マクベス夫人のきれいな手 ~コロナの日々でぼくたち/わたしたちは 2020・初夏~
病がちな母と二人で暮らすわたしは、妻のいる男性との3年半の不倫関係を終えた後は、2.5次元舞台の推しの若手俳優・龍くんを観に行くことだけを楽しみにしていた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大で初の主演公演が中止に。家でも職場でも心塞ぐことばかりで心が潰されそうな夜半、わたしは龍くんのインスタを見て…。
1
推しの龍くん、初の主演公演が、新型コロナウイルスの感染拡大で中止になった。
予想はしていた。していたが、はやりショックで、スマホでそのニュースを見た後は、しばらく何も考えられず、乗っていた電車を3駅乗り過ごした。
反対側昇り電車に乗り換えて、乗り過ごした分を戻り、高架プラットフォームに降り立つと、濃い夕焼けが広がっていた。
日が延びたとはいえ、まだ6時前。非常事態宣言発令前だったら、こんな時間に帰って来ているなんて、絶対にありえない。事務職社員にすら、付き合い残業の同調圧力が高い、古い、古い職場だ。発令後には、さすがに退社時間は定時になったけれど、いまだにリモートワークのリの字も聞こえてこない。
駅を降りると商店街。何軒かおきにシャッターが閉まっているのは、外食店だ。
スーパーや惣菜店はやっていて、いつものように、そこで今晩のおかずを買う。以前は、母が夕食の準備をしてくれていたが、3年前にガンを患ってからは、基本、わたしがおかずを買って帰るようになった。
「ただいま」
母と二人で暮らす古い一戸建て。玄関を開けても、母の返事はない。幸い、再発はしていないのだが、手術と術後の治療を経て、寝たり起きたりの生活になってしまった。父はすでに他界している。
わたしは、そのまま、家の中でどこも触らないように真っすぐに洗面所に向かう。そこで、手洗い。テレビでもネットでも、洗い方の指南をしてくれる。でも、そんなことは、よく知っている。だって、今回感染が広がる前から、いつも、こうして手を洗っていたから。
手洗いの次。
次は、自分の部屋に戻り、カバンをしまう。そして着替え。本当は、衣類をすべて、すぐに洗濯してしまいたいのだが、現実問題としてそれは不可能だ。だから、洗濯できない衣類はそのままクローゼットにしまう。
そして、シャワーを浴びる。
髪の毛から足の指の先から、何から何まで、念入りに。
実は、ここまでのプロセスも、前々からのわたしの帰宅後のルーチンである。
それでもはやり、感染拡大後は、手洗いの回数が何倍にも増えた。
台所で惣菜を温め、母を呼びに行き、一緒に夕食を食べる。
母はだいたい一日ずっとテレビを見ているので、食事時の話題は、ワイドショーのことばかり。今は、新型コロナウイルスのことばかり。げんなりはするが、以前は、自分の体調のことばかりで、その前は、わたしの職場やプライベートのことを根掘り葉掘り聞きたがった。その質問の向こうには、結婚を考えている相手がいるのかいないのかを聞きたがっているのが透けて見えていたので、まあ、今の方が聞き流すのにストレスはかからないかもしれない。
夕食の後片付け。母はまた自室に横になりに行ってしまい、ダイニングのテレビを消す。皿や茶わんを洗う流しの水音だけになる。
そこでわたしはまた、龍くんのことを考える。
龍くんは、アニメを舞台化した、いわゆる2.5次元舞台や2.5次元ミュージカルで売り出し中の若手男優だ。年は23だから、わたしより7つも下ということになる。少し小柄で童顔、かわいい系なんだと思う。いままでは、ずっと脇役ばかりだったのだけれど、少しずつ、大きい役が来るようになって、ついに、主演公演が決まったのだ!
それがファンにとって、どれくらい嬉しいことなのかは、…おそらく、ファンになったことがない人には絶対に分からないだろう。
わたしにとって龍くんは、もちろんアイドルであり、恋人であり、弟であり、…すべてなのだ。わたしが費やす365日24時間は、つまらない仕事や、面倒な家事や、母の愚痴を聞くことや、鬱陶しい諸々は、すべてが、舞台上の龍くんに会いに行くための試練のようなものと言っていいい。
主演公演のタイトルは、「マクベス!」。
原作はやっぱりアニメ。シェイクスピアの「マクベス」を、マクベス夫人を主人公にして、しかも未来設定に変えてあるのだけれど、キャストは全員男。それで、そのマクベス夫人役を、龍くんが務めることになったのだ。
これって、大抜擢だったのに。
公演決定を知ったときには、何を見ても世界は輝いて見えたのに。
すべてに、感謝したい気持ちになったのに。
ああ、生きてきてよかったと思ったのに。
感染がどんどん広がるとともに、わたしの唯一の希望にもどんどん翳りが差して。
そしてついに今日、光は潰えたのだ。
「痛!」
茶碗を洗っていて、また、指の股のあかぎれが口を開いた。
自分がいわゆる「潔癖症」なのは、分かっている。
それが、最近さらにひどくなっていることも分かっている。
それでも、わたしは目の前の現実と折り合いをつけながら、手を一生懸命に洗いながら、やっていくしかない。
龍くんの舞台が中止になっても、わたしには何もできず、ただ、ここで手を洗って。
退屈な職場でも。
イジメやセクハラがあるわけではない、ありがたい正社員の座。
何も持っていないわたしは、この座を死守していかなくてはならない。リモートワークにしてもらえなくても、バカみたいに手を洗ってあかぎれを作ってでも。
そうでなければ、母の国民年金だけでは、食べていくことだけだって、出来やしない。
しかし、世の中は、そんなに甘くはなかった。
2
朝、出勤すると、職場が妙にざわついていた。
「どうしたの?」
後輩の子に聞くと、理事長が来るという。
うちは、そこそこ名の通った老舗企業グループから出資を受けてやっている財団法人で、実態としてはオーナー一族の資産管理、それに社会貢献やグループ内外にむけた福利厚生事業などをこじんまりとやっている。理事長は非常勤で、親会社の役員である。
いつもは親会社の方にいて、こっちに来ることは年に2回、新年と年末くらいしかないのだ。
「何ごとだろう」
「わかりませんけど、こんな時期だし、何か嫌ですね」
後輩は声を潜めるが、この子の地声は大きく、部長がこちらをちらりと見る。
わたしたち誰もが落ち着かないまま、9時半ぴったりに、理事長が現れた。
常勤の専務理事を伴っている。
それを全社員が起立して迎える。
「おはようございます」
理事長は顔色が悪かった。もう嫌な予感しかない。
「非常事態宣言が出ている中、みなさんには、ご苦労をおかけしています」
何か、理事長はとても疲れていた。
「みなさんもご存じのように、我がグループは非常事態宣言による自粛で、たいへん大きな悪影響を受けています。もともとが、昨年の消費税増税から業況の悪化は著しく」
嘘だ。
商売が厳しくなったのは、もっとずっと前からだ。
わたしが入社してからの8年でも、世の中、どんどん変わってきた。
でも、この企業グループは、全然、変わらない。変われない。
わたしだって、親会社の決算ぐらいは気にする。
たしか、ここ数年は赤字だったはずだ。
でも、老舗だけあって、資産はまだあるはずだ。
潰れるようなことは、無いはずだ。
「それがこのコロナ問題で、もはやどうにもならないと判断しました。昨日、取締役会を行い、グループの事業規模を採算の取れている半分に縮小し、残りの事業は売却できるものは売却、それ以外は閉鎖することとしました。たいへん申し上げにくいが、当財団法人は閉鎖になります」
わたしは甘かった。
たしかに、本体は潰れはしない。そこは思った通り。だが、儲けを出せないわたしたちは、本体を生かすために切り捨てられるのだ。
部長がヒッと、息を吸い込むのが聞こえた。確か、まだ子供が中学生のはずだ。住宅ローンだってあるはずだ。
後輩の子は、口に手を当てたまま、凍り付いている。
しかし。
あれ?
と、わたしは思う。どうしてだろう、わたし自身は意外と冷静な気がした。
「本社からの出向者のうち、一部の方には、本社に戻ってもらいます。それ以外の方は、たいへん申し訳ないのですが……」
理事長の話が続く。
「退職となる方の勤務は6月末日までになります。事後処理が必要ですが、それは本社からの出向者で対応します。退職金は十分に割増をし、本社人事部が再就職先の斡旋には全力を尽くさせてもらいます……」
あと2か月半。
それで、わたしは失業するらしい。
ああ、何で、わたしはこんなに冷静なんだろう。
理事長が本社に帰って行った後、オフィスにはもう誰の声もなかった。
みんな、黙っていた。総合職は男性ばかり5名いるが、いずれも本社からの出向になる。ただし、全員が戻れるわけではないということだ。5人とも、黙ったままでそれぞれ、仕事に戻っているふりをしている。が、やはり何か様子が変だ。本社に戻れる人にはすでに内々に連絡が行っているのだろうか。お互い、疑心暗鬼になっているのだろうか。
総合職以外では、本社を定年退職したシニアのおじさんが、この財団の方にプロパーとして再就職している。こちらが2名。おそらく、彼らは解雇だろう。そして、わたしたち事務職2名もまたプロパーで、解雇となる。
ランチに、後輩と一緒に外へ出た。レストランはどこも店内で食べることは出来ないけれど、テイクアウトをしているところが何軒もある。そこでサンドイッチを買って、近所の公園に行った。
公園の真ん中には比較的大きな桜があって、ついこの間まで、ここで花見が出来た。今は葉桜になり、風にそよいでいる。天気もよく、晴れやかで、陽光が目に染みる。
「参っちゃいましたねえ」
後輩はベンチに座ると、湿気の全然ない声でそう言った。それで、容器を開け、サンドイッチにかぶりつく。
彼女はまだ入社3年目、しかも高卒だから年は20そこそこだ。わたしとは10近く違う。
一つ一つの仕草が若いのは、年齢のせいだけでなく、彼女の心の中での「本職」がガールズバンドのボーカルだからかもしれない。もちろんアマチュアではあるけれど、まだ、プロになる夢は諦めていないのだ。
「参ったわねえ」
「どっか、働き口を探さなくちゃですよ」
何があっても、すぐににこやかな彼女。
彼女のご両親はまだ若く、父親は現役のサラリーマンのはず。彼女いわく、勘当同然で一人暮らしの身とは言うが、いざという時に頭を下げれば寝床と食事が保証されているのは正直うらやましい。
いや自分も、父が生きていた10年前はそうだった。
「あ~あ、今は、コロナウイルスでライブも出来ないし、もう散々ですよ。でも、お金が出て行かないから、そこはいいか。あはは」
ちょっと、がさつな彼女。
細かいミスが多くて、何度注意しても、またミスする彼女。
時々、無神経なことを言ってしまう彼女。
でも、みんなを明るくする彼女。
なぜか、みんなが許してしまう彼女。
だって、彼女は、人の陰口は言わない。
人を羨ましがることもしない。
わたしがフォローしておくと、必ず、すごく良い笑顔で感謝してくれる。
「でも、ホント、参っちゃったなあ」
彼女はあっという間にランチを完食してしまうと、コドモの目をして言った。
「ねえ、ミチコさん、もう早引けしちゃいましょうよ」
「え?」
「どうせ、わたしたち、クビになるんだから」
「そんな無責任なこと、出来ないよ」
「そんなの、クビにならない人がやればいいんですよ。ね? もう早引けしましょうよ」
そう言い募りながらも、わたしが早引けするなどとは思ってはいないのだ。
「ダメよ、それは。それはダメ」
「もう、硬いなあ、ミチコさんは」
昼休み時間が終わる5分前に職場に戻ると、まだ、職員は半分も戻っていなかった。
午後は、外出そのまま直帰が4名、いちおうオフィス内に定時までいたのは、専務理事と、本社に戻るのが固そうな課長代理と若手、それに、事務職が2名だけ。
「ほらね? ミチコさんは硬すぎるんです」
退社時、別れ際に、後輩はそう言ってわたしの肘をとんとんと叩いた。
3
帰りの電車では、イアフォンで、ずっと推しの龍くんの歌を聴いていた。これまでに龍くんが出演したミュージカルの歌。音源をスマホに落として。
でも、歌に浸ろうとしても、いつものようにドキドキして来ない。
わたしの中は、いつまで経ってもしんとしている。
実は、就業時間中に、ネットで失業手当について調べた。それから、退職金規定について調べた。あと、うちの貯金、母の年金。
わたしは計算する。
はじめは暗算で。次第に、スマホの計算機で。いつもわたしに、龍くんという、ちょっとした夢と希望を与えてくれるスマホが、今は冷徹な計算機。いつも冷静なわたしが、それを操る。
もちろん、このまま無職ではお金が足りなくなる。
こんな時期に職を失って、うまく再就職できるだろうか。
特に手に職があるわけでもない。
分からない。
どうすればいいのか。
どうやって生きていけばいいのか。
「ただいま」
昨日と同じセリフ。そして昨日と同じように、母からの返事はない。解雇されることを、今日は母に告げるつもりはない。
母は弱い人だ。
そんなこと、子供の頃には分からなかった。それは、父が支えていたからだ。おそらく、父と結婚する前は、祖父母たちが母を支え、守っていた。
それが、祖父母が逝き、夫を亡くし、支えてくれる人たちがいなくなり、さらには自分も病気になって、そのたび、母は弱っていった。
いつの間に、わたしが、母を支える人になっていた。
わたしは、母のやさしいところ、繊細なところ、良いところをたくさん知っていて、その恩恵を母から貰ってきた。
母よりわたしの方が強いなら、そして、若くて元気であるならば、わたしが支えるのは当たり前のことだ。
わたしは、いつものように、そのまま洗面所に向かう。
水道のレバーを下げ、たっぷりとした水量で、ぬるま湯を出す。
湯を両手に当てる。
よく流す。
そして、薬用ハンドソープを掌に取る。
しっかりと泡立てて、手の甲、手首、指と指の間、爪の間。
わたしは、洗う。
手を洗うのだ。
完全に洗うのだ。
ああ、夢中で洗っていると、時間が過ぎていく。
この歌を歌い終わるくらいの時間、洗いましょうと、CMで言っていた。
そんな時間、とうに過ぎた。
まだだ、まだきれいにならない。
まだ、手を洗い終えられない。
わたしは失業する。
あかぎれがまた開く。
こっちのあかぎれも開く。
ひどい手荒れ。
わたしは一人で。
わたしは、どこで間違えたのだろう。
わたしは、漸く水を止めた。
何分間、洗っていたのだろう。
手洗いの時間がどんどん長くなる。
夜、ベッドの中に入って、眠りに落ちるまでが至福の時間。眠ってしまえばすぐに翌朝が来て、また会社に行かなくてはならない。だから、眠るまでの時間だけが、愛おしく、惜しく。
例によって、龍くんの歌を聴きながら、でも、今晩ばかりは心が安らがない。
会社のことをどうこう考えてしまう、わけではない。
だって、わたしは、会社に人生賭けてきたわけでもなんでもないのだから。
ただ、どうしてかなあ、どうしてこうなったのかなあと、つい思ってしまうだけだ。
どこからずれたのかなあ――。
わたしは、じっと、荒れた掌を見る。
自分が潔癖症だと感じたのは結構昔のことで、小学校高学年くらいからは、その認識があった。特に、掌が不潔な気がすることが多くて、いつも念入りに手を洗った。
潔癖症には、波があった。あまり汚れが気にならなくなる時期と、すごく気になる時期。素人考えで、ストレスがかかると潔癖症がひどくなったりするのかなと思ったりはしたが、自分では関連性があるような無いような、いまひとつ、はっきりしなかった。
そう、たとえば、あの時期。
わたしは24、彼は35だった。彼に奥さんがいることは、はじめから分かっていた。
そこから3年半、不倫関係は続いた。
別に騙されたとは思わないし、後悔をしているわけでもない。
彼はわたしに期待を持たせるようなことは一切言わなかったし、わたしもだから期待はしなかった。
ただ、引き込まれるように、そうなってしまったのだ。
その間も、わたしの掌のあかぎれは、ひどくなったり、良くなったりを繰り返していたような気がする。
彼が海外に転勤になり、二人の関係は終わった。
あれから3年、彼はまだインドにいる。もし、彼が転勤になっていなかったなら、まだ、関係は続いていたのだろうか。それは、わたしにとって、しあわせなことだったろうか。そもそも、しあわせって、何だろうか。
彼と別れて半年が経った頃、わたしのあかぎれは、少しだけひどくなっていた。そこでわたしは、大学時代の友達に誘われて初めて見に行った2.5次元の舞台で、跳ねて踊って歌う、まだほとんど新人の龍くんと出会ったのだ。
4
珍しく、夜中に目が覚めた。
しかも、ぱっちりと。
そして、泣いていたことに気づいた。
でも、どんな夢を見ていたのかは、何も覚えていないのだ。
こんなことって、ない。
わたしにとっては異例尽くしだ。
スマホをみるとまだ4時前で、しばらくは目を閉じてもう一度眠ろうと努めた。でも眠れなかった。もうわたしの体内時計は勝手に朝を迎えていた。
諦めて、スマホをつける。それで習慣になっている、龍くんのインスタを開いた。
新しい写真がアップされていた。
そこは海だった。
朝の海、のようだった。
「家からのジョギングコースの途中です。朝一は誰もいなくて、だからここでいつも一人で歌とダンスの練習をします。公演は無くなっちゃったけど。」
どこの海か、場所は書いていない。書いたらきっと、ファンが来てしまうから。
でも、わたしは、この海を知っていた。
東京湾岸、千葉よりの。
3年半、彼との不倫関係の中で、あまり人目のつく場所は出歩けなかったが、この海は、二人で行った数少ない場所の一つだった。彼はバードウォッチャーで、ここは、彼とっておきの、秘密のスポットだった。
インスタを見て、ああ、こんなことってあるんだと、わたしは感動していた。
わたしの中でなかなかに複雑な位置を占め続けている過去。アイドルのおっかけにほぼ等しい状況にある今。その二つの時間の、ほとんどあり得ないようなレアな繋がり。どちらかと言うと、この繋がりに対しては、わたしの過去・現在・未来をいろいろ考えてしまって皮肉な思いに捕らわれそうなのに。
その時、わたしに、そうした影は全然なくて。
ただただ、感動してしまったのだ。
なぜかは分からないけれど、もしかしたら、30年間の人生の中で一番、心を動かされていた。
小さな少女に帰ったように。
急に涙がこぼれて、止まらなくなった。
わたしはベッドから起き上がった。
わたしは決めた。
ここへ、この海へ行こう。
家からこの海まで1時間もあれば着く。
会社は遅刻にしよう。
「構いませんよ! いってらっしゃい」
頭の中に、会社の後輩が拳を突き出しでいる様子が浮かび、背中を押された気がした。
真っ暗な中、そっと家を出た。
心配性の母には、仕事の関係で始発で行きます、と書置きした。
高校の頃、吹奏楽部の朝練で、演奏会前にはいつも、夜明け前、真っ暗な時間に駅に向かった。あれ以来のことだ。不思議な時間帯だと思う。残業や飲み会で深夜に帰宅する時と同じ暗さなのに、匂いのようなものが全然違うのだ。
電車は空いている。緊急事態宣言でリモートワークが増えている今は、なおさらだ。
ターミナル駅で乗り換え、山手線を経由してしばらく電車に揺られる間も、ずっと空いていた。まだまだ、外は暗かった。
龍くんの海の最寄り駅に着いた時にも、空は暗かった。タクシーを呼ぼうかと思ったが、スマホの地図でみたら、歩いても30分もかからずに着きそうだった。
見上げると、ごくかすかに、気づくか気づかないかくらいのペースで夜が明けていく。わたしは、ゆっくり歩いていくことにした。
新型コロナウイルス感染拡大で、このところはずっと、職場か、そうでなければ、家に閉じこもっていることが多かった。
いや、それだけではない、わたしはいつの頃からか、こんなふうに空を見上げながら、ちょっとバカみたいに意味もなく、夜明け前の無人の海沿いを歩く的なことは、まったくしなくなった。いやいや、そもそも、こんなことをしたことがあっただろうか。
自分が特別に優等生だったとは思わない。不倫関係にすら、するっとなってしまい、しかも、それを受け入れていた。
抵抗なく?
抵抗はあった、はずだ。
でも、自分にとっては、そうなることがものすごく自然に感じられた。
そうなっていきながら、ああ、何かいびつだなあと思ったような気もするけれど、そんなちょっとしたわだかまりは、手を洗って、さっさと洗い流した。
みんな、洗い流した。
ああ、夜が明けていく。
空がきれいだ。
そこで、わたしがわたしを鼻で笑う。
だから何? 夜が明けるから何だっていうの?
仕事はなくなり、母は衰え、わたしは一人だ。
夜が明けるのなんて、太陽は昇るんだから当たり前だし、問題は何も解決などしない。
わたしの歩く道路は、片側がところどころ2車線になる太い道で、歩道も広く、両側は埋め立て地のようだった。途中、車と行きかうことは一度もなく、人とすれ違うことも一度もなく、わたしが夜明けについてどう思おうともそんなことには関係なく、着実に空は一瞬ごとに明るくなっていき、やがて眼前が180度、開けた。
海だ。
わたしは海に着いた。
やっぱり、ここだ。
龍くんのインスタの海は、ここだ。
間違いないと、わたしは確信した。
でも、龍くんはいない。
龍くんだけじゃない、誰もいない。
誰一人として。
わたしはそのまま砂浜に出て、海へと向かった。
波が静かに寄せていた。
その波と、わずかな風、それから海鳥の鳴き声、それがここの音のすべてだった。空の色はこれほど激しく変わっていくのに、空は音を発さずに、しずかだった。
履いてきたスニーカーを脱いで、靴下を脱いで、裸足になった。靴はそこに置き去りにして、くるぶしの上あたりまで波が来るところまで、海に入っていった。
海水は冷たかった。
そして、限りなく清潔に感じられた。
本当は、べとべとする潮水なのに、そんなことはまったく意識されず、すべてを清めてくれる神様の贈り物に感じられた。
わたしは掌を浸した。
あかぎれが染みた。
それでも、冷え冷えとした海水の中で、掌をもみ洗いして、こすった。
あかぎれが痛めば痛むほど、浄化されていくような感じがした。
「ああ、わたしの掌についた血の臭いが落ちない」
龍くんの今度の舞台、そのフレーズを練習する動画を、わたしは繰り返し、龍くんのSNSで観た。謀殺に加担したマクベス夫人は、その罪の意識から、殺害した時に掌についた血が落ちないという幻影から逃れられなくなる。マクベス夫人は、手を洗い続ける。洗わずにはいられなくなる。そこが、龍くん主演舞台、ミュージカルの見せ場。龍くんは、このセリフを載せた歌を唄う。
わたしも、その歌を口ずさんでいた。口ずさみながら、手を洗い続けていた。
いったい、わたしの掌は、誰かの血で汚されているというのだろうか。わたしが、誰を殺めたというのだろうか。わたしの何がいけないというのだろうか。
――ああ、わたしの掌についた血の臭いが落ちない。
――もういくら洗っても、この手はきれいにはならないのね。
わたしは、マクベス夫人ではない。わたしの手は、きれいな手のはずだ。
きれい?
わたしの中で、わたしは反論する。わたしを嘲笑う。
本当に?
平気で不倫をしておいて、ごく自然にそんなことをしておいて、わだかまりは、洗い流せたつもり? 罪は消えたとでも?
今だって。
今?
それで、はっとする。
今ここにいること。不要不急の外出は控えるべきなのに、こんなふうに自分勝手に出掛けてきて、どういう神経?
それは、今、ここに来ないと、自分が壊れそうだったから。もう、壊れると思ったから。限界だった、だからつい、思いに任せた。
わたしの中で、わたしが呆れる。
ほら、それもまた言い訳。あなたはいつも真面目できちんとして、正しい振る舞いをしているようにみせかけて、嘘ばかり。本当は感情的で、自分のことしか考えていない勝手な人。それで本当にきれいな手だと? 本当は、あなたの手は、洗っても洗っても落ちないほどに、汚れているのでは?
わたしはいつの間にか、叫ぶような大きな声で唄っていた。
――ああ、わたしの掌についた血の臭いが落ちない。
――もういくら洗っても、この手はきれいにはならないのね。
――ああ、誰か。
――誰か、わたしを助けて。
――ああ、神様。
少しだけ、風が強くなった。
耳元で、風がひゅうと鳴った。
浜の方、わたしのずっと後ろの方で、
――ああ、誰か。
――誰か、わたしを助けて。
――ああ、神様。
男の人のきれいな、みずみずしい歌声が聞こえたような気がした。
コーラスを付けてくれているような気がした。
それが空耳かどうかは、振り返って目を凝らせば、すぐに分かること。
でも、わたしはまだ振り向かない。
もう少しここで、唄っていよう。