に美味だと言われる。
でもほら、全身毒まみれって。
言ってしまえばこの世界の物質は前世のそれとはおそらく根本的に違う。
金はAuじゃないし鉄もFeじゃない。別物だ。
鉄とかなかなか錆びないし。年単位で放置しても錆びないとか鉄じゃないよね?
生き物の体を構成するものも、あの世界とは違うかもしれない。
もしかするとこの毒も必須栄養素的なナニカかもしれない。……あるかよそんなこと。チートなかったら死んでたわ。
そんなわけでなにかしら食べられる魔物を調達しなければならない。
……いないんだよねぇ、魔物。
あっちの世界だと生態系を維持するためには一定の個体数が必要だと思うんだけど、魔物だからね。
魔素があればとりあえず生きていけるから生態系とか関係ないし。
増え方というか発生の仕方も謎だし。
なので異常に魔物の生息数が少ない可能性もなくはない。
あと植物。壁面の上の方にはそこそこ潅木が生えてたりするんだけど、谷底は……今のところ見かけていない。
果物食べたいよう。
住……いや住まないからね?
喫緊の問題は睡眠時の安全確保である。
間近に迫った魔物の臭い息で目を覚ますのは嫌なのである。
幸い登攀ルートを探して壁面近くをうろついていた際に、隠れられそうな壁の窪みはそこそこ見つけることができた。
あとは入口を岩で塞げば……うん、身体強化の強度、上がってたからね、わりと大きめの岩でも、持てるとは言わないけど転がすくらいはできるからね。大丈夫。
小さい魔物の侵入は防げないし、あまりデカい魔物だと潰されて終わりだと思いますが。
隠形を寝てる間も維持できればいいのだけれどねぇ。
検証のしようがないからねえ。
まぁ、できることをやる。
生き延びる。絶対に。
一ヶ月くらい経った、と思う。
頭髪が1センチくらい伸びているし。
よかった……毛根が生きててくれて。
上流に向かって結構な距離を移動してきたはずだけど谷の異様なロケーションに距離感がバグってよくわからない。
見るからに雑草ではあるのだけれど、ようやく植物がちらほらと現れだした。
食ってみたよ?食えたもんじゃなかった。
そして食料の確保には目処がついた。蛇。
寝てたら噛まれた。当然のように毒持ち。呼吸ができなくなって死にかけた。
見た目2メートル弱の普通の蛇。縊り殺して捌いて焼いていただきました。旨いよ。骨がウザいけど。臭くなくて素敵。
なによりわざわざ探さなくていいから楽。寝てたら噛みにくるので。俺、生き餌。
一度眠りに落ちる前に噛みにきたヤツがいたけれど、こいつら隠形使ってやがった。
姿はただの蛇なんだけど、そこは魔物ということだね。
あと短剣を拾った。どこぞの紋章のある高価そうな代物。龍っぽい紋章がかっこいい。火竜みたいにブサイクじゃない前世で知っていた創作物のドラゴンに近い。いるのかな?こんなかっこいい龍。
握ってみると魔力の通りが良いのでミスリル的なやつかもしれない。ミスリルとか持ったことないのでわからないけど。
両手剣も見つけたけどこっちは錆びて使い物になりそうもないので放置した。ここまで錆びるなんて、いつからここにあるのだろう。
この剣の持ち主は……俺のように望まずここに落ちたのか、なにかの目的を持って行き着いたのか。少しだけ、俺の槍がここで朽ちていく姿を想像してしまった。まぁ、上から落ちてきただけなのかもしれないけれどね。
それから雨が続いた。そういう時期ではあるのだけれども。
さすがに雨に濡れて身体を冷やす愚は犯せないので、壁面近くを雨宿りしながらノロノロと歩む。
雨で気配を探知しづらいためか、それとも単に濡れたくないからなのか、雨が降り出してから蛇が現れなくなった。
主食なのに。噛みに来いよ。生き餌失格の烙印を押されてしまうじゃないか。
谷底を流れる小川は水量を増し川幅を広げ、もはや小川ではなくなった。溢れた水で壁面近くにも新たな流れが生まれている。まずいね。
雨に濡れず浸水もしない、そんな都合のいい場所を求めて足を速める。
谷が闇に包まれ始めた頃、それを見つけた。
崖のすぐそばを歩いていなければおそらく気づかなかっただろう、巨大な岩陰に隠れるように壁面に口を開けた洞窟。
そしてそこから僅かに漏れる微かな光。
10日ほど前からなんとか使い物になり始めた俺の気配察知に引っ掛かるものはない。
隠形を発動、慎重に辺りを窺いながら洞窟へ踏み込む。
「……マジかよ」
ほぼ等間隔に並べられた魔輝岩の塊がぼんやりと穴の中を照らす。10メートルほどの奥行きの洞窟の地面には、朽ちかけた防具や武器、そして人骨らしきものが散らばっていた。
おそらくこの谷はダンジョン化、あるいは半ダンジョン化した状態だ。
洞窟の地面に接する部分の木や革、それに人骨らしき骨は地面に吸収されたようで全く残ってない。
骨が残っているのは大盾の金属部分の上や金属の鎧の中だけだ。ダンジョンは金属を吸収しないからね。
そしてこの骨……尻尾、だよな?獣人……いや、このサイズは……もしかして竜人?
武具の表面の汚れを払うと、拾った短剣と同じ龍の紋章があった。やっぱ竜人っぽいよな。
この大陸じゃ、ほぼ姿を見ることがなくなったと言われる竜人族。
そのパーティ、いや、揃いの紋章をつけているのならば部隊と言った方がいいのか……いずれにせよ、どのくらい過去の話かはわからないけれど、この谷になんらかの目的を持ってやって来ていたということだ。
……お宝?隠された財宝とかあったりすんの!?
いやぁ……目的はともかく全人種中で最強と目される竜人の部隊がここで骨になっているという事実がね、この谷どんな危険度だよ、っていう。
幸い洞窟は川からは距離があり、ある程度の高さもある場所にあった。
これなら浸水の恐れはなさそうだ。
ここまで水が上がってくるようならこんな風に遺物が残っているわけもないわけだし。
魔輝岩の薄明かりを頼りに洞窟に遺された武具やらを調べる。
竜人?の方々には申し訳ないけれど、こんな最期はゴメンだからね、使えるものは使わせてもらう。
残念なことに布の類は朽ち果ててしまっている。全裸は継続。
鎧の類も全裸で装備すると大ダメージ間違いなしなので諦める。そもそもサイズ合わないし。デカいよ。
剣や盾は金属以外の部分が駄目になっててこれも放置。売ればそれなりになりそうなんだけど、紋章付きのものには関わりたくないんだよね。厄介なことになりそうじゃない?
そして、槍。ありましたよ、槍。しかも同型が2本。制式装備っぽい。総金属製の黒いやつ。黒鋼?
いやこれ……無茶苦茶重いんですけど。だから多分、黒鋼なんじゃないかと思うわけですよ。
長さは3mちょっと……長いよ。
まぁ、でも、この槍、今の俺なら身体強化を全力で発動すれば振るえないわけじゃない。
使わせていただきます。
あとはお金。金貨とか銀貨とか。……見たことない貨幣なんだけど。
すみません、一応、いただいておきます。ほら俺、『盗賊』だし。
断続的に降り続く雨を洞窟でやり過ごした翌朝、久しぶりに蛇に噛まれて目を覚ました。
捌いた蛇を焼きながら見上げる狭い空にはようやく晴れ間が出てきたようだ。
川の水位は高いものの昨日までの勢いはない。
辺りを見回すと、ちらほらと潅木やサボテン?的な謎植物なんかが生えていた。
昨日は雨と闇で気づかなかったけれど、明らかに植生が変わってきているようだ。
気が進まないけれど、いずれあのサボテンもどきも口にすることになるのかもしれない。
多分、毒。色的に。あと、トゲが凶悪。返しまで付いてて植物離れした獰猛さを感じる。……植物ではない可能性もあるね。あまり近づかないようにしよう。
おっと、隠形忘れてた。植生が変わればこの辺りを生息域にする魔物もまた変わるかもしれない。
蛇以外にも俺を噛みにくるヤツがいるかもしれない、ということだ。
全力で気配察知、警戒を強める。
「ん?……あれ、って……」
上流、遥か先。強化された視力でもぼやけた輪郭でしかないそれは、谷底には似つかわしくない大木。ホントに?
慎重に進むべきなのはわかっているんだけど、ついつい足が速くなる。
何を期待してるというわけでもないのだけれど、この岩だらけの景色に思ったよりもストレスが溜まっていたのかもしれない。
近付くにつれはっきりと見えてきた美しい樹形。二本の川筋に囲まれ中洲のようになった小高い丘の上に生えたその高木は、高さ30メートルもあるだろうか、枝が扇状に広がるその姿は前世でいう欅によく似ていた。
明確に欅とは異なっているのは大ぶりな果実が結実していることだ。ブラブラと。
二筋に分かたれた川の幅は幾分狭い。チートで嵩上げされた身体強化で楽々と濁った川を飛び越えた俺は、大樹の下へたどり着いた。
「メ……メロン様?」
メロンが生っていた。うそやん。
落ち着け、俺。メロンは樹に実ったりしません。ウリ科です。つる植物です。
そして品種改良されているから甘いのです。
目の前にぶら下がっている丸く緑色で網目の模様のある甘い芳香を放つ果実は決してメロンなどでは……ああ、メロン、メロン様であらせられる。
メロンごときで大げさだ?家は金に困ってなかったんだろ?いやいや、メロンとか家族団欒でいただくものだろう?ないよ、家族団欒なんて。高校生が自分でメロン買ってきて部屋で一人で食うとかあるか?まぁ、俺はあるけど。さすがに丸々1個一人で食べたら胃が痛くなった。
尚且つ俺は昼に教室でメロンパンにメロンソーダを合わせて「ウケ狙いじゃない?」とか陰口叩かれた男だ。そんなメロン愛を持つ男だ。いや、なんでこんなくだらないコトばかり鮮明に憶えているのだろうね。Vの体勢ってなんだっけ?
半ば無意識のままに伸びた指先がザラリとした果皮に触れそして
「え?あ!」
僅かに揺れたメロン(仮)は枝を離れ、足元の岩の上に落下し音を立てて弾けた。
俺の脳裏をよぎったのはスーパーの床に落ちて弾けたスイカの無残な姿。それを落としたバーコードなおっさんが虚ろな目をして立ち尽くす姿。だからなんでこんなくだらないコトばかり
「がふっ……」
砕けたメロン(偽)は周囲に漂う甘い香りを一瞬で吹き飛ばす猛烈な悪臭を撒き散らした。
ああ、そうか。そうなのだな。俺はこの谷底では悪臭から逃れられない運命なのだな。
臭い、今までで一番臭い、致死の悪臭。
そう、やっぱり毒なわけだ。毒ガスなわけだ。
全身の力を奪われた俺は、無様にメロン(毒)の残骸の上に倒れ伏せた。
ああ、意識が