完封負け
町内にはいろんな人が住んでいる。
ちょっと天然な町内会長の長嶋、いつも公園で立ち話をしている荒木と井端、常に貴金属をじゃらじゃら身に着けている成金野村など色んな人がいる。
中でも変り者なのが向かいに住む黒間だ。
大の野球好きで巨人一筋40年という筋金入りの巨人ファンだ。
息子の貞君はかの子と同じ小学六年生でリトルリーグに入っている。
こないだも敬遠された球をセンター前に打ち返してサヨナラ勝ちしたらしい。
子供が同級生なのと、親同士年が近いのもあっていつも親しくさせてもらっていた。
「どーもっ。野球始まった?」
「あら黒間さん今日もうちで見てくの?」
「みんなで見た方が楽しいからさ。ほいっ、ビール持ってきたよ。寛ちゃんいる?」
「居間にいるわよ」
勝手知ったる我が家のように、買ってきたビールを信子に手渡すと靴も揃えずにずかずか入る黒間。
「おっじゃましまぁーす」
黒間はいつもこの調子であった。
「おうっ、寛ちゃん」
「あぁ、飲みながら待ってたよ」
「どうだい?試合は」
「今二回表0-0だね」
酒を飲みながらピッチャーがどうした、監督がどうだと議論するのが二人のお父さんの楽しみだった。
「いやぁ参ったよ」
黒間は頭をかきながら言った。
「こないだもうちの息子がホームラン打ちやがってさぁ、監督もプロ入りがどうしたとか言いだしやがってまだ早いっつうんだよな。がははは。」
黒間は得意満面に自慢した。
「お宅のかの子ちゃんは女の子だからあれだけど、慎ちゃんはやっぱり野球やらすの?」
「いやぁ、下のは運動神経ないからね。それに慎太郎は昆虫博士に成りたいって言ってんだ」
「昆虫?あの?ぶっ、あーはっはっは。昆虫? ぷぷぷっ。いやあ、昆虫ですか?あの?飛んでる汚いヤツ?参った参った。虫ですか」
黒間は腹を抱えて笑った。
「いやあ、しかし虫少年て言うのも・・・」
「おい。」
「ん?」
テレビの野球を見ながら、ビールを片手に寝っ転んだ寛治が言った。
「おい、そこのボロ雑巾みたいな顔したお前っ!」
「ぞっ、雑巾てっ!」
体を反転させながら黒間の方に振り返る寛治。
「うるせーこのションベンハゲがっ!野球ができたら偉いのか?あ?うちの子はそりゃあ優しい子なんだよ。お前みたいに野球しか頭にないぼんくらとは分けが違うんだ。分かるかっ!」
昼間からビールを二本飲み干していた寛治は止まることを知らなかった。
「あ、ああ。」
「返事ははいだろっ!」
「はっ、はい。」
「アホみてーな顔して、はっ、はいじゃねーんだわ。指を全部ピンと伸ばして気を付けの状態であごをクッと出しながらハイっ!だろ?」
「ハイっ!」
普段は温厚だが、酒を飲むとたまに変なスイッチが入ってしまう寛治の事を知る黒間は素直に従い、あごと尻をクッと出した。
「もういいから家戻って極上の日本酒があっただろ?あれ取ってこい。」
「いや、あれは・・・」
「取ってこい。」
寛治の目がキラリと光った。
「お返事は?」
「はいっ!!」
「よーし、いい返事だ。走れっ!」
「はいっ!!」
「黒は返事だけはプロ級だわ。あーはっはっは。」
寛治は酔うと性格が一変してしまう所があった。
酔って失敗することも多く、ほろ酔い気分で犬の散歩に出かけて違う犬を連れて帰ってきたり、出て行ったっきり帰って来ず、近所のおじいさんの家から朝帰りするなどエピソードを上げたらきりがない。
「寛ちゃんそれ位にしてあげないと。」
見兼ねた信子が台所から割って入った。
「あ?お前もお前だよな?毎晩ちくわとコロッケばっか食わしやがって。見ろこのちっちゃい肉を。たまには分厚いステーキが食いてーやな。でっかいのは尻だけか?あ?」
点になった目が徐々に吊り上っていく信子。
「・・・おう」
「あん?」
言いたいことを言い散らかして気分上々に寛治が振り返った。
「おいおいおいっ!すっとこどっこい!お前今なんつった?今なんつったんだっ!尻がでかい?そう言ったか?」
「い、いえ。」
ただでさえ寝癖でくちゃくちゃな寛治の髪を掴みながら信子が続ける。
吐息が顔に届きそうな近さだが、ロマンチックは感じない。
「そう言ったな?」
「いえ、覚えてません。」
寛治の顔色が赤から紫に変わった。
「言ったんだわ。15時42分に確かに言ったんだわ。言っていいことと悪いことがあるな?えっ?
尻のことは言うなと言ったな?あっ?
この尻が何か悪いことしたか?あんっ?』
「いえ、ぎりぎり大丈夫です。」
「そうだわな!ぎりセーフだわな!大体肉が食いたかったらもっと稼いでこいっ!返事はっ!」
「はいっ!」
寛治は正座をした状態で、指を全部ピンと伸ばして両膝に付けて返事をした。
玄関には家から取ってきた日本酒を片手に恐る恐る戦況を見つめる黒間。
「あとお前。」
黒間はドキッとした。
「わっ私ですか?」
「おい黒っ、お前しかいないだろ?」
「はいっ!」
やっちまった感ありありの表情で信子を見つめる。
「もう反省してるみたいだから許してやるけど、うちの子を悪く言うと許さないよ。うちの子も黒の子も大事な宝物なんだ。」
「はい。反省してます。」
「よし。じゃあ16時からドラマ愛に溺れてリターンズが始まるからチャンネル変えて。」
「え?でも、今満塁のチャンスなん・・・」
「か・え・ろ」
「はいっ!」
結局信子の前では二人とも成すすべが無いようだ。
二人とも、このピッチャーが相手では全く歯が立たない事を知っていた。
「黒ちゃん家で野球の続き見てきていいですか?」
「終わったらすぐ帰ってくるんだよ?」
「承知致しました。行こう。そして、日本酒を開けよう」
「え、あ、うん。」
二人は泣きながら去って行った。
「かの子、始まるよ」
日曜の夕方、この時間のテレビは女子のもの。
それがこの家のルール。
それがこの家の力関係や勢力図を象徴していた。
「座って座って」
黒間家の居間に腰を下ろし、テレビをつけると互いを慰めるようにグラスを交わした。
バックスクリーンの辺りを颯爽と飛び回るツバメが二羽、自由に気持ちよさげに春を謳歌している。
気の知れた男同士、やっとリラックスして酒を片手に野球観戦できると思ったおやじが二人。
その自由は黒間家のエース妻の花子が帰宅するまでの後30分だという事にまだ気づいていない。