第002話 神滅戦
火口への道の途中のことだった。
凄惨な竜人族の死体を前に、クルトは立ち止まる。死体の惨状を見るに、異端者への慈悲と呼ばれる処刑に間違いない。
悪しき神の言葉を聞いた罪を清めるために、耳を削ぐ。
悪しき神の意思を伝えた罪を清めるために、歯を砕く。
悪しき神の醜姿を眺めた罪を清めるために、目を抉る。
女神への贖罪のために悪しき神に従った肉体を痛めつけ辱めるのだ。口にするのもおぞましい拷問と凌辱である。
これが贖罪になると本気で信じているとは……。
いや信じてなどいないし、愉しいからやっているだけなのかもしれないが、神殺しが目的だと言うのに信仰心の厚い連中だ。
これは傭兵たちの仕業ではなく女神騎士団だろう。この場を通りすぎたと言うことは、すでに竜人族の神と戦っているかもしれない。
急がなくてはならない。
が、死体の横を歩き去ろうとして止まる。
目玉のない目をカッと見開いた竜人族の男の死体。
苦悶の表情を浮かべて息絶えた竜人族の女の死体。
まだ若くクルトと同い年くらいに見える少年と少女である。
記憶に焼きついて離れない怒りと悲しみにちりちりと胸が痛む。迷った末に、クルトは死体の横に屈んだ。
折られて砕かれた角を拾い上げると、竜人族の男に握らせて、見開いた目を閉じてやる。
女の表情を整えてやり、引き裂かれた衣服の上からマントを掛けてやる。最後に砕かれた角を手に握らせてやった。
祈りはしない。
暗黒騎士に祈る神などいないからだ。
「安らかにな」
一言呟き、クルトは再び歩きだした。
半刻後。
クルトは、山頂の火口へ続く入口に辿りついた。竜人族の兵士や巫女の姿はない。滑るように山頂への入り口を進んでいく。
火口への道は滑らかな岩肌の洞窟となっていて、狭い一本道を壁に吊るされた篝火を頼りに歩く。やがて洞窟の天井と壁が広がっていき、視界が開けた。
断崖に囲まれた大きな火口。
そこには、クルトの探していた神の姿、竜神ナクラーダルが悠然と座していた。
竜人族の神、竜神ナクラーダル。
姿は翼の生えた蜥蜴に似ている。ただし、全身を覆う鱗はドラゴンとは異なり、まるで岩石が張り付いているかのような分厚さがある。
竜神を名乗るだけあって強さも半端ではない。灰と炎に沈んだ街は幾知れず。すでに一〇〇の女神騎士団と女神を一柱倒しており、人族の天敵として教会より認定されている。
竜神ナクラーダルは寝そべっていた体をゆったりと起こす。城塞を思わせる巨体がそびえ立った。
『――待ちわびたぞ、黒曜石の騎士』
竜神ナクラーダルの声が届く。地鳴りを思わせる重厚な、それでいて厳かな、声。
魚人族の神と相対した時のことを思い出す。この世ならざる者の気配はいつ感じても、肌が泡立つような畏怖を感じさせる。
周囲には引き裂かれた鎧や死体が転がっている。
ほかの傭兵団がすでにたどり着いていたようだが、奮戦虚しく全滅したというわけか。
呑まれてはいけない。
クルトは魂を揺さぶるように己を叱咤する。
「人違いだ」
悠長に話している間にも戦闘態勢を整える。
素早く暗黒魔法を唱えた。
「狂気よ、刃と成れ。――憤怒の剣聖」
細かな黒い粒子が黒金鉄の大剣を包み込み、赤黒い輝きを放ちはじめる。
『人違いなものか。阻む者すべてを殺戮し、倒れ伏す者を種族問わず救済す、神殺しの騎士。……貴様を倒せば、あとは力の無い人族だけ。吾輩の敵ではない』
竜神ナクラーダルは不敵な笑みを浮かべた。
前脚の指を鳴らしながらしなやかに肢体を揺らす。竜神ナクラーダルが身動ぎをするたびに鱗がこすれ合って猛々しい火花が迸る。
「……言い残すことはそれだけか」
クルトは裂帛の気合を込めて竜神ナクラーダルを睨み据えた。
「来るがいい、他の神のように屠れると思わぬことだ」
戦いは即座にはじまった。
まずは、先手の一撃――!
「穿て、射手の傲慢」
黒く染まる左掌から無数の魔力の塊を撃つ。
竜神ナクラーダルの視界を埋め尽くす魔力の礫に紛れて、クルトは大地を蹴る。
竜神ナクラーダルが吼えた。空気が歪んだかのように視界がぶれる。
「ち……ッ!」
一息の咆哮で射手の傲慢を消し飛ばされ、大地を震わせる振動にクルトの足が止められた。
この隙を見逃すはずもなく、竜神ナクラーダルは大きく尻尾をしならせる。
尾の一撃が来る。
「影よ。嫉妬の孤影」
クルトはまるで水に飛び込むように、影の中に身を躍らせた。
唸りを上げて竜神ナクラーダルの尾が通り過ぎていく。
影から影へ渡り、竜神ナクラーダルの側面に飛び出す。
しかし、読まれている。
頭上に巨大な剛腕が迫っていた。
受け流しも防御もしない。
力強く踏み出す。
本能で感じる恐怖を抑え込み、ただ一歩を踏み出す。
クルトが竜神ナクラーダルの腹に滑り込んだ。
背後で剛腕が振り下ろされて、岩盤が砕け散る。
砕かれた岩の欠片が黒金鉄の鎧に打ち当たる。
疾駆する勢いのままに黒金鉄の大剣を振り抜いた。漆黒の刃が竜神ナクラーダルの左前脚に深く切り裂く。
もう一撃。
勢いを殺さずに渾身の一撃でもって左後脚を狙う。
身体を回転させながら黒金鉄の大剣の重さに任せて左後脚を両断する。
入れられたのは二太刀。黒金鉄の大剣を振りぬいた力に引っ張られながら、龍神ナクラーダルの腹の下を滑りぬけた。
「障壁!」
すかさず防護の暗黒魔法を発動させる。仕掛けてくるならこのタイミングと確信を持っていたクルトの勘は的中する。
夜空を覆い隠さんばかりに翼を広げて竜神ナクラーダルは宙に逃れた。そして、後ろに一回転しながら尻尾をクルトに目掛けて叩きつける。
避けられない。
強烈な一撃が暴食の障壁に直撃する。
半透明の障壁が撓み、凄まじい力に白い亀裂が生じた。
クルトは弾き飛ばされる。
グルグルと回る視界の酔いに堪えながら火口の断崖に叩きつけられた。
「――ぐっ!」
息がつまる。
衝撃に岩が木っ端みじんに吹き飛び破片が降り注ぐ。
生き埋めにならないように、降り注ぐ岩片を振り払って飛び出した。
『さすがだな。有象無象の者共とは違う』
心底愉しそうな声が頭上から聞こえてくる。
地響きを立てて竜神ナクラーダルがクルトの目の前に着地した。
失った足でバランスが悪いがまだまだ健在。
先に翼を落とすべきだったのかもしれない。
クルトは呼吸の乱れを抑えながら、竜神ナクラーダルの隙を伺う。
『しかし、残念だったな。貴様が女神騎士であったのなら吾輩を討滅することができたであろうに』
竜神ナクラーダルの失われた左後脚の根元に神々しい白光が集まっていく。光は形を成してたちまち鱗に覆われた脚となった。前脚の傷跡も跡形もなく治っていく。
『竜人族の祈りと竜神の魂にて生み出されし我が肉体。暗黒の力では滅ぼすことはできん』
「……再生能力」
竜神ナクラーダルの言葉を鵜呑みにするほど愚かではない。無敵ではなく再生能力であろうと当りをつける。
しかし、与えた傷が片っ端から治癒してしまう敵を倒すのは至難の技だ。
祈りが力の源であるならば竜人族を一人残らず絶滅させなければならないが、クルト一人で為せる業ではない。
竜神ナクラーダルの治癒速度を超える速さで切り刻めば勝てるだろうが、あの巨体をどうやって細切れにすればいいのか。それも一瞬で。
クルトは舌打ちしそうになるのを奥歯を噛みしめて堪えた。
だが。
終わりではない、心臓が動いている限りは。
『諦めが悪いな……。聞くが良い、黒曜石の騎士よ』
「……!」
クルトは気勢を削がれ、黒金鉄の大剣を正眼に構えたまま止まる。一拍置いて竜神ナクラーダルはクルトに語りかける。
『――吾輩と共に女神と戦え』
「断る」
『急くな、よく考えよ。貴様の怒りと悲しみは竜人族に向けられたものではなかろう。吾輩と手を組め、さすれば貴様の剣は必ず女神の魂を貫くであろう』
女神は強い。
空を自由に飛ぶ翼があり、高い魔力で強力無比な魔法を使う。さらに、剣・槍・弓とあらゆる武器の扱いに長けており一騎当千の力を持つ。
それだけではない。
人族の神である彼女たちは、人族の信仰そのものだ。女神騎士団をはじめすべての人族が彼女たちの味方になる。
「断る! オレは一人で戦う」
『何故そこまで拘る? 各種族が追いやられ、女神以外の神は力を削がれている。戦うのであれば――』
「……神を信じていないからだ」
神は己を信奉する者に力を与える。時に信奉者の祈りに応えてその身をこの世界に顕現させる。
信奉者たちは神の力を存分に奮って願いを叶える。
古くからの住処を奪い返すため。
殺された種族の恨みを晴らすため。
神に逆らう者たちに鉄槌を下すため。
だが、言葉には裏があり、事実と真実はときに裏返る。
信奉者は祈りと言う願いに隠した欲望を叶えるために神を降臨させる。
神は愚かにただただ祈りに応えるだけだ。
クルトは心から神を信じて死んでいった者たちを想う。
ときに残酷に。
ときに呆気なく。
途方もなく理不尽に。
霞の如く消え去った、善良で、純粋な、優しさに満ちた者たちを心に思い浮かべる。
「救いの祈りに気づかないお前らが、神を名乗るな!」
クルトはありったけの魔力を使って暗黒魔法を発動させる。
「闇よ、我が魂を不死へ誘いたまえ、貪欲な闘志を与えたまえ、死を越えよ! 死者の強欲――!」
クルトの全身から漆黒の魔力が劫火の如く天まで噴き上がる。
竜神ナクラーダルは警戒の唸り声を上げる。
『この黒き感情……。神の魂を砕くほどの魔力……。……女神め、何故、このような者を生み出す……ッ』
「がぁぁぁぁぁぁぁぁ――!」
クルトが吼える。
反応速度・身体能力を驚異的に上昇させ、さらに恐怖や痛覚を麻痺させてしまう暗黒魔法、死者の強欲。
腕が千切れようとも、足が捥げようとも、頭を失おうとも、心臓が止まったとしても、魔力がある限り戦い続けることができる究極の身体強化魔法だ。
竜神ナクラーダルの再生能力を上回る速度で肉を切り刻み、人族が竜人族を絶滅させるまで戦えばいい。
不可能かどうかは試してやる。
理性の吹き飛びそうな暴虐な感情がクルトの心に荒れ狂っていた。心のままに感情を吐露する。
「殺す、ぜったいに許さ、ない、……神は、一匹残らず……討滅する!」
黒の魔力に全身を蝕まれながら叫び続けるクルトを、竜神ナクラーダルは畏怖と憐憫を込めて告げる。
『貴様の恨みは知らぬ。許せとも言わぬ。吾輩は守らねばならぬ……この魂をくれてやるわけにはいかぬ』
龍神ナクラーダルは地に低く伏せて虎のように身構えた。
『かかってこい、黒曜石の騎士。貴様を倒し、人族を蹴散らし、……吾輩は、竜人族を守る!』
「消えろ、竜神――!!!」
激震する大気。
鳴動する火山。
灼熱の炎が噴く灰の舞う大地にて騎士と竜の死闘がはじまる、……と思われた、そこへ。
『……ぬぅ――ッ!』
「――ッ!?」
クルトと竜神ナクラーダルは互いに飛び退いた。
カランっと乾いた音が火口に響く。火山岩の上を跳ねたのは、掌ほどの宝石。
これは、いったい……?
クルトの疑問に、竜神ナクラーダルが叫んだ。
『暗黒極光石――!? 何故、ここに……!』
黒紫色の宝石はクルトの漆黒の魔力を吸い込むと、禍々しい光を解き放った。