第001話 黒曜石の騎士
すがる思いで信じている。
神を討てば、……この怒りと悲しみはきっと癒える、と。
--- 女神歴 一六〇〇年
星も月もない夜闇。苦悶の声が小さく聞こえ、静かになった。
響くのは獣のような息遣いだけ。遠くの戦場で瞬いた魔法の光に殺戮者の姿が浮かび上がる。
毛先の跳ねた真っ白の髪に小柄な体躯。顔立ちは青年と呼ぶには幼くまるで少年のようで、可愛らしい容姿は戦場を駆けるに相応しいとは言えない。
しかし、眼だけは違う。
相対した者が言葉を喪うほど、瞳は冷たく酷薄であった。
少年の名は、クルト。小さな傭兵団に雇われた放浪の戦士である。
クルトは肩で息をしながら物言わぬ骸に足を掛ける。無造作に大剣を引き抜くと、黒金鉄の刃を赤黒い血が滴り落ちていく。
大剣を一振り。刃に染み付いた汚れを払い落とした。
クルトの周囲には竜人族の兵士が倒れている。竜人族は頭に生えた角と臀部に生えた蜥蜴の尾以外は人族と変わらない容姿を持つ亜人種族だ。クルトたち、人族から見ると、女は見目麗しく、男は強靭な体力を持っている。
ピクリとも動かない死体の数は二○を超える。死体は正面から胸を貫かれ首を落とされ、すべて一撃で殺されていた。
対するクルトは返り血はあれど無傷、若いにも関わらず並々ならぬ剣の冴えである。
しかし、見方を変えれば無謀な戦い方である。
無双の戦士であろうとも囲まれれば隙が生まれる。一人で多数と戦うならば真正面から挑むなど愚の骨頂だ。
クルトを雇った傭兵団では、命を大事にしろと、何度も怒る者たちがいた。
だが、クルトは聞く耳を持たなかった。
命を惜しむほど長生きするつもりはない。この身から噴き上がる憎悪の感情を捨て去るためだけに、クルトは復讐の道を歩み続けている。数多の戦場は復讐に至る道筋の一つに過ぎない。この戦場の先の先の、……遥かな先にはクルトの求める仇、女神がいるのだ。
額から滴り落ちる汗を拭いながらあたりを見渡す。
クルトの背後。火山灰と火の粉の降り注ぐ大地からは人族と竜人族の戦いの雄叫びが微かに聞こえてくる。
突撃の号令。
魂が千切れるような断末魔。
助けを呼ぶ兵士の叫び。
感覚を研ぎ澄ませれば魔力に乗って戦場の声が運ばれてくる。
激痛に喘ぐ声。
母を呼ぶ声。
己の不幸に嘆く声。
消えゆく命は戦場の喧騒に呑まれていく。
戦いの戦局は人族の優勢であり、竜人族の軍勢は次々と倒れていく。もはや潰走してもおかしくないくらいの死者を出しているが、竜人族は決して引く素振りを見せない。
なぜなら、この地は竜人族たちの最後の住処。ここより先は彼らの逃げる場所はなく、受け入れてくれる種族もいないのである。
クルトの正面には溶岩の灼光を湛えた山が聳えている。火山岩に覆われた山肌には無数の篝火が灯されており、火山の熱風に乗って呪詛の声が聞こえてくる。
竜人族の巫女と老人や子供といった竜人族の民の怨嗟の声だ。
角を折られて殺された父の恨みを。
陵辱されて殺された娘の悲しみを。
奴隷として嬲り殺された子の痛みを。
憎悪と悲嘆に満ちた祈りは力となり、目的地である山の火口へと流れ込んでいく。
あの火口には降神の儀式によって呼び降ろされた神が降臨している。竜人族たちは呼びだした神にさらなる力を与えるため、祈りを捧げているのだ。
竜人族の降神の儀式によってこの地の魔力は異常なほど高まっている。魔力の感覚が鋭い者ならば、渦巻く強烈な魔力に当てられて気絶するかもしれない。普通の感覚の持ち主ならば、吐き気を催す不快な魔力に立ちすくむだろう。
クルトは魔力の感覚がとうに麻痺している。この異様な魔力に当てられてもそよ風くらいにしか思わない。
――さて、息が整った。
目的地である轟と牙の山の火口まではあとわずかだ。が、歩みだそうとし足を止め、大剣を構える。背に迫る足音にクルトは振り返った。
「やれやれ、間にあって良かった」
見知った顔に大剣を下ろす。崖の小路を駆けあがってきたのは栗色の髪を束ねた女だ。
心臓と腹を板金で補強した革鎧を着こみ、夜闇に紛れる漆黒のマント、額を覆う鋼の兜を被っている。
彼女はクルトの雇い主である傭兵団コズミックアロウの団長、カティアだ。
クルトは眉をしかめる。
「なにをやっている。さっさと戻れ」
ここは敵地の真っ只中だ。周囲に味方は居らず、敵に気づかれればあっという間に囲まれる。
コズミックアロウを含めたいくつかの傭兵団の仕事は、竜人族の神を倒す女神騎士団を擁護する、役割だ。擁護とは名ばかりで、女神騎士団は肉壁として傭兵たちを使おうとしていることは明白だった。
そのため敵地に潜入するのはクルトが担い、コズミックアロウには平地で戦うようにカティアに言ったのだ。
僅かばかりとは言え世話になった連中だ。捨駒扱いで死んでいくのを見るのは忍びなかった。
「そう言うなよ。落とし物さ、気づいてないのかな?」
カティアが差し出したモノを見て、ハッと首元に手を当てる。
あるべきはずのモノがない。
戦いの最中に提げていた鎖が千切れたようだ。
カティアの掌には小さなアクセサリーが乗っている。
ひび割れた菱形の銀細工。女神を信奉し女神に愛された者だけが持つことを許される証だ。
「……返せ」
「せめて、ありがとうくらい欲しいな。まぁ……、お前に可愛げのあるところを期待しても無駄なのかもしれないけど」
肩をすくめる、カティア。
「感謝してる」
クルトはぶすっとした顔のまま礼を述べる。
「どうしたしまして。……特別にこいつもやろう」
カティアは証に細い鎖を通した。
静かな煌めきを放つ鎖は魔法銀製。魔法銀は金属として頑丈なことに加えて腐食や酸化にも強い。貴族や王族の装飾品に使われる高級貴金属である。
その細い鎖には見覚えがあった。
「それはお前の宝物とか言っていなかったか?」
「その通り。捨てたりするなよ?」
カティアはクルトの背後にするりと回り込む。
が、警戒あらわに距離をとった。
「……待て、寄るな」
この傭兵団長、大の少年好きである。非番の日には悪所に出かけていき幼い男娼を買いに行くような、隙あらば抱き着いてきて頬ずりしてくるような女だ。
うっかり気を許そうものなら襲われかねない。
「こんな美女に失礼な。それに、つけてやろうというんだ。その手じゃ無理だろう?」
証を指先に絡めて突きつけられる。確かに、手甲をつけた手では器用なことはできない。
「じゃあ、さっさとつけろ」
「なんだい、つれないな。人の優しさを無碍にするものでないよ」
カティアは慣れた手つきでクルトの首に手を回す。細い指先が首筋に触れる。
「不思議だな。……暗黒騎士でも女神を信じているのかい?」
「これは形見だ。オレのものじゃない。……おい、ぶっとばすぞ」
カティアは首に手を回したまま体を預けてくる。頭一つ分高いカティアは背中からクルトを抱きしめていた。
「いいじゃないか。最後かもしれないと思うと、……つい、なめらかな肌と薄い胸板といい……あ、痛。いたたたたた……!」
撫で回す手首を握ると捻りあげる。
背負い投げの要領でカティアを投げ捨てた。
「ひどいな。団長とのふれあいはそんなに嫌かね……」
「オレは異端者だ。暗黒騎士で、賞金首の騎士殺し。馴れ馴れしくするな」
異端者は女神を信仰しない女神を唾棄する者に与えられる罪人の名称。人殺しを厭わない無法者でさえ教会で涙ながらに許しを乞うような人族にとって最悪の罪だ。
暗黒騎士は悪道に生きる騎士のことで、犯罪者の騎士を指す。
まとめると、クルトは極悪非道の大悪人ということだ。
カティアは微笑みながら首を振る。
「……あたしはそうは思わない」
クルトは他人の嘘か誠かを見抜くことはできない。それ故に、誰の言葉も心の底から信用しない。
「口説き文句はもう少し考えるんだな」
いつものようにカティアの言葉を鼻であしらい、何でもないことのように聞き流した。
「…………ッ」
カティアは声を荒げようとして止める。開きかけた口を閉じて、悲しそうに瞳を揺らす。
「……死んではいけないよ、クルト。必ず帰ってくるんだ」
クルトは身を翻す。
言葉を返すことなく、振り返ることもなく、溶岩の輝きに満たされた火口への道を走りはじめた。
死ぬことに恐れはない。怖いのは、仇を討てないことだ。
必ず女神の息の根を止めてやる。神のきまぐれに殺された愛すべき人のために――。
クルトは硬く心に誓うのだった。