葛の葉のうらみと裏みは信太の森に
秋月忍さま主催「和語り」企画、参加作品です。
わぁ、母上。綺麗なしっぽ。
今までどこに隠していたの? それとも生えた?
――じゃあ、ぼくにもいつか生えるのかな。
庭いっぱいに咲いた菊の花。びっくりした母上の顔。
母上のほおから、滑り落ちたしずくがきらり。
綺麗な赤いくちびるが震えて……。
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庭に咲いた菊の花。百花繚乱に魅せられて、つい忘れた己の変化。
坊やの口から滑り落ちた、しっぽを褒める素直な言葉に、この生活の終わりを知った。
嗚呼、坊や。母は本当は人にあらざるモノ。本性は狐なり。
六年前に悪右衛門に狩出されようとしたところ、父上に助けられ、互いに好きおうて夫婦になった。
愛しい愛しい、坊や。よくお聞き。これから母は坊やと父上の元から去らねばならぬ。
こてん、と首を傾げる稚き坊や。
坊やを撫でて筆を取る。
「恋しくば」
書いたところで、抱きついてきた坊やを抱き止める。
「たずね」
と反対から書くと、坊やが泣きながらすがりついてくる。
坊や。母がおらずとも、父上の言うことをよく聞くのよ。
右手で抱き上げ、ゆらゆらとあやす。
そうして左手で筆を動かす。
「来てみよ和泉なる」
我が儘を言うてはならぬ。ぐずって困らせるでないよ。
筆を右に持ち替え、左手で坊やをすっぽりと包む。
「信太の森の」
よく勉強をしてこの世の理を知り、賢くおなり。知識はきっと坊やを助けてくれる。
坊やに頬擦りをして右の手で書く。
「うらみ」
泣きじゃくる坊やを両手で抱きしめ、筆を口に咥えた。
本当はもっと共にいたかった。
せめて坊やが十になるまでは。いいや成人するまでは。立派に宮仕えするまでは。
可愛らしい嫁をとるまで。孫が出来るまで。白髪が混じるまで。
ずっとずっと側にいたかった。
「葛の葉」
なれど私は稲荷大明神の白狐。正体を知られてしまえばもう共にいられない。
「待て、葛の葉!」
叩きつけるように障子が開く音と、愛しい夫の声が響くも、もう遠く……。
****
――恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森の うらみ葛の葉――
残されたのは童子と障子に書かれた一首だけ。
愛しい妻よ。森で助けた白狐。あの時の白狐がお前であったか。
狐であろうが人であろうが構わない。私はお前を愛したのだ。
戻ってこい。戻ってきてくれ。
お前がいなくなってからというもの、童子は泣いて泣いて泣き止まぬ。
母、恋し恋しと泣き止まぬ。
否。童子の泣くのは事実なれど。口実に過ぎぬ。
恋し恋しと泣くのは私の心よ。お前が恋しいと嘆く日々よ。
だから帰ってこい。なのに何故泣く。
お前に渡された水晶の玉と黄金の箱。これを使いお前の願い通りに賢い人に育てようぞ。
その時こそ……。
***
男と俺の前には長持ち。
興味深そうに眺めておられる帝の御前でいざ勝負。
見ておれよ。こちらのことなど歯牙にもかけぬ、その澄ました顔。この俺が蹴落とし、歪めてくれる。
――おそれながら申し上げます。長持ちの中身は蜜柑が十五個にございます。
――おそれながら申し上げます。長持ちの中身は蜜柑ではごさいません。鼠が十五匹にございます。
ところがこの男、何をとち狂ったか。俺が十五個の蜜柑と言ったのに、長持ちの中には鼠が十五と答えおった。
ふふん。馬鹿め。墓穴を掘ったな。
これからは俺の時代よ。
貴様は舞台から降り、消えるがいい。
勝ったと確信したというのに。
長持ちの蓋を開ければ、途端に飛び出したは、鼠が十五匹。
そんな馬鹿な。何かの間違いだ!
四方に駆け回る鼠。俺を見つめ、微かに笑う男。あやつ得意の符を使ったか!
気付いた所で時は戻ることもなく、俺は約束通りやつの弟子に……。
****
庭先で菊の花が揺れる。隣で俺の肩に頭を預ける、妻の髪も揺れた。ついでに俺の尻の後ろも揺れる。
「晴明さま。今年も綺麗に咲きましたね」
「ああ。そうだな、菊理」
羽織った袿に流れる、艶やかな長い黒髪。黒髪に縁どられた白い相貌。ぷっくりとした唇。いつも潤んだように見える黒目勝ちの瞳。
目を細めてふふ、と笑う妻は、菊にも負けぬ可憐な花だと俺は思う。
随所に植えた菊は、毎年俺たちの屋敷を彩る。俺たちは毎年、菊の花を愛でる。
――まあ、綺麗な尻尾。
初めて会ったあの時。本当に、自然に妻が発したその言葉に息がつまった。奇しくも幼かった俺が母上に向かって不用意に放った言葉と同じだったから。
そして俺はあの時の母上と同じように、不覚にも涙をこぼしてしまった。といっても一滴だけだ。初対面ではなかったが、親しくない女性の前で流石においおいと泣きはしない。そもそも一滴でも涙を流してしまったことそのものが自分でも驚きだった。
父上を困らせず、我儘を言わず、賢くなれ。母上の言葉を胸に気を張ってきた。陰陽師賀茂忠行さまの下、陰陽道を学び、天文道を伝授されるまでになったというのに。
どこか心に小さく隙間が開いていた。差し込まれるように、その隙間に彼女の言葉が滑り込んできたのだ。
俺はそのことに驚き、同時に畏れすら感じてその場から逃げようとしたのだが。遅かった。気が付いた時には狩衣の袖を掴まれていた。
女の細腕。ただ軽く掴まれているだけ。振りほどいてその場を立ち去ろうと思えば容易なこと。しかし俺は動けなかった。
そのまま俺は彼女に捕まって、こぼした涙を拭われ、今ここにいる。
「皆も一緒に観ればいいのに」
「……それはならん」
「まあ。そんなこと言って。困った晴明さまですね」
頬を掴まれ、むにょーん、と伸ばされた。
「にゃにをふる」
「式神の皆さんにはいつもお世話になっているでしょう? 仲間外れは駄目ですよ」
「にゃかま外れでふぁない」
「ではどうして駄目なんです?」
理由を聞こうと思ったのだろう。頬から手が離れる。少し名残惜しい。菊理からされることなら何でも嬉しく思うのだ。たとえ頬をつねられても、触れられるのは嬉しい。
「あやつらをここに呼んだら、菊理は毎回白虎を撫でるだろう?」
「はい。だって白虎さんの毛並み、とっても触り心地がいいんですもの」
「俺の尻尾だけにしておけ」
あっさり頷く妻が恨めしい。俺は尻から生える尻尾を不機嫌に揺らした。
白狐の母を持つ俺であるが、父上は人間。表向き、俺の容姿に母上の白狐の部分は全く反映されなかった。しかしやはり母上の血は流れているのか。隠れて耳と尻尾だけがあった。
隠れて、というのはそのままの意味だ。普段は出ていない。母上からもらった水晶の玉の力、黄金の箱に入っていた式神の力を使う時だけだ。しかし耳は立烏帽子に、尻尾は袴の中に隠れる。だから誰にも知られていない。
しかし菊理だけは特別だ。彼女の目は人ならざるモノが見えてしまう。それゆえ苦労し、なんとかしてもらおうと陰陽寮に向かう途中、俺と出会った。
自分の屋敷で妻とくつろいでいる、この時だけ俺は耳と尻尾を出している。誰よりも菊理を信頼してるからでもあるし、彼女にだけは自分をさらけ出したいという願望でもある。
「もちろん晴明さまの尻尾が一番です」
尻尾を触ろうと屈託なく笑って伸ばした妻の手を掴むと、ぐいと引き寄せた。そのまま胸に抱き込み閉じ込める。
世間には妻が式神を見て怖がるから、一条戻り橋の下に隠しているということになっているが。その実は、妻の側に式神たちを寄せ付けたくないだけだ。
なにせ菊理は式神を怖がるどころか、撫でまわして可愛がる。美しい毛並みを持つ白虎は勿論であるが、皆平等でなくてはなどと言って、十二神将全員を撫でるのだ。
決して妻を焼かないとはいえ、燃え盛る蛇の騰虵まで恐れず撫でる胆力は好ましいが、六合や貴人、大裳などは人の男の姿。はっきり言って、腹立たしい。あいつらは撫でてほしくない。
「仕方のない晴明さま」
菊理はそんな俺を見透かして、俺の背中に手を回す。ふわりと妻独特の甘い香り。袿越しに感じる妻の細い体と温かさに目を瞑った。心地いい。
すっかり気を抜いていると、菊理の手が背中を通り越して耳と尻尾に伸びた。
「あ、こら。待て……きゅうぅ」
慌てて制止した時には遅かった。菊理に心を許しているせいか、狐の性か。狐の泣き声のように甲高く喉奥が鳴る。耳の後ろと尻尾の付け根を優しく撫でられると力が抜ける。
菊理はいつもこうだ。気が付くと俺の心の隙間に手を伸ばし、掴んでしまう。
「私だけですよ?」
「当り前だ」
見せられるものか。
帝にも、弟子にしたあの生意気な道満にも、十二神将にも、定期的に信太の森から遊びにくる二匹の狐にも。
ふにゃりと力を抜いて妻に体重を半分預け、だらしなく耳と尻尾を垂らしている姿など。
もうしばらくすれば、耳と尻尾を引っ込めて、不可侵の結界を解こう。そうすれば式神たちと、狐の母上、稲荷大明神の眷属になった父上が押しかけてくるだろう。
それまでは、もう少しだけ。
このままでいよう。
視点は、童子丸(晴明の幼名)→葛の葉→保名→道満→安倍晴明の順です。