虚構の狭間
『天界』から浸蝕する理想郷の拡大は、月食の通路を通して人間大陸のある現世にも及ぶ。
広がる赤い光に飲まれた人々は次々と理想郷へ飲まれ、現実と夢の境界を薄れさせながら意識を取り込まれていった。
そうした浸蝕が拡がる中、まだ理想郷に飲まれていない者達もいる。
それは月食の通路を移動し帝国皇子ユグナリス等やフォウル国の魔人達を乗せている、二隻目の箱舟だった。
「――……なんだ、いきなり周りが赤く……!?」
「……これは、やはり五百年前の時と同じ……!」
艦橋に立つユグナリスは、映像越しに移る通路が突如として赤く輝く光景を目にする。
それと同じ光景を目にした干支衆の『牛』バズディールは、厳しい目を向けながら天変地異を知るように呟いた。
それを聞いたユグナリスは、バズディールに改めて問い掛ける。
「今起こっている事を、知ってるんですか?」
「……私もまた、子供の時だった。五百年前も同じように、世界が黄金色に染まった。その後に世界が赤く輝き、私達はそれに飲み込まれた」
「飲み込まれた……?」
「その後に、私達は現実かも分からぬ世界を見たのだ。……あり得ないはずの、しかし幸福とも呼べる世界を」
「幸福の世界……!? ……えっと、つまりこの光を浴びると……何か幻覚を見せる作用があると……!?」
「そう考えていい」
「じゃあ、俺達もその幻覚を……!?」
赤い光によって幻覚が齎れると聞いたユグナリスは、慌てる様子で画面から目を背ける。
しかし艦橋の中に居た妖狐族クビアと干支衆の『戌』である姉タマモは、それぞれ独自の分析を交えながら現状を伝えた。
「どうやら、この箱舟が張っとる結界で光の効果は防げとるみたいやね」
「そうねぇ。でも外に出てあの光を浴びちゃったらぁ、一発アウトかもよぉ」
「……それじゃあ、天界とかいう場所に行っても、箱舟の外に出られない……!?」
「でしょうねぇ。この光を発生させてる何かを止めないとぉ、どうしようもないわぁ」
「……ッ!!」
魔術に長けた妖狐族の姉妹による分析によって、内臓された魔導装置で起動している箱舟の結界が自分達への浸蝕を妨げている事を伝える。
しかし光を浴びた瞬間に理想郷へ誘われると判断し、現状の自分達ではどうする事も出来ない事を明かした。
それに苦々しい面持ちを浮かべるユグナリスは、何かを思い出しながらクビアに呼び掛ける。
「クビア殿、エアハルト殿と連絡はっ!?」
「……無理ねぇ、応答が無いわぁ」
「じゃあ、エアハルト殿達も……この光に……」
「飲まれちゃってるかもしれないわねぇ……。……それに問題はぁ、この光が私達が居た世界にも広がってるかもしれない事よねぇ。そうなったらぁ、世界の危機かもぉ」
「えっ。……それは、確かに問題だとは思いますけど……世界の危機って……?」
「要するにぃ、あの光を浴びた生物は強制的に幻覚を見せられるのよぉ。それってぇ、魂や精神に強い干渉力を及ぼしてるって事じゃなぁい。……もしそんな強い干渉を受け続けたらぁ、精神はどうなっちゃうと思うぅ?」
「……どうなるんですか?」
「その内、精神が崩壊しちゃうわぁ。……廃人同然のぉ、生ける屍になっちゃうのよぉ」
「!?」
「早くあの光を止めないとぉ、あの光を浴びてる皆が死んじゃうわよぉ。……そうなったらぁ、この世界は本当に終わっちゃうわぁ」
赤い光が及ぼしている影響がどのような結末を迎えるかをクビアから聞いたユグナリスは、改めて驚愕を浮かべる。
それに嫌々ながらも同意する姉タマモの姿を見ると、ユグナリスは焦燥感を強めながら箱舟を操縦する魔導人形に歩み寄って問い掛けた。
「も、もっと早く……向こうに着けないんですかッ!!」
「無理よぉ。この通路ぃ、滅茶苦茶に長いんですものぉ」
「……でも、このままじゃ……!!」
「天界に先に着いてる人達がぁ、どうにかしてくれてる事を祈るしかないわぁ」
「……エアハルト殿……。……アルトリア、頼む。どうにかしていてくれ……っ!!」
まだ通路の途中を通過している箱舟の中で、ユグナリスは自分の無力を嘆きながら天界に居る者達に託しかない。
そうして赤く染まる月食の中を突き進むユグナリス達は、天界に居る者達と合流すべく彼等と同じ道を辿っていた。
しかし一方で、頼られていた狼獣族エアハルトも理想郷へ飲まれている。
彼は赤い光に飲まれた後、覚醒させた意識の中である景色を視ていた。
「――……ここは……マシラの王宮か……?」
エアハルトは周囲を見渡した時、そこが闘士部隊に居た頃に見たマシラ共和国の王宮だと自覚する。
すると自分が闘士部隊の闘衣を身に着けている事を理解し、記憶に残る状況と全く異なる現状に困惑を浮かべた。
更に周囲を見渡すと、真横には見慣れた庭園の入り口が存在する。
そちらに視線を動かしたエアハルトは、鼻を微かに動かして表情を強張らせた。
「……この匂いは……」
エアハルトは優れた嗅覚によって何かを嗅ぎ取り、庭園の中へ自ら足を踏み入れる。
そして自身の記憶と鼻が覚えている懐かしく庭園の通路を歩き、ある場所に辿り着いた。
そこは、一つの木が生えた小さな木陰。
更にその木が生える芝生の上に、ある人物が横になっている光景をエアハルトは見た。
「……お前は……」
「――……やっぱり。今日も来たんですか、狼さん」
木陰に寝そべりながら微笑む声を向ける女性に、エアハルトは眉を顰める。
それは死んだはずのレミディアであり、彼女は記憶にある通りに木陰で休んでいる姿を見せていた。
そんなレミディアは上体を起こし、エアハルトに親し気に声を向け続ける。
「今日は私の番、でしたよね? 狼さんは明日また来てください」
「……」
「なんです? その顔。不満があるなら、私に勝ってからにしてくださいね」
そうした言葉を向けるレミディアの態度に、エアハルトは微かに眉間が寄る。
すると彼女の正面に立ちながら、苛立つような表情で低い声を向けた。
「お前は誰だ?」
「……え?」
そう問い掛けるエアハルトの言葉に、レミディアは呆然とした様子を浮かべる。
そして口元を微笑ませながら呆れるような笑みを見せ、エアハルトに答えを返した。
「何を言ってるんです? 前に自己紹介したじゃないですか。私は、レミディ――……」
「貴様はあの女じゃない」
「!」
「確かに貴様からは、あの女の匂いがする。……だがそれは、獣の皮を被った擬態と同じだ」
「……」
「俺を舐めるなよ。――……その女になった程度で、俺を騙せると思うなっ!!」
激昂するエアハルトはそう怒鳴り、殺意を持ってレミディアに爪を向け放つ。
そこで放たれる斬撃がレミディアとその背後にある木を断ち、景色と共に切り裂いた。
すると景色全体が揺らぎ、徐々に景色が真っ白な世界へ染め上げられる。
その変化を確認しているエアハルトに、理想郷は揺らぐ姿で問い掛けた。
『――……どうして、私を斬れるんですか……? 貴方は、私の事を……』
「だからこそだ」
『!』
「あの女なら、この程度の攻撃で易々と斬られるわけがない。――……奴は、この俺より強かったんだ」
『……なるほど。貴方は辛い現実と向き合える、強い人なのですね。――……でも全ての人間が、貴方のように強いわけではない』
「なに?」
『世界の人々は、彼等の望む理想郷に沈む。……貴方は後悔するといい。自分の理想に浸れていれば、良かったと――……』
そうして理想郷は言葉を残し、エアハルトの前から姿を消す。
するとその場には、何も存在しない真っ白な世界と、そこに立つ自分自身の姿と匂いしかエアハルトは認知できなくなった。
「……ここは何処だ……。……出口は、あるのか……?」
エアハルトはその景色を見渡しながら、その出口を探して彷徨い始める。
そして無限の彼方にまで続く真っ白な世界を歩き続けながらも、一向にその手掛かりすらも掴めなかった。
こうして理想郷から逃れられた者達も、逃げ場も対抗手段も無いまま現実と夢の境界を彷徨い歩く。
それを打開できる場所に最も近しい者達でさえ理想郷に取り込まれてしまった今、もはや対抗手段など無いように見えた。
唯一の希望は、理想郷に飲み込まれるのを免れらながら月食の穴を通る箱舟の者達。
しかし彼等の長い道程は、理想郷に飲まれた者達に訪れる終わりより先に辿り着く事は無かった。




