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02 - Divisi

 4月に入り、私・檀崎(だんざき)花那(はな)も最高学年である3年生となってしまった。これまで通り新しい春を迎え心機一転張り切って頑張ろうと意気込みたい所存ではあるが、恐ろしいもので2年生の頃よりも数段と受験が近づいた感覚がした。新しいクラスになり、周囲で聞こえる会話も心なしか、進学か就職かという話題や勉強関係の相談が多くなっている気がする。


 私はどうしようか。特にやりたいこともなく、吹奏楽が好きだからという理由で本校・流川(ながれかわ)高等学校へ進学をしたものの、その先は特にやりたいこともなく決めかねている。音楽大学へ進学するほど上手く吹ける訳でもないし、特に就きたい職業もない。親からは大学へ進学するよう勧められてはいるので、このままでは敷かれたレールに沿って進むことになるだろう。それで良いのだろうか。そうした不安を胸に、所属している吹奏楽部の活動のため、北館の音楽室へ足を運ぶ。そろそろ新入生が入部する頃だ。どんな子が来るだろう。先週仮入部で来てくれた子たちは入部してくれるだろうか。ダブルリードパートには何人来てくれるだろう。部活のことに意識を向けると、少し気が軽くなった気がした。私はやはり吹奏楽部が好きらしい。




           ──────




「おい!ちょっと待て!まだ話は終わってないぞ!」

 音楽室へ向かうための4階の階段を上がり終わろうかという所で男子生徒の野太い大きな叫び声が聞こえてきた。その野太い声は聞き覚えのある声で、その叫び声は案の定音楽室の方角から発されたものだった。その直後、バンッと音楽室の横開きのドアが勢いよく開かれた音が聞こえ、音楽室から出てきたであろう同学年の吹奏楽部員である小柏(おがしわ)くんとすれ違った。急いだ様子の彼は、勢いそのままに階段を駆け下りて行き、嵐のように私の前から過ぎ去っていった。


 音楽室へ入り、私は野太い叫び声の主である吹奏楽部部長・酒井真琴(さかいまこと)へと問いかけた。

「何かあったの?」

「あぁ、檀崎か。ちょっとな...」

 彼は二つ折りにされたB5サイズの用紙を右手に持ち、チラッと周囲に目をやると、小声で『場所を変えよう』と発し音楽室を出た。私もそれに続き隣の音楽準備室へと入る。

 椅子に座り、彼は手に持った二つ折りにされたままの用紙を私に手渡した。その用紙を開くと、上部に”退部届”と書かれており、その下部には退部理由と共に小柏くんの氏名が記入されている。酒井は私が目を通したことを確認し、神妙な面立ちで口を開いた。

「さっき小柏から渡された。受験勉強に専念したいから退部しただとよ。菅野(すがの)先生の了承は既に得たらしい」


 酒井の言葉通り、小柏くんの退部届には退部理由がこう記入されていた


       ────────────

受験勉強に備え勉強に集中するため退部させていただきます。

       ────────────


「まぁ...3年生だしね。寂しいけど、仕方がないんじゃない?」

「あぁ、分かってるさ。真面目なあいつらしいとも思う。『塾があるから』って言って今年に入ってから早めに個人練切り上げることが多くなってたから辞める雰囲気があったのも感じてはいたし、言い分も分かる。でも納得できないんだよ。俺は」

「納得できないって、何に?」

 私の問いに対し、腕を組み強張った顔をした彼はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに少しだけ口角を上げた。

「あいつが進学を志望していることも、そのために今年に入ってから週4で駅前の塾に行ってることも知ってる。でも、退部の理由が勉強に集中したいからっていうのは嘘だ。あいつは勉強のために吹奏楽を捨てるヤツじゃない。だから別の理由があると思っている」

「それを聞こうとして、さっきは怒鳴ってたの?」

「聞こえてたのか」

「あれだけデカい声なんだもん。そりゃあ聞こえるよ」

「ま、まぁそれはどうでもいい。大事なのは小柏の件だ。退部自体は親と顧問の了解を得れば良いだけだから俺が介入する必要はないんだが、退部理由が嘘なのであれば話は別だ。俺は吹奏楽部部長だから、あいつの友達だから本当の理由を知りたい。俺が力になれるのであれば力になりたいんだ」


 彼は私であれば恥ずかしがって躊躇ってしまうようなことを至って真剣な顔でサラッと言ってしまう。彼の意思は決して恥ずべきことではないのだけど、厚顔無恥と言うか純粋無垢と言うか。自分の心に素直過ぎて見ているこっちが清々しい気持ちになってしまう。


「酒井の気持ちは分かるけど...小柏くんが噓をついてたって根拠はあるの?」

「絶対的な根拠はない。勘と言うか、なんて言うんだろうな。信頼?あいつ、課題曲の話とかしてると良い顔するんだよ。吹奏楽好きなんだろうなーって。そんな人間がこんなタイミングで未練なく辞めますなんて決断出来る訳がない。だから何か他に理由があるだろうと睨んでる。だから」

 一息つき、彼はこう続けた。

「檀崎に協力してくれとは言わない。が、何か分かったら連絡して欲しい。確かあいつと同じクラスになったよな。様子がおかしいとか聞いた話とかでも構わないから。俺はあいつが辞めて何をやってるか調べてみるつもりだ」




 勉学に専念するために部活動を辞めるのはよくあることだ。増してや3年生であれば尚更だろう。私たち3年生も十二分に気持ちが分かるし、本人の将来に関わる事なので意思を尊重するべきだと思う。それを理由にされた以上は誰もその意見を否定できない。だが、酒井はそれを嘘と見抜いた。嘘によって作り出された切り札だと推察した。小柏くんの友人として理解できるものがあるのだろう。

 私は人が嘘をつくとき理由として大きく分けて3つのケースがあると思っている。『自らが利益を得るため』、『他人に利益を得させるため』、『衝突を避けるため』の3つだ。仮に退部理由が嘘だったとして、仮に酒井の推察通り他に理由があるのだとして、小柏くんが酒井へついた嘘はそれに該当するだろうか。

 酒井は自分が手を汚すことで他の人が平和になるのであれば喜んで手を汚すようなお人好しだが、同じ部活の仲の良い友人だから尚更その思いが強いのだろう。コンクールに向け、部長には部活動に専念して欲しいし、彼が行き過ぎたことをしないよう適度に協力してみよう。小さくため息を吐き、パート練習へ向かう。さて、今月初に決まったコンクールの自由曲『「ダフニスとクロエ」第2組曲 全員の踊り』と、来月の体育祭に向けた『アメリカ野包隊』の練習だ。特に前者は全国に行くために入念に練習しなければ。気持ちを切り替え、部活動に励んだ。




 小柏くんが退部届を酒井へ突き付けた翌日、同じクラスの私は一日彼の様子を(うかが)ってみた。彼は終始気怠げ様子であったが真面目に授業を受けており、休み時間には友達と談笑する姿が見られた。普段の様子を気にしたこともなかったためか、彼にあまり目立った違和感は無く、少なくとも教室内では退部以前以後で変わった様子は感じられなかった。彼に変化があるとすれば、放課後だろう。部活動を退部しているのだから分かり切っていたことだったのだが、まぁ進展は進展だ。


 授業を終えると、小柏くんは友達の遊びの誘いを断り、荷物を纏めてそそくさと帰ってしまった。断った理由も『ごめん、俺今日は塾あるから』というもので、酒井が言っていたように、退部理由が通りに彼は受験勉強に備え放課後にも勉学に励んでいるようだった。そんな彼の姿勢を見ていると私はこのままで良いのかと不安に感じてしまったが、この気持ちは心の奥底にしまっておくことにする。小さく息を吐いてから「よし」と呟き、鞄を肩にかけて部活動へ気持ちを切り替える。小柏くんの件も大事だが、日々の部活動はもっと大事だ。



           ──────



 合奏が終わり個人練習をしていると、スマホ後部のLEDライトが光り、新着通知が届いたことを報せた。ロックを解除し通知を確認すると、一足先に練習を終えていたクラリネットパートのパートリーダーである宮澤(みやざわ)さんからのメッセージが届いていた。内容は、『こっちは終わったよー。あとどれくらいかかりそう?とりあえず図書室で時間潰してるね』というメッセージとそれにスタンプを添えた2件のメッセージだった。私は小柏くんの件について彼の身近な人に話を聞くべく、宮澤さんと練習後に一緒に帰る約束を漕ぎつけていたのだ。宮澤さんへ『今から片づけるからちょっと待っててね』という旨のメッセージを返信し、普段は丁寧に時間をかけて行うオーボエの水分の除去をやや急ぎ目に行った。




 音楽室へ荷物を取りに戻ると、宮澤さんの姿が見えた。メッセージを見て、わざわざ音楽室へ戻ってきてくれたらしい。窓の外を見ていた彼女は、私がドアを開けた音でこちらに気が付くと、両手を振り笑顔で出迎えてくれた。

「おつかれー。意外と早かったね」

「お疲れー。うん、ちょうどキリが良いタイミングだったから」


 手を振りこちらも笑顔で返す。彼女とは特別仲が良い訳ではないが、それなりには仲良くやっている。同じクラスになったことはないが、何度か休日に遊びに行ったこともあり関係性は悪くない。優しく明るく人当たりが良い性格のため、個人的にも嫌いでなく、寧ろ好きな部類に入る。

 鞄を肩にかけると、彼女も私に続き床に置いた鞄を拾い上げた。「じゃあ帰ろっかー」という言葉と共に歩き出し私たちは音楽室を出た。



 宮澤さんがいるクラリネットパートは現在3年生3人と2年生5人が在籍している。彼女はクラリネットパートのパートリーダーで、かつ小柏くんと2年間同じクラスに在籍しており、高校に入ってからの彼と恐らく最も付き合いが長い人物だ。彼女ならば何か知っているのではないかと思い、私は彼女と話せる機会を作り出した。


「ごめんね急に一緒に帰ろうなんて言って」

「ん?別に大丈夫だよー。大体察しは付くし。小柏のことでしょ?」

 おぉ、と驚き思わず口がぽかんと開いてしまった。話が早くて助かる。小柏くんが辞めて1日のタイミングということもあって気が付いたのだろう。体の後ろで両手で鞄を持っている彼女は、私の反応を見るといたずらっぽい笑顔を見せた。

「当たり?」

「うん、当たり」

「えへへ、このタイミングで花那が連絡してくるってことは、そういうことなのかなぁって。で、何?小柏の何を聞きたいの?」


 彼女は微笑み、その後に私の目をじっと見つめた。彼女の目力に思わず目を逸らしてしまいそうになるが、呼吸と言葉を整理し問いかける。

「小柏くんがどうして辞めたか知ってる?」

「やっぱりそれだよね。でも残念ながら私もそんなに知らないんだよねぇ。小柏ってあんまり自分のこと話さないからさぁ。あいつ真面目じゃん?あんまり砕けた話もしたことないんだよね。話す機会は多かったんだけど、勉強がどうとか学校がどうとかここのフレーズが云々かんぬんしか話したことないんじゃないかなー。あ、あと辞めるから後のことはよろしく頼むって言われた。なーんか事情がありそうだったから何も詮索しなかったんだけど」

「そっかぁ。まぁ酒井にも言ってないんだもん。あんまり他の人に言う訳ないよね」

「で、花那が気にしてるってことはやっぱり何かあったの?問題起こして辞めたとか?」


 私はかぶりを振った。

「いやいや。多分何もない...と思う。退部届には受験勉強に力を入れたいからって書いてたんだけど、酒井はそれが嘘だろうって言ってて。それで小柏くんが辞めた本当の理由を知りたがっててさ。同じパートの宮澤さんなら何か事情知ってないかなと思って。」

「そうなんだ。残念ながら、小柏から直接何か聞いたりはしてないなー」

「辞める前、小柏くんに何か変わった様子はなかった?」

「うーん、そういえば変だったかも」

「変...って?」

「うーんと、いつからかは覚えてないんだけど、週に2,3回は21時くらいまで居残って練習するようになってね、土曜日も学校来て練習してたみたい。菅野先生から聞いたんだけで私は見てないんだけどね。で、急にそれが始まったと思ったら先週からパタッとそれが終わっちゃったのか早めに練習を引き上げるようになって。そしたら退部するーって言ってきて。あの猛練習の時期はなんだったんだろうなーって」

「なんか燃え尽きちゃったって感じだね」

「そう!そんな感じ。急に練習にも気合が入ってて、演奏聴かせて気になったところはないか?とか聞かれたりした。思い返してみればあの時の小柏はちょっと焦ってる感じはあったかもだけど。その燃え尽きが終わってからは元気なさそうな雰囲気だった。それで退部だったからあんまり驚きはなかったんだけど」

「それは確かに変だね。急に火が点いたのも燃え尽きたのも」

「うん、それもここ1か月くらいでの出来事だしね」


 宮澤さん曰く、小柏くんは『週に2,3度居残り練習をしていた』との事だが、彼が居残り練習をしていない日は恐らく塾がない日なのだろうと思う。酒井は彼について『今年に入ってから週4で塾に行っている』と言っていた。彼が真面目に塾に行っているのであれば、塾に行く曜日以外は真剣に部活に打ち込んでいたことになる。私は小柏くんと決して仲が良い関係ではないが、これまでの彼の印象を見る限りは真面目な人間なので恐らくそうだと思うが、彼が塾に行く日が何曜日で彼が何曜日に居残り練習していたのかは顧問の菅野先生に話を聞けば恐らく明らかに出来るのでまた確認しておこう。


 彼が辞める決意をしたのは先週で、そのタイミングに何か彼が心変わりする何かがあったのだろう。部活を辞める気でいた人間が週に3度ほど21時頃まで居残って練習するのは考えられない。それに、決意をしたとしても1週間で実行に移せるものとは思えない。恐らく彼は先週以前から辞めるかどうか悩んでいたのだろう。それこそ、受験勉強に専念するべきかどうかで。私は彼の行動が、病人が死の直前に急に元気になる”中治り現象”のようなものだと受け取った。




 小柏くんの話を終え、隣で新学期になってからの生活の変化について話す宮澤さんを余所目に思考を巡らせていると、私鉄駅前のバス乗り場に着いた。彼女と話し、小柏くんの退部理由は受験勉強に専念したいと言う意志以外にもあるという酒井の推察は当たっているように思えた。実際、『受験勉強しなさい!』と親に言われることもあったかも知れないが、これが直接的な退部の理由ではないだろう。なぜ、たった1か月の間で”猛練習する期間と熱が冷めた期間が生まれたのか”。この謎がある以上、やはり勉強だけが理由ではなく、吹奏楽部内での何らかの出来事が関係しているのだろうと感じた。


 私鉄で通学している彼女と私鉄の駅前で彼女と別れ、地下鉄で通学している私は地下鉄の最寄り駅へと向かう。別れ際に彼女が言った『明日から新入部員も入ってくるし、小柏にいて欲しかったってのが本音だけどね』という言葉が脳裏を離れないまま歩いていると、小柏くんが行っているらしい塾があった。外から塾の中を覗き見ると、偶然にも彼が勉強している姿が見えた。彼はサボらずきちんと塾に行っているようだ。

 そんな真面目な彼が、なぜ急に火が点き、燃え尽き、そして退部したのか。一人になり、情報を整理しする。地下鉄の入り口に着き、階段を下っていく。

 彼が練習に火が点いたタイミングは4月に入ってから。すなわち4月の第1週か第2週のどちらか。詳しいタイミングは顧問の菅野先生に聞けば分かるだろう。

 彼がその火が燃え尽きたのは先週。つまり4月の第3週。段々と彼の行動が私には理解出来てきた。



           ──────



 翌日、新入部員が入ってきた。楽器の選別を行い、その後にそれぞれのパート内での自己紹介を行った。私がパートリーダーを務めるダブルリードパートには浅野(あさの)さんと小林(こばやし)さんの2人が入り、浅野さんがファゴット、小林さんがオーボエを担当することになった。

 小林さんは中学の強豪吹奏楽部出身とのこともあり、音程がきちんと取れていて滑らかで綺麗な音色を奏でていた。経験年数によるアドバンテージがあるものの、私もうかうかしてられない。


「すごい!音色が安定していて綺麗だし指回しも滑らかだし、流石は経験者。中学で全国行ってただけあるねぇ」

「そんなことないですよ。先輩に比べたらまだまだです」

 彼女は耳を赤くしながら謙遜した。

「ウチに来たのは山崎先生目当て?」

「そうです。受験の前には亡くなられたので、受けるかどうか迷っちゃいましたけどね」

「そうだねぇ。受験生にとっても大変な時期に亡くなっちゃったよね」

「山崎先生の指導を受けるのが夢だったので残念でした...。私の他にも同じ中学から流川(ここ)に入った子がいるんですけど、その子と『どうしよっか』って相談したりしてましたね」

「そうなんだ。その子は吹部に入ったの?」

「入ってますよ。クラリネットやってます。すっごい上手ですよ。姉妹(きょうだい)の影響で幼少期からやってるみたいで。阿波加(あわか)って珍しい苗字の子なんですけど」

「へぇー。じゃあオーボエとクラリネットは安泰だねぇ」


 私が楽器を始めたのは小学校高学年になって入った地域クラブでの活動からだが、つくづく幼少期から楽器を始めていればと感じることは多々あった。センスや器用不器用など人によるところはあるものの、頭と体の動作で演奏をする吹奏楽に於いては、早めに始めるアドバンテージというものを感じやすい気がする。同時に人一倍苦労してきたのだろうという思いもあるが、それだけ今得られる優位性はあり羨ましく感じた。


「そう言えば、先輩は山崎先生の指導を受けていたんですよね。どんな感じでした?やっぱり厳しいんですかね?」

「あー、そうだねぇ...。厳しかったかなぁ。あはは...。でもおかげさまで結構上達したと思うよ」

 彼女の夢を壊さないためにもパワハラまがいなことを受けていたことは言わないでおこうと思った。彼女レベルの実力であればそんなに口出しはされないだろうけど、周りに怒声を巻き散らかす様子を知ると確実に幻滅するだろう。

「良いなぁ。せめてもう1年早ければなぁって思ってます」

 彼女は手と足を真っすぐにピンと伸ばし天を仰いだ。悪すぎたタイミングだとは思うが、悪く言うとこれも運命だったのだろう。だが、高校生の青春の時間・機会を奪うことになるのは残酷だと思う。私は彼女に気の利いた言葉をかけることが出来ず、話を逸らすことしか出来なかった。




 個人練習後、音楽室の鍵を返却するついでに顧問の菅野先生に数点の確認を行い職員室を出る。職員室の引き戸を閉めると、つい苦笑いを浮かべてしまう。ただ、誰も悪くはない。悪意はなく、時の巡り合わせによって引き起こされてしまっただけなのだ。校舎を出て、地下鉄の電車を待ちながらスマートフォンでメッセージアプリを起動する。部長の酒井へ『明日の部活ちょっと遅れると思う』とメッセージを打ち込み送信する。もう1件小柏くんへ『ちょっと話したいことがある』とメッセージを送信し、到着した電車へ乗り込んだ。



           ──────



 翌日、私は小柏くんを放課後費人目が付かない校舎裏に呼び出した。同じクラスの人間ではあるが、先に1人で教室を出て、待ち合わせ場所へ向かう。自分でやっておいて、なんだか告白みたいだなとドキドキしながら待ち合わせ場所に着くと、その5分後に彼が到着した。


「悪い、待たせたな」

「ううん、大丈夫。ごめんね急に呼び出して」

「それで、何の用だ。吹部あるんじゃないのか」

「うん。遅れるって言ってるから大丈夫。話したいのは小柏くんの退部理由について」

「酒井に聞けば教えてくれると思うよ。あいつは退部届に目を通してるから」

 私はかぶりを振り、返答する。

「退部届は私も見たの。でも、退部理由は『受験勉強に専念したい』の1つだけじゃないよね」

「どういうことだ?」

「退部理由の1つではあるけど、あれが退部の決め手になった訳じゃない。そうだよね?」

「何が言いたい」

「私は小柏くんの退部の決め手になったものを知ってる」

「じゃあ聞かせてくれ」

「ソロパートが吹けないと思ったから。だよね」

 彼は俯き自分の足元を見つめた。やがて何かを発そうと開けていた口を閉ざした。


「宮澤さんと、ウチのパートの新入部員の子に話を聞いて何があったかは分かったの。でも、なんで退部したかが私には分からなかったから...それを教えて欲しいの。皆にはもちろん言わない。気持ちを理解できる人は限られると思うし」

「気持ちを理解出来る人間は限られる…か。そうか、檀崎、オーボエだったもんな。そりゃあ、調べたら分かるし、気持ちも理解してもらえるか」

「うん。多分酒井だったら言い当てることは出来なかったと思う。私がソロ吹いてた人間だったから行動が理解できた」

「あいつはソロ吹いたことなかったもんな。で、『なんで退部したか』だったよな。仮入部で来た女の子がすっげー上手くてさ。俺がこれからどれだけ頑張っても、その子には絶対勝てないだろうなって思ったから...かなぁ」


 4月初週に決まったコンクールの自由曲『「ダフニスとクロエ」第2組曲 全員の踊り』には、クラリネットのソロパートがある。昨年のコンクールでは小柏くんがソロパートを吹いており、部の全国大会出場にも貢献している。ところが、4月の第3週に新入生の阿波加さんが仮入部でやってきた。阿波加さんは幼少期からクラリネットをはじめ、中学では全国大会出場も経験していることもあり、彼は実力の差を感じたのだろう。ソロパートが吹けないと悟り、彼の熱は冷めてしまった。


「ソロ吹くのは諦めて部に残ろう。とはならなかったの?」

「あぁ...。檀崎が分からなかったのはそこか。そうだなぁ、理由は2つあるかな。1つは俺がソロを吹きたいっていうのを知っているヤツが何人かいて、オーディションでソロが決まってからそいつらに文句言って欲しくないから。

 2つ目は...あんまり言いたくはないけど..情けないヤツだって思うだろうけど。自分以外の人間がクラリネットでソロを吹いてる姿を見て、俺は我慢出来ないだろうなって思ってさ...。俺、小学生の頃からクラリネットやってたから上手く吹けてる自信があったし、実際ソロも吹いてきた。大会のメンバーには絶対入ってたし。だからこそプライドがあったのか、自分じゃない他の人がソロを吹いてる姿を想像するとすげー悔しくてさ。経験年数が違う人なら納得できたと思うんだけど、あの子の経験年数は俺より少ないらしくて。経験じゃなくてセンスで負けてるって知って、自分が悔しくて堪らなくて。そんな事実を突きつけられた以上、ソロ以外のパート吹いてても満足しないんだろうなって気持ちになってきて。あの子から何かを吸収出来たかも知れないけど、悶々とした気持ちで吹きたくないし、そんな気持ちで吹いてたら部のためにもならないだろうなって思って。だから、辞めた」


「でも後悔はしてないよ。寧ろ晴々とした気持ちになってる。楽器をやるのに部活に拘る必要はないんだなって。そりゃあ山ちゃんの指導で上達したとは思うけど、楽しかった記憶はそんなになかったし。音楽教室に入ったんだけど、そっちで十分って思えた。まだ入って1ヶ月も経ってないけど結構楽しくやれてるんだ。今までが厳しい環境ばっかりだったからか、楽器ってこんなに楽しくやるもんなんだってなった。だからクラリネット自体は続けるつもり。俺には...これしかないからさ」




 去っていく彼の背中を見つめながら私は思い耽る。

 楽器だけに言えたことではないが、経験の積み重ねは実力になる。それ故に、長く経験を積んでいる事実は高い実力を持っている証明になる。だが、必ずしも経験を積んでいる人物が上手いかと言うとそうではない。センスややる気、感受性等によってそれが覆る可能性も大いにある。そういった項目は、場所や人物との関わり・タイミング等の運要素も絡んでしまう。才能やセンスによって実力に差が出ている以上、短時間ではその実力を埋めることは出来ない。時間をかければ、小柏くんの才能が開花する又はセンスが磨かれ、その実力差を埋める或いは逆転することも可能かも知れないが、彼に与えられた時間は2か月と非常に短い。経験年数が多い彼だからこそ、早々に白旗を掲げる行動を取った。


 ソロパートは特別だ。部の中で一番上手い人だけが吹くことの出来る優越感や、大勢の中で自分だけが吹くことができ大舞台で思うがままに自分を表現することの出来る特別感。奏者が上手ければ上手いほど、音楽が好きであればあるほど、その特別であるソロパートを吹きたいと感じてしまうものだ。彼もそうだし、斯く言う私もソロの魅力に魅せられた1人だ。私も出来るならソロを吹きたいと思う。


 私はどうだろうか。今夏のコンクール演奏曲の自由曲にはオーボエのソロパートは無いが、これから決定される課題曲にはソロパートがある可能性がある。そのソロパートが仮に私ではなく他の人が吹くことになれば彼と同じように複雑な心境になってしまうのだろうか。主観では同じパートの誰より上手く吹けている自身はあるが、客観的に聴けば違っている可能性もある。仮にソロパートがあるとして、私が吹けない可能性は十二分にある。


 私はソロを吹けないとなったとしてもコンクールで吹きたいと思っているが、ソロが吹けないとなった際にその判断を取れるだろうか。分からない、その確証はない。それが答えだ。私も彼と同じ選択をとった可能性がある。だからこそ、彼の気持ちが痛いほど理解出来たし、理解出来たその気持ちを私の心の中にしまっておくことにした。酒井へは虚偽の連絡をし、小柏くんの退部についての詮索から退いてもらう。小柏くんへはその口裏合わせをお願いした。




 空を見上げふと思う。私はなぜ部にいるのだろう。目当てで入った山崎先生はもういない。もうこの部活に拘る理由などないのだ。楽器を続けるのも小柏くんのように音楽教室に行けば良いし、個人だけでも十分に続けられる。これまで楽器は楽しく吹ければそれで良いと思っていたが、この部に入ってからは心から楽しめていたかは分からない。義務感を感じ吹いていたという表現が正確かも知れない。音楽教室で楽しく吹いているらしい彼が羨ましいと感じる気持ちがあった。


 私がそれでも部を続けているのはコンクールに出たいからだ。その一心で部活を続けている。部活を引退してからはどうしようか。今の所、楽器を続けるかは分からない。でも今はコンクールのため練習しよう。未来のことは引退してから考えよう。

「よし、部活部活!」


 ︎︎気持ちを入れ替え、私は小柏くんが去っていった方向とは別の方向へ歩き出した。他でもない今を楽しむために、練習に向かう。

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