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王都に来て、一回目の朝。
なんだかんだ言ってもやはり疲れていたのだろう。
アーロンが帰宅する前に寝てしまい、今朝もいつもより少し遅くなってしまった。
軽く身嗜みを整えたアリシアは、マリサの案内を受けて食堂にやってきた。
そこにはすでに制服を着たアーロンが、本を読みながらコーヒーを飲んでいた。
陽光を受けキラキラと茶髪が金に縁取られ、伏し目がちの眼差しは、ともすれば色っぽい。
学生服なのに、すでに大人と見紛うような存在感を放っていた。
こうした瞬間、アリシアはいつも思う。
――本当に、美しい人。
すると人の気配を感じたアーロンが顔を上げた。
にっこりとした笑みを向けられ、アリシアも笑みを返す。
「ああ、アリシア。おはよう」
「おはよう、アーロン。昨日はごめんなさい、待っていようと思ったのだけれど…それに、明日は早く起きるわ」
時間としては、もうすぐ出なければならないだろう。アーロンのことだから、もしかしたらいつもなら出ていた可能性もある。
朝食も登校も共にしたい。そのためにも彼の一日のスケジュールを後で執事に確認しなければと決意した。
そのことを察したのだろう彼は、その笑みを少し苦いものへと変えた。
「気にしないでゆっくりしていてくれ。昨日着いたばかりで疲れているのも当然だ。君が近くにいてくれるだけで俺は嬉しいのだから」
立ち上がった彼が、「おいで」と両手を広げる。
くすぐったい気持ちになりながらも、アリシアは逸る気持ちを精一杯抑えつつアーロンの元へ向かった。
その胸に身を寄せれば、彼の口元がさらに緩まる。
抱き寄せられ、至近距離で見つめ合った。
アリシアを見てとろりと甘く溶けるエメラルドが、アリシアは一等好きだった。
同じように溶けているだろうアリシアの瞳――アーロン曰く夜空の瞳を、彼も好んでいることを知っている。
「ああ、朝からアリシアに会えるなんて。やっぱり学校に行きたくないな」
「ふふ、それを言うなら私もよ、アーロン。でも、制服姿の貴方も、とっても素敵」
少し身を離してうっとりと眺めれば、アーロンは少し首を傾げていたずらっ子のように微笑んだ。
「惚れ直した?」
「惚れ直すなんて。私はいつも、惚れ直す暇がないくらい貴方に焦がれているわ」
「それは光栄だな」
ちら、とアリシアの背後を見たアーロンは、小さく息をつく。
右手でそっとアリシアの頬を撫で、残念そうに口を開いた。
「そろそろ行かないと。君に幻滅されたくもないしね」
「そう。玄関まで見送るわ」
「とても嬉しいが…それは明日からの楽しみにするよ。アリシアは今日もゆっくりしていてくれ。まだ顔が疲れている」
ちゅ、とリップ音を立てて、アーロンに頬に口付けられる。
驚き固まったアリシアににっこりと笑い、アーロンは「じゃあ、行ってくる」とするりと離れた。
「いっ、てらっしゃい…」
かろうじてそう口にする。
名残惜しいとは嘘のように、あっという間にいなくなった彼。
アリシアは口付けられた頬にゆるゆると手を添えた。
驚くほど熱を持った頬に触れ、アリシアは唇を戦慄かせる。
「っもう…あの、女たらし…」
ほんのりと湿り、それでいて熱く柔らかかった唇の感触を思い出しては悶える。
お蔭でアリシアは朝食を思い出せぬまま、気が付いたら自室に戻っていたという、記憶の曖昧な時間を過ごす羽目になってしまった。
なお、あの場にいた侍女や侍従は、「これだからこの若夫婦は…」と生温い視線を送っていたという。
◇ ◇ ◇
「すまない、遅れた」
アーロンはそう言いながら、とある部屋に入った。
中にいた三人から一斉に視線を向けられるも、その中に非難するものはない。
「アーロン。今朝の会議は来ないと思っていたが」
「ああ、俺もそのつもりだったんだが、共有した方がいいと思うことがあってな」
声を掛けてきたのは、デュオン・ライデムンド。
ファルガス公爵令息で、アーロンと、ここにいない一人を含めた五人の中で、最も実家の爵位が高い男だ。
彼の父は現在外務相を務めており、国家の窓口として辣腕を振るっている。息子の彼も切れ者として有名で、このままいけば次の宰相とも囁かれていた。
切れ長の目にシャープな顎のラインは人に神経質そうな印象を与えるが、普段は冗談を言うなど気さくなため、遠巻きにされることはあまりない。
この五人は、第一王子殿下の学友に選ばれた者たちであり、将来の側近候補である。
こうした内々の集まりでは、身分ではなく同志であるため気安く話すが、外では各々がきちんと弁えている。それを当然のように出来るのが普通であるが、肝心の主人はあまりそのことを深く理解していない。
毎朝、毎晩行われるこの会議では、主人に関連する予定のすり合わせや情勢その他の情報交換、それらの共有を行なっている。
一人いないのは、この会議の間のエドガルドの話相手兼護衛を務めているからだ。
「報告は二つ。昨晩、殿下の召喚により城へ参じた。その際に判ったが、件の子爵令嬢のメイドにちょっかいを掛けているようだ」
部屋の空気に、呆れが漂う。
またか、そんな全員の声が聞こえた気がした。
「幸か不幸か、手付きではないようだったが。時間の問題だろう」
「分かった。この件に関しては…フレデリク。頼めるか」
「ああ」
頷いたのはフレデリク・ランカスター。リオル伯爵令息で、この中では一番爵位が低い内の一人。しかし家の歴史は古く、代々優秀な文官を輩出する家系で、中流階級以下の貴族への顔がとにかく広いことで有名だ。
ランカスター家の特徴なのか、相手に肩肘を張らなくて良いと思わせる雰囲気は、上流階級者に萎縮する彼らにとっても救いなのだろうと、アーロンは思っている。
最初にあのメイドの話題が出た時からある程度覚悟はしていたのだろう。フレデリクはあっさりと頷いた。
「それと、もう一つについてだが。獅子についての情報の真偽を問われた」
「!」
「沙汰を待てと伝えたが、そもそも何故知り得たのか情報経路が分からない。場合によっては我が家の失態だが」
「その可能性は低いだろう。我らが控えていない間――王城内で聞いたか。それ以外であるならば、警護の刷新も視野に入れなければ」
少し黙ったデュオン。
しかしすぐに指示が飛び出した。
「アーロン、ホセ。この件はお前たちで調べろ。くれぐれも悟らせるなよ」
「ああ」
「やってみよう」
アーロンと共に頷いたのは、ホセ・サモラ。カナバル侯爵令息で、この中で一番アーロンと仲が良い男だ。
侯爵家自身は歴史が浅いが、興りは百年ほど前の戦争時、その深謀遠慮をいかんなく発揮し終結に導いた功労として爵位を賜った外交官の血筋である。
人から話を聞き出すのが上手く、情報戦では同年代で彼の右に出る者はいないだろう。
(彼がついてくれるのなら心強い)
「そろそろ時間だ。アーロン、助かった」
「いや。この件は俺一人では無理だったからな。ホセを借りる」
デュオンと互いに頷き合う。
会議に使っていた部屋を出て、各々の教室に向かう道すがら、彼から声を掛けられた。
「…今日の帰宅は君が殿下の当番だ。頼んだぞ、アーロン」
目を伏せたデュオン。
この五人の中で、心からエドガルドを慕っている者はいない。
逆に、一番彼を苦手に思っているのは、実はアーロンだ。
そんなアーロンが彼の一番のお気に入りとはとんだ皮肉だが、いかんせんどうしようもない。
この中での取りまとめ役となっているデュオンへは、アーロンから特別な計らいをするなと伝えている。
それでも心苦しいのだろう。そんなデュオンを優しすぎると、内心冷ややかに思っていた。
「気にするな。大丈夫だ」
しかし内心のそれをおくびにも出さず、そう笑って、彼の腕を軽く叩く。
ホッと息をついたデュオン。
こういった反応は、ホセ以外の全員から受けることがあった。
人の上に立つことに、未だ慣れていない。
学生という身分だからか、どこか自信のなさが透け、人を使う覚悟が曖昧だ。
だからこそアーロンは、彼らに素の自分を見せたことがない。
にこやかなアーロンこそ、本来の彼だと思っている。
この側近候補の中で。
唯一生来のアーロンを知ることが許されたのは、ホセのみだ。
ホセ以外の彼らを、アーロンは心の中で、未来の同僚ではなく令息だと思っている。
甘さの抜けきらない令息だと。
そんな線引きをされているとは知らない彼らは、アーロンのこの冷酷な面を知ったら、どうなるのだろう。
ふと、そんなことを思った。