何もわからずただ雨に濡れていた。目の前に少女が現れて世界はキラキラと輝きだした。
俺は鬱々とした、暗い雨の中、ただ佇み濡れている。
人が前を通っても、誰も気付かない。
そのうち、自分が誰かも解らなくなってきた。
分かっていることは、ただ何かに惹かれていることだけ……
ふと視線を感じて下を見た。
まだランドセルが似合う、可愛らしい少女が俺を見上げている。
久し振りに、人と目が合った。
「お兄さんずぶ濡れじゃん。風邪引いちゃうよ?」
「あはっ!びっくりした顔!!話し掛けられると思わなかった?」
「ほら、ウチすぐそこだから行こ?」
「ただいまー!」
「おかえり」
「おかえりなさい。あら、どうしたの?」
「このお兄さん、雨の中ぼーっとしててさ。風邪引いちゃうから連れてきた」
「あらあら、でもちょうどよかったわ。今お風呂が出来たところなの。あなた、先に入って貰ってもいい?」
「ああ。風邪を引いたら大変だ」
「よかったね!あ、お父さんの服貸してあげてよ」
「いいけど、彼、ガタイが良いな。お父さんの服で入るか?よっこらしょっと」
「ほら、早くお風呂に案内してあげなさい」
「はーい!」
「服はそのカゴに入れてね。あとでお母さんが洗って乾かしてくれるから」
「シャンプーは青いのでリンスは水色のだよ。体洗うタオルはあそこに掛かってるの使って」
「それじゃ、ゆっくり温まってね!」
「はは。なんとか着られたな。お風呂は熱くなかったかい?」
「顔色はだいぶ良くなったみたいね。さ、ここに座って。お父さんの晩酌に付き合ってあげてくれる?」
「お兄さん!遠慮しないで!ほらほら!」
「愛はお母さんを手伝ってちょうだい。今夜はカレーよ」
「やったぁ!お兄さん!絶対に食べた方がいいよ!」
「母さんのカレーは絶品だからなぁ。ほら、ビールは飲めるかい?」
「それで、君はなんで雨に濡れて立っていたのかな?」
「お兄さんはまだ自分が誰かも思い出せないんじゃない?そうだそうだ!今夜は泊まっていくでしょ?」
「こら、それはお母さんのセリフでしょ?」
「えへっ!」
「もう。こほん。今日は遅いから泊まっていってね。お風呂に入っている間にお布団を用意しておいたから。服もまだ乾いていないし、雨も止まないし。ね?」
「はは、気にするなって。今は行く宛もないだろ?よっこらしょっと、じゃあお父さんはお風呂に入ってくるかな」
「あ!後であたしも入るんだから、あんま熱くしないでよ!」
「はいはい」
「どうした、眠れないか?」
「知らない家だからな」
「それでも寝なさい。気付いていないだけで疲れているんだ」
「大丈夫、明日はちゃんとやってくるから」
「あの子の様子はどう?」
「まだ大丈夫だ。今日連れてきてよかったよ」
「愛の勘はいつも凄いわ」
「よっぽど創太との事が忘れられないんだろう」
「そうね」
「お兄さん!おはよっ!!」
「よく寝れた?うん!クマちゃんどっか行ったね!」
「おはよう。その様子だと、あのあとはしっかり寝られたみたいだな」
「あら、おはよう。朝ご飯にするからそこへ座って。愛、お手伝い」
「わかってるよー!」
「ねぇねぇ、お兄さん。今日は何するー?」
「もう愛はすっかり君に懐いたな」
「学校?行けないの!」
「愛は普通の子じゃないから。もう気付いているでしょう?もちろん私たちもよ」
「お仲間、みたいなものかな。だから、君の相談にものれる。気が向いたら話してくれるかい?」
「うわぁ!お兄さん絵が上手だね!」
「おお!鉛筆一本でここまで描けるのか!」
「凄いわね。もしかして、あそこの美大生さん?あら、本当」
「え!じゃあ創ちゃんの後輩さん?」
「はは、そうだな。でも、創太の事は知らないだろう。ずっと前に卒業してるからな」
「創ちゃんはね、あたしの弟なの!すっごく絵がキレイなんだよ!なんだっけ、ゆっさい?」
「油彩画な。そうだ、君の専攻は?へぇ、そんなに絵が上手なのに彫刻なのか」
「ふふふ、専攻が彫刻でもデッサン力は私たち一般人に比べたら高いわよ。ねぇ」
「あの子、だいぶ自分の事を思い出してきたみたいね」
「そうだな。ひと安心だ」
「今夜はすき焼きよ」
「やったぁ!」
「君のお陰でいつも以上に豪勢だよ」
「あなた?」
「いつも以上にだよ。毎日美味しいご飯をありがとう」
「もぅやだ!うふふ」
「あー、またイチャイチャしてるー。お兄さんがぽけっとしてるでしょ!」
「はは、すまんな。ほら、肉を食え肉を。体力を付けないとな」
「そうよ。体力を付けないと。あ、生卵はいる?」
「お兄さんが来てからもうすぐ一週間だねー。ウチ、慣れた?」
「気にするな。いつまでも居ていいとは言ってあげられないが、ぎりぎりまで居ていいから」
「あと一月ってところかしら。ゆっくり癒して帰るのよ」
「大丈夫!お兄さんはちゃんと帰れるから!うん、知ってるよ。お兄さんはあそこの病院に入院してるんだよね?」
「どうやって帰ればいいのか分からないのだろう?今は魂が傷付いているんだ。だから自分の身体に近付けない」
「だからね、ここでゆっくりと癒して体力を付けなさい。体力が無いと、戻っても直ぐに刈り取られてしまうから」
「はは、不思議そうな顔だな。前に言ったじゃないか。お仲間みたいなものだって。愛が君をウチに連れてきたってことは、まだその時じゃないってことだ」
「愛があなたを見付けたのが今日だったら、戻れて居なかったかもしれないわ。まぁ、それは神のみぞ知る事だけれどね」
「今日は皆で病院へ行こうか。今の君なら戻れるだろう」
「お兄さん、良かったね!」
「お見舞い、何も用意出来ないけれど、ごめんなさいね」
「やり方か。額と額を近付ければ戻れる」
「きっと大丈夫よ。自信を持って」
「お兄さん、がんばっ!」
かけるくん、じゃあね!バイバイ!!
──ピ、ピ、ピ、ピ、
「う、、うー、」
「かける?翔っ!!」
「兄貴っ!母さん俺、先生呼んでくる!」
「よぉ、相棒。死の淵からの生還おめでとう」
「お前なぁ。まぁ、さんきゅ」
「せっかく生き延びたんだから、その経験を生かせよ?で、なんだっけ」
「うーん。ウチの卒業生で油彩画の“ソウタ”と言ったら、八島創太だと思う。つーか、それ意外じゃわからん」
「八島創太って史上最年少でルーブルに載った、あの?」
「ああ。あの八島創太だ。しっかし、お前が油彩の事を聞いてくるなんてな。急にどうしたんだ?」
「ちょっと、な」
「ごめんください」
「いらっしゃい。散らかっていてごめんね」
「え?お父さん?」
「はは、似ているかい?でも私は父さんじゃないよ。さ、上がって」
「お、お邪魔します」
「三人ともこの写真くらいだっただろう?私はもうこの頃の父さんの歳を越えてしまったよ。ほら、この子供が私だね」
「気付いていると思うけど、交通事故でウチの家族は私以外亡くなってしまったんだ。だいたい35年前の、私がまだ幼稚園児で、愛ちゃんは小学校に上がったばかりだったかな」
「私も即死だったはずなんだけれど、愛ちゃんのお陰で助かったんだよ。皆が奇跡だと言っていたね。愛ちゃんは不思議な力を持っていたんだ。どうもその力を私に与えてくれたらしいんだよ」
「私は1年近く昏睡状態で入院していたんだが、その間ずっと自分の身体に戻れなかったんだ。そんなある日、愛ちゃんにウチに連れて来られてね。母さんと父さんとも再会して、消えかけていた私を救ってくれたんだよ」
「本当は死んだばかりの人間がやるのは駄目な事なんだけれど、手伝いをする変わりにやらせてもらったって言っていたかな」
「翔くん、君も愛ちゃんに連れられてこの家に来たんじゃないかい?」
「そうです。俺も愛ちゃんとお父さん、お母さんに助けてもらいました、っ」
「そうか。まだ三人とも元気だったかい?」
「っ、はいっ、元気でした、うっ」
「ほら、これで拭いて。私以外にも翔くんが覚えていてくれて嬉しいよ」
「──はぁ、すいませんでした」
「気にしないで。私の家族の為に泣いてくれてありがとう。そうだ、翔くんも美大生なんだよね?私の絵でも見ていくかい?」
「いいんですか?是非!」
「これは……」
「気付いたかい?私たちがあの時に見ていた世界だよ。三人の周りは闇が晴れる様にキラキラと光っていただろう?」
「はい。正しくこの絵の通りでした」
「この絵を世に出してからかな。死の淵から蘇った人々が私に会いに来るようになったのは。ふふ、来た人はみな私を見てお父さんって呟くんだ。その時の記憶が無くてもだよ?はは、面白いだろう?」
「でも、完全に覚えていたのは翔くんが初めてだ」
「たぶん愛ちゃんが記憶を残してくれたんだと思います。八島さんと俺を会わせる為に」
「そうだと嬉しいな──」
お読み頂きありがとうございました。
活動報告でこのお話について少し触れています。
お時間があれば、そちらもよろしくお願いします。
2020.09.05 朝木 花音