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よろしくお願いします。
馬車の揺れが小さくなっていた。
舗装された街道に出たのだろう。かたんっ、と石に乗り上げた衝撃で、思考の海に沈んでいたアリシアは目をゆるりと瞬かせる。
頭を動かせば、同乗している侍女のマリサと目が合った。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「…マリサ」
アリシアより五つ年上だけあり、落ち着いたその声に呼びかけられ、少し掠れた声で彼女を呼ぶ。
言わずとも差し出してくれた水を受け取り口に含んだ。果実の爽やかな香りが鼻を抜ける。
「もうすぐ王都?」
「そのようでございますね」
窓にかかったカーテンをそっとよける。
雲ひとつない快晴に目を細めた。
広がる草原には囲いがあり、その向こうでは牛がのどかに草を食んでいる。
馬車が向かう先に目をやると、ちらほらと立つ街路樹の隙間から灰色の壁が覗いていた。
――王都だ。
(ロニー…もうすぐ会えるわ)
熱を含んで柔らかく細められたエメラルドの瞳を思い出し、アリシアの頬がほんのりと上気する。
その様子を見ていたマリサが、クスクスと笑った。
「お嬢様は本当にご婚約者様がお好きなんですねぇ」
「!! そ、それは…っ」
指摘を受け声が上擦る。
もごもごと、それはそうなんだけどと熟れた自覚のある頬を両手で隠した。
「仲睦まじいのは良いことではありませんか。アーロン様とのご婚約は十年前からでしたよね?」
「ええ」
睫毛が頬に影を落とす。
マリサがベネディート家に仕え始めて三年が経つ。
その頃にはもうアリシアとロニー――婚約者のアーロンは、若夫婦と渾名されるほどの仲となっていた。
彼と婚約関係となってしばらくは、アリシアが5歳と幼かったこともあり、幼馴染のお兄さんという感覚が抜けなかったが。
十年前。
ベネディート家を襲った悲劇は、暗黙の了解となり、誰もがすすんで口にしない。
けれどあの事件があったから、アーロンは覚悟を決め、アリシアも貴族であることを自覚した。
また窓の外に視線を向ける。
アリシアはこれから、王都にある学園で四年間過ごす。
元々領地外の学校に通うつもりはなかったが、国唯一の王子の婚約者で、アリシアと同い年でもある公爵令嬢フェリシアナ・リ・カルデナスの学友として選ばれたのだ。
アリシアの生地――アーロンが入婿として継ぐ予定――ロレンソは、王都から馬車で片道三日ほどの国境だが、隣地フロリド――ちなみにこちらはアーロンの生地――と共に、海にほぼ囲まれているここラクテルシア王国で隣国と接している重要地である。
次代を担うであろう同年代のアリシアたちを引き合わせ、有事に備えて縁を結んでおこうという魂胆なのだろう。
余談だが、フロリドについては次期辺境伯である長男がすでに25歳であり、学生の身ではないため除外である。
ふと外が騒がしくなった後、ゆっくりと馬車が減速して停まる。
首を傾げたアリシアに「お待ちを」とマリサが告げて、御者に問うた。
それが、と困惑した声に被さるように――
「アリシア!」
「!!」
喜色の滲んだテノールの声。
最早反射的に、アリシアはカーテンを跳ね除けた。
扉の横には黒鹿毛の馬。
その馬上には、黒ズボンと同色の長靴、白いワイシャツに灰色のチョッキを着た青年。
風にふわりと煽られた栗色の髪から覗くエメラルドの瞳は、悪戯っ子のように笑っていた。
その姿を見て、アリシアは嬉しさのあまり悲鳴のような声を上げる。
「アーロン!」
「そろそろ着く頃だと思ったから、迎えに来た。会えて嬉しいよ」
馬から下りつつ、青年――アーロンは、そう告げた。
馬車の扉を開けると、そっと手を差し伸べてくれる。
けれどアリシアはステップを使わずに、ふわりとその身を躍らせた。
おっと、と言いながらも、危うげなく腰に手を回して下ろしてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして。…また綺麗になったね、アリシア」
「あら」
感慨深げに呟かれ、アリシアは頬に朱を走らせる。
はにかみつつも、わずかに胸を張った。
「ふふ、そんなこと言われたら照れちゃうわ。でも、最後に会った三ヶ月前の年越しの後、背が伸びたのよ。これでヒールのある靴を履けば、やっと貴方の肩に届きそう」
少し踵を上げて確認していると、アーロンが「ははは、」と笑う。
その様子に、むぅ、とむくれた。
「もう、笑うなんて。領地以外で貴方の隣に立つ機会が増えるのだから、身長は大事よ?」
「俺はアリシアなら低くても高くても構わないけどね」
「お二人とも、そろそろ戻ってきてくださいませ」
呆れたようなマリサの声にハッとする。
思いもしなかったアーロンの登場に、浮かれてしまっていたようだ。
照れを誤魔化すように、アリシアは咳払いした。
そんな様子にすら、アーロンは喉の奥で笑う。
彼はそっとアリシアを抱き寄せて、馬車内のマリサを窺い見た。
「マリサ、王都の門まで君の主人を攫っても良いかい?」
「私ではなく、主人にこそお伺いくださいませ」
「…だそうだが。どうかな、アリシア。俺に攫われてくれるかな?」
「ふふ、どうぞ攫ってくださいな。マリサ」
後を頼む、と言外に含ませて名を呼べば、満面の笑みで頷かれた。
「はい、心得ております。お気を付けて」
「ありがとう」
「ああ。一本道だが、王都までは俺が先導しよう」
ひらりと軽い身のこなしでアーロンは馬に乗る。
屈んで手を差し伸べ、「おいで、アリシア」と笑みを浮かべた。
それに応えるように、アリシアもまた慣れた動作で引き上げられる。
横座りの状態で、そっと彼の胸に身を寄せた。
「じゃあ、行こうか」
馬車を追い抜きざま、彼が御者に目配せする。
控えるように話を聞いていた御者は、一つ頷くと、声の届かない距離を置いてから馬車を動かし始めた。
ほう、とアリシアは息をついた。
彼の胸に額を寄せる。
暖かく、ビクともしない硬い胸。ほのかに香る柑橘系の香水が彼の体臭と混ざり、三ヶ月ぶりに嗅いだ彼の匂いにようやく安らげた心地だ。
「大丈夫か? アリー。顔色が悪い」
本当に二人きりとなったところで、心配気に問われた。
幼馴染で付き合いが長いため、些細な変化も気取られる。
アリシアはそっと目を伏せた。
「大丈夫よ、ロニー。心配をかけてごめんなさい。それから、ありがとう」
二人の間に笑みはない。
けれど、依存と思われるほどには、互いを想いあっていると分かっている。
元々アリシアとアーロンは、笑う方が珍しい。
どちらかといえば無口で無愛想が素だ。
二人きりであれば、こうして愛称で呼び合うし、表情も取り繕わない。
これもひとえに、十年前のことに起因していた。
喜怒哀楽――感情表現が豊かな兄だった。
生来なのか世話焼きで、闊達。その笑顔は母と同じで周囲をも明るくした。
『似てるんだよなぁ、お前たち』
そう言ってアリシアとアーロンを引き合わせたのは兄のシモンだ。
アリー、ロニーと二人を呼び、自分で考えたくせに愛称すら似てると嫉妬していた。
余談だが、困ったアーロンが兄をシミーと呼ぶと機嫌を良くし、三人の愛称はアリー、ロニー、シミーとなった。
あの時。
母と兄の葬儀の時。
泣き続けるアリシアを慰めようと、父含め屋敷の皆や領民が代わる代わるあやしたのだという。
それでも止まらなかった涙を止めたのは、領地を回っていたため遅れてきたアーロンだった。
恐々とアリシアの頭を撫でたアーロンの言葉は、今でもアリシアの胸の奥に大事に仕舞われている。
そして二人で決めたのだ。
太陽を失い沈むロレンソを、二人で力を合わせて明るくしよう、と。
幼いゆえか、アリシアとアーロンが愛称で呼び合うだけで周囲に痛みが走ることを敏感に察し、他に人がいないところでしか呼び合わなくなった。
父も二人が愛称から名前で呼び合うようになったことに思うところはあったのだろうが、二人に倣って名前で呼んでいる。
馬車を護衛していた騎士たちが一斉に辞職を願い、あるいは死にそうだった彼らを引き留めたのはアーロンだ。
「今度こそ命懸けでアリシアを守れ。また同じ過ちを犯せば、その時こそ私はお前たち全員に生き地獄を見せてやる」と。
以来、あの時の彼らはアリシアの護衛となった。
今回の王都進学にも付いてきており、五名のうち二名はすでに先行して王都のタウンハウス入りしている。
だからこそ、アリシアの秘密はアーロンしか知らない。
母と兄が亡くなった原因。
馬車が、怖いのだということを。
「いいんだぞ、寝ても」
「ううん。少し寝られたから大丈夫。――会えて嬉しいわ、ロニー」
「ああ、俺もだ」
口元に、ほんのりと笑みが浮かぶ。
「一年だけだが、それでもまた一緒に暮らせる」
「ふふ、お父様が変な顔をしていたわ。『アーロンを信じているが、それでも充分に気を付けるように』って言われたの」
「義父上の信頼を裏切るわけにはいかないな。…一年後も言えるか自信はないが」
「まぁ、なんてこと言うの。頑張ってくださいな」
手綱を左手で握ったまま、アーロンが右手を伸ばしてくる。
そっとアリシアの髪を梳くように撫でた。
「アリーも、学園で良い仲間に恵まれると良いんだが」
「フェリシアナ様がいらっしゃる学年よ。学園側も同級生には気を遣っているはずだわ」
「それは、そうだろうが…」
心配症、という言葉をアリシアは呑み込んだ。
以前、知っておいて欲しいと彼から言われたことがある。
あの時から、アーロンの行動原理はほぼ一つに集約されている。
すなわち、アリシアのためになるか否かだ。
アリシアが涙に暮れることがあれば、それは彼にとって許されざる罪となる。
いわゆる逆鱗であり、だからこそ、隠れて泣いて欲しくない。
そのことを、知っていてほしい、と。
「それに、最初の一年間はロニーと過ごせるのだもの。きっと大丈夫よ」
「アリー…」
頬を擦り寄せて見上げれば、珍しくアーロンは頬にほんのりと朱を走らせた。
彼のエメラルドの瞳の色が、ぐっと深くなる。
困ったように眉尻が下がり、ぽつりと呟いた。
「本当に、理性が、不安だ…」
「まぁ」
心底驚いたように声を上げれば、アリシアがからかったことが分かったのだろう。
恨めしげな顔で舌打ちをする。
それを見たアリシアは、今度こそ本当に目を丸くした。
(ロニーが舌打ちした!)
なんでも卒なく、あるいは完璧にこなしてしまうアーロンは、ある意味で貴族らしい。
幼いながらに大人顔負けの紳士あるいは貴公子ぶりを発揮していただけに、あまりお行儀の悪いことはせず、むしろ見たことがなかった。
そして何かを思い付いたかのように口の端を上げると、身を屈めてアリシアの耳に唇を寄せる。
吐息がかかり、ピク、と肩が跳ねた。
「覚悟しておけよ、アリー」
「!」
「俺だって、聖人君子じゃない。好きな子と一年間同じ屋敷で暮らすんだ、あまりイタズラが過ぎると――」
ゴクリと喉を鳴らす。
頬が赤くなりすぎて痛いほどだ。
真っ赤になり固まったアリシアを見て、くすりと笑うとアーロンは体を起こした。
密やかな雰囲気が霧散し、アリシアはやっとここが外であるという認識を取り戻す。
「アリー、見ろ。東門が見えてきた」
その言葉にアリシアは前方に顔を向ける。
吹いた風にそっと髪を押さえた。
ラクテルシア王国の成り立ちは、今は亡きフランブルクス帝国の皇帝の座を巡っての争い――いわゆる継承権争いに端を発している。
当時、フランブルクス帝国には五人の王子と八人の姫がいた。
ただし、最終的に多くの子を授かっただけで、正妃も側妃さえ、懐妊の兆しを見せることは長年なかったという。
皮肉にも気まぐれに手の付いた侍女が最初に王の子、それも男児を出産。
母の身分はともかく、待望の第一子――それも世継ぎと、思われた。
しかし彼が産まれて後、怒涛の懐妊ラッシュとなったのである。
それゆえ第一皇子は最終的に継承権五位にまで下がった。
しかし母の身分が低い影響にあったからか、特に目立った野心を見せていたという記録はない。
当時の高官の手記には、「彼が正式な妃腹であれば」と優秀がゆえに嘆く言葉が綴られている。
そして、詳細は割愛するが、内戦を憂いた彼は己を支持してくれる者――身分の貴賎なく――を連れ、亡命。
ただ、当時世界一とも呼べる権勢を誇っていた帝国の、曰く付きの皇子以下を受け入れてくれるほど懐の深い国はなく、流れ着いた先は、どこまでも続く平原。
どの国も受け入れてくれないのなら、国を作ってしまえとばかりに、その平原に国を興した。
それがここ、ラクテルシア王国である。
フランブルクス帝国の内戦も終結し、やがて第一皇子…当時すでにラクテルシア国王となっていた彼を恐れ、帝国は侵攻を数年に渡って繰り広げた。
しかしそれを想定していた王国は城塞を築いており、一度として破られたことはない。
その当時の名残を残すのがこの王都であり、ゆえにそこはかつて鉄壁と謳われた、文字通りの砦に囲われている。
「改めて、ようこそ王都へ」
アーロンはそう言って、柔らかな微笑を浮かべる。
門から視線を彼へと戻し、アリシアは花がほころぶように微笑んだ。
「ありがとう」