コンカラー ~深淵の迷宮に挑む乙女~
暗く深い、どこまでも続くかのように思える道なき道を、彼女は進む。
血と泥で汚れた甲冑に身を包んだ彼女の手には、彼女の胸元まであるロングソードが握られている。
分厚く鋭いロングソードと甲冑は、彼女の象徴でもあった。鉄の乙女と称される彼女は、人前に出る時、必ず甲冑と剣を身につけている。その素顔を見た人間はいない。
兜の後ろから流された三つ編みと、少数の人間が聞いた声、そしてサーコートの下、鎖帷子に覆われた胸の丸みを帯びた膨らみから、アイアンメイデンは女性だと結論付けられていた。
剣を収める鞘はない。深淵に挑む者にとって、不要な装備は文字通り荷物だ。籠手に守られたアイアンメイデンの左手が、鞘の代わりになる。鞘がなければ、抜く隙を敵に見せることもなかった。
アイアンメイデンは、最小限の装備だけを身に着け、深淵の迷宮に挑む。その最深部に潜む何かを見つけるために。
深淵の迷宮は数多の挑戦者を蹴落としてきた。
宝を狙う盗賊も、未知の世界を探す冒険者も、等しく扱う。時に自然の脅威が、時に邪悪な存在が、その全てを飲み干してきた。
だが、生き残る者も極わずかだがいる。その一人がアイアンメイデンだった。
甲冑を着ているとは思えない身のこなしと、巧みな剣術によって、襲いかかる邪悪を退けてきた。
アイアンメイデンは引かない。ただ前進を続ける。
その日、地上から深淵へと舞い戻ったアイアンメイデンの前に、一人の少年が現れた。否。正確には、目の前に飛び出した。
少年は邪悪なる存在……魔物に襲われていた。二足歩行をする醜悪な子鬼、ゴブリンだ。
全身に傷を負っているものの、少年はギリギリのところで致命傷は避けているようだった。
「た、助けてくださいっ!」
少年は目の前に立っていた存在がアイアンメイデンだとは気づかず――他人の格好に注意を払う余裕もなかった――助けを求めた。
アイアンメイデンは立ち止まり、少年とゴブリンを一瞥した。左手で持ったロングソードに右手を添え、走る。
「――ふッ……!」
兜の隙間から、アイアンメイデンの声が漏れた。
ゴブリンの頭部が切断され、少年の目の前に転がる。アイアンメイデンは少年の前に移動し、ロングソードを構え腰を落とした。
新手が現れていた。ナイフや棍棒を持ったゴブリンの集団だった。総勢六体。少年を襲っていたのは、身軽な斥候タイプのものだったのだろう。
「ががっ……! ぎぎっ……! きききるぅぇぇむ!」
リーダー格らしい、他の個体よりも大きなゴブリンがアイアンメイデンと少年に向かって指を差した。それに合わせ、部下のゴブリン五体がアイアンメイデンに飛びかかった。
「わぁっ!?」
疲弊していた少年は、襲いかかるゴブリンに恐怖し尻餅をついた。だが少年に火の粉が降りかかることはなかった。
全ての火の粉は、アイアンメイデンが払っていた。
踊るように、アイアンメイデンはロングソードを振るう。ゴブリンを寄せ付けず、次々と斬り伏せていく。
ゴブリンの腹に剣を埋め蹴り飛ばすと、そのまま刀身を握り、鍔をハンマーのように別のゴブリンに叩きつける。素早く柄を握り直し、アイアンメイデンはリーダー格のゴブリンと対峙した。他に残ったゴブリンはいない。
「ゆぅぅぅすれぇぇ……」
ゴブリンが何かを囁き、手に持っていたメイスを構えた。部下が瞬く間にやられても、引く気はないようだった。
メイスを振りかぶり、ゴブリンがアイアンメイデンに仕掛けた。メイスが風を切り振り、アイアンメイデンの頭に向かって振り下ろされた。
だがアイアンメイデンにとって、それはあまりにもお粗末な攻撃だった。メイスを受け流し、ゴブリンをよろめかせる。
一歩踏み込み、アイアンメイデンはゴブリンの肩に強打を叩き込んだ。
ゴブリンは叫び声を上げた。肩に重いロングソードがめり込んでいる。
「ゆぅぅ……かぁ――」
ゴブリンが何かを発したが、言い終える前にアイアンメイデンは行動に移していた。ロングソードを引き抜きゴブリンの首にそれをあてがうと、勢いをつけ首を跳ね飛ばしてしまった。
「ブロ・エルム」
アイアンメイデンが呪文を囁くと、ロングソードに付着したゴブリンの血液が蒸発し消えていった。構えを解き、尻餅をついたままだった少年の前で屈み込む。
「…………すまないが、私は治療薬の類を持っていない」
アイアンメイデンが、少年の全身についた傷を見て言った。
「だ、大丈夫です。僕、神官なので。狙われていないなら、治癒魔法で治せます」
「……なら、よかった。ではこれで」
アイアンメイデンは立ち上がり、ロングソードを左手に収めた。その場を立ち去ろうとしたが、少年の声がアイアンメイデンを呼び止めた。
「ま、待ってください!」
アイアンメイデンは立ち止まり、振り返った。先を促してると理解し少年が言葉を発する。
「あのっ……ありがとうございます、助けていただいて」
「気にするな。君を助けたのではない。私の進行方向に、障害があっただけだ」
そう言い、アイアンメイデンは踵を返した。
「ま、待って!」
少年は再びその場を立ち去ろうとしたアイアンメイデンを引き留めた。二度も止められ、アイアンメイデンはやや苛立った様子を見せながらも振り返った。ロングソードを地面に立て、肘置きのようにする。
「僕も一緒に、連れて行ってくれませんか? 貴女は……剣姫鉄の乙女でしょう?」
「……巷ではそう呼ばれているらしいな。……なぜ私が、君のような者を連れて行かねばならない? はっきり言おう。邪魔だ。迷惑だ。足手まといはいらない。――君は神官なのだろう? ならば、地上に戻り傷ついた民を癒やすといい。それは私にはできないことだ。……地上への転移石をやろう。これですぐに帰れる」
アイアンメイデンは腰の小さなポーチから結晶片を取り出した。地上へ戻る術式が描かれた魔法の道具だ。
しかし少年は転移石を受け取らなかった。ここで引くわけにはいかない。その決心が、少年を立ち上がらせた。
「僕は、深淵に行かなくてはならないのです!」
「……ならそうして一人で死ねばいい。私には無関係だ」
「それでもお願いします! 邪魔はしません。荷物を持ちます。僕を守る必要もありません。ただ一緒に行かせてください。目的地は同じはずです!」
少年は知っていた。アイアンメイデンがこの無限とも思える広大な迷宮の最深部、深淵と呼ばれる場所を目指していることを。そしてそれが、未だ叶っていないことも。
自分の力が、役に立つはずだ。少年はひたすら心の中で言い聞かせていた。そうしないと、アイアンメイデンに付いていく自信を失いそうだった。
「……君の名は?」アイアンメイデンが尋ねる。
「エルド。エルドです」
「……エルド。私が君を止めることはできない。だが、君に私を止めることもできない。一緒に来るのは構わない。だが、私が君と関わることはない。次、君が死にかけたとしても、私はそれを助けないだろう。……傷を癒やすのだけは待とう」
「ありがとうございます!」
エルドは礼を言い、素早く癒やしの呪文を詠唱した。光の精の力を体内の魔力を代償に引き出す。身体の傷は見る見る癒えていき、元の白い肌に戻っていた。
アイアンメイデンはエルドの傷が癒えたのを確認すると、すぐに深淵へ向かい歩き始めた。エルドも慌てて後ろへ付き、地下へと潜っていった。
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アイアンメイデンの侵攻は、圧倒的と称する以外ない。エルドは必死に彼女の背を追いかけながらそう考えた。
群れで襲いかかるモンスターも、武器を使う人型モンスターも、その圧倒的技量と力でもってねじ伏せていく。
アイアンメイデンが止まるのは、分かれ道をどちらに進むか決めかねた時だけだった。
エルドと鉢合わせてから十六回目の分岐路に到達した時、アイアンメイデンは、それまで存在をなかったことにしていたエルドに話しかけた。
「……君はどっちが正解だと思う?」
「え、ぼ、僕ですか!?」
「……ここには君以外に人はいない」
迷宮の奥深く。ここまで到達する挑戦者はあまり多くない。邪悪の力も増している上、入り組んだ迷宮が正常な判断を狂わせる。
エルドは少し逡巡してから、右の道を指した。
どこかで聞いた話だが、人は無意識に左を選択することが多いらしい。人を嘲り笑うような深淵の迷宮ならば、その心理を突いて右に正解……つまり最深部への道を用意しているのではないかと、エルドは漠然と考えた。
「……ならば右に進もう。感謝する」
アイアンメイデンは地面に突き刺したロングソードを取り、歩き始めた。
自分の判断に、なぜアイアンメイデンは従ったのだろうか? エルドは疑問に思わざるをえなかった。百戦錬磨のアイアンメイデンなら、自分の経験と直感に従った方が、より確実なはずだ。
エルドが疑問に思う暇もなく、新たな魔物が壁から生み出された。迷宮の中では、地上の常識は通用しない。
壁や床、天井までもが、魔物の棲み家なのだ。この異質性を利用した商売も存在しているが、深淵へと挑む挑戦者にとっては、常に気を抜けなくする最大の要因でしかなかった。
自分の身は自分で守らないといけない。アイアンメイデンに頼ることはできないし、彼女もエルドのことは助けないだろう。
だがこの道を選んだ判断が正しかったとすれば? アイアンメイデンにとって、自分は役に立つ存在だと認識させることができれば? その限りではないかもしれない。
壁から生まれ出た魔物は、豚の鼻を持った人型の獣人オークだった。大人の男性よりも二回り程大きい三体のオークが出現し、二体はアイアンメイデンを挟み、もう一体はエルドの前に立ちはだかった。
「ラウ・グレト・ウラ!」
エルドは魔力を代償に、光の防御魔法を詠唱した。青白く輝く魔法の壁が、エルドの周囲に広がる。手に持ったショートスタッフを構え、オークの様子を窺った。
神官であるエルドに刃物は持てない。隙を見て体制を崩し、尖った先端部分で首や心臓を狙うのがいい手に思えた。
オークは鼻をひくつかせると、手斧を構え壁を攻撃した。豪腕から繰り出された斬撃が、魔法の壁を無慈悲に破壊した。
しかし反発の衝撃がオークに伝わり、弾かれたように腕を仰け反らせた。ここしかない。エルドは長く持ったスタッフを横に振り、オークの脇腹に叩きつけた。
「ラウ・ゴーシュ!」
ショートスタッフの先端が輝き、衝撃波が発生した。オークの巨体をよろめかせる。エルドは素早くショートスタッフを構え直し、オークの足元を払った。
突然のことに対応できず、オークはエルドの狙い通り尻もちをついた。オークの鼻っ面にエルドのショートスタッフが突き刺さる。
オークはピクリともせず、その動きを止めていた。絶命したようだった。しばらくすれば、死体を狙う魔物に食べられるか、迷宮の壁が飲み込むだろう。
エルドはアイアンメイデンに気を向けた。アイアンメイデンは既に二体のオークを葬っていた。そればかりか、エルドの様子を見ていた節さえ感じられた。
試されているのだろうか? エルドはそう考えながら、ショートスタッフをオークから引き抜いた。
アイアンメイデンは何も言わず、奥へと進んでいった。
しばらく進むと、エルドは地面が緩やかに傾斜していることを感知した。下に降りている。
次の階層が近いのかもしれない。そう思った矢先に、アイアンメイデンの前に、人間の数倍はある巨大な扉が現れた。
「…………」
アイアンメイデンは扉を黙って見た後、エルドを一瞥してから扉を押した。
アイアンメイデンが手を触れると、扉は滑るように動きその口を開いた。来訪者に反応し、半自動的に稼働しているのかもしれない。
この迷宮を誰が作ったのか。なぜそうなっているのか。多くの人間が考えたが、誰一人として、その謎に辿り着いた者はいない。
謎の一つが、迷宮の構造だ。地下深くへと続くこの迷宮は、いくつもの階層に分かれている。階層ごとに見た目や広さは異なり、魔法の専門家や学者は、空間がねじ曲がっていると言っている。現実にはありえない構造をしているのだ。
迷宮は階層を五つ進むごとに、現れる魔物やトラップ、地形が大きく変わる。それは奥へ進むごとに、凶悪で熾烈なものへとなっていく。
そしてもう一つ。五つ目の階層の最奥部には、階層主と呼ばれる、他のものよりも強靭な肉体を持った魔物が棲んでいる。一度倒せばしばらくの間は素通りすることが可能だが、奴らは際限なく復活する。
エルドは現在の階層まで、他の挑戦者に紛れて通過していた。階層主がいないタイミングを狙ったのだ。
だが今回はそうもいきそうになかった。アイアンメイデンは既にその気配を察知し、ロングソードを腰に構えている。
ここから先に進むには、アイアンメイデンに自分が有能であると示さなくてはならない。
「――ラウ・グレト・プローム」
エルドはショートスタッフをアイアンメイデンに向け、守りの呪文を唱えた。アイアンメイデンが首をエルドに向ける。
「身を守り、能力を活性化させる魔法です。……僕に戦う力はありません。それでも、貴女についていくために、できることをします」
「……勝手にするがいい」
アイアンメイデンは一言だけ話し、再び前進を始めた。エルドは少しだけ距離を離しながらも、アイアンメイデンに付いていった。
二人が扉を超えると、石扉が閉まっていった。
アイアンメイデンとエルドが侵入した場所は、大きな広間のようになっていた。天井から明るい光が差し込んでいる。魔力を吸収し発光する光石、その巨大な結晶が天井に埋まっていた。
広間の奥には湖のようなものもあった。誰が作ったのかわからない、水路のようなものまである。
一瞬の静寂の後、湖の水がせり上がってきた。巨大な黒い腕が伸び、身体を持ち上げその姿を現す。
竜の頭を持った異形の存在、邪悪の化身がアイアンメイデンを見下ろしていた。その大きさは、人間の数倍はゆうに越していた。
鼻が曲がる程の異臭を感じ、エルドは口と鼻を同時に押さえた。
腐っている。これは身体を腐らせ、羽を失くした竜の成れの果てだ。直感的に、エルドは理解した。
アイアンメイデンは既に走っていた。
腐り竜に飛びかかり、その巨体にロングソードを突き立てる。異臭と煙が立ち昇り、アイアンメイデンは腐り竜を蹴りその場を離れた。鋭く研がれていた剣先が、グズグズと泡を立てていた。
腐り竜は、溶解液かそれに近い性質の何かを身体に纏っている。
「アイアンメイデン! こちらへ! 腐食に対抗する魔法があります!」
エルドはアイアンメイデンに向けて声をかけた。
腐り竜の爪を躱しながら、アイアンメイデンがエルドとの距離を近づける。
エルドはタイミングを見計らい、魔法の詠唱を始めた。
「ラウ・グレト・ダルゾ・プローム!」
エルドは左手でアイアンメイデンのロングソードを、鍔から剣先までをなぞった。神聖な光に包まれ、ロングソードが輝く。侵食された剣先も元の状態に戻っている。
「これで……大丈夫なはずですっ!」
エルドは左手を隠しながら、アイアンメイデンに笑みを見せた。アイアンメイデンはすぐに腐り竜へと転進し、ロングソードを構え走り出した。
腐り竜が顎を大きく広げ、口内からヘドロのようなものを吐き出した。アイアンメイデンはそれを躱さず、ロングソードで叩き切った。
ヘドロの塊は真っ二つに切れ、エルドの左右に広がった。守ってくれた……? そう判断してもいいのだろうか。エルドは僅かな疑問を胸にしまい、アイアンメイデンを見つめた。
瓦礫を足場にアイアンメイデンは腐り竜の頭に飛び乗った。腐った身体に刺さった錆びた剣を掴みバランスを整えると、ロングソードを頭と首の境目に押し当てる。
「――はぁぁあッ!!」
掛け声と共に、アイアンメイデンは腐り竜の頭から離れた。体重を乗せ、押し当てていたロングソードを振り抜く。
ロングソードの軌跡に合わせ、空中に黒い輪が作られた。腐り竜の巨大な頭部が切断され、エルドの前に落下する。
アイアンメイデンは華麗に床に舞い戻ると、呪文を唱えロングソードに付いた血を消し去った。エルドに向かって歩き始める。
アイアンメイデンが腐り竜の頭部の横を通過するその瞬間、エルドは見た。腐り竜の目が開くのを。
「頭がっ!!」
声に反応しアイアンメイデンが腐り竜の頭を見るのと、それが彼女に食らいつくのはほぼ同時だった。アイアンメイデンの鎧に、腐り竜の牙が食い込む。
「ラウ・ビット・バルク!」
エルドは神聖魔法を唱え、ショートスタッフを腐り竜の頭に叩きつけた。眩い光が溢れ、腐り竜の不浄を消し去る。
だがその威力は十分ではなかった。頭部は依然として存在し、アイアンメイデンに食らいついたままだった。
それでも、一瞬の牙の緩みが、腐り竜の運命を変えた。
いつの間にか、アイアンメイデンはロングソードを構え直していた。頭上高くに持ち上げたロングソードを振り下ろす。
腐り竜の頭は顎から切り裂かれ、真一文字に切断されていた。腐った頭部が蒸発を始める。今度こそ討ち取ったようだ。
カラカラと音が響く。アイアンメイデンは手に持ったロングソードを落とし、膝をついていた。
ここで剣姫を死なせる訳にはいかない。深淵に最も近いのはアイアンメイデンだ。自分にはできずとも、彼女になら望みを託せる。
エルドは倒れたアイアンメイデンの甲冑を外し始めた。アイアンメイデンが抵抗する気配はない。僅かに身体を動かすことも叶わない程、傷ついているのだ。
兜の下から現れた女性は、見目麗しい絶世の美女だった。金色の髪に翠眼。儚く見えるのは、命の灯火が失われかけているせいかもしれない。
エルドは傷口に手を当て、祝福の呪文を唱える。残った魔力では、最大限の効果を発揮しない。命を削る覚悟が必要だ。
「ラウ・ガット・ホリエト・ケルシュ……。癒しを、この者に」
傷口から暖かな光が溢れ出す。エルドは脳に霞がかかったような感覚を覚えながらも、意識を強く保ち、魔力の放出を続けた。
気づけば、エルドは気を失っていた。一度目が覚めたが、すぐにまた意識を失った。
まどろみの中、エルドはアイアンメイデンの無事を祈った。自分の命は失ってもいい。彼女の回復だけが気がかりだった。
やがて目が覚めた。エルドは暗い通路の中に自分がいることを悟った。どこかわからなくとも、深淵の迷宮の中にいることだけは理解できた。自分は生きている。そのことに喜びを感じ、アイアンメイデンの無事を知りたいと願った。
頭を起こし、辺りを見る。
「――目が覚めたか」
背後から声が聞こえ、エルドは振り返った。兜を脱いだアイアンメイデンが、石を腰掛けにしてエルドを見ていた。
「よかった、貴女も無事だったんですね」
「……君のおかげだ。礼を言う。君がいなければ、私はあの竜に敵わなかったかもしれない」
「そうだったら、嬉しいです」
アイアンメイデンは水筒をエルドに渡した。喉の渇きを覚えていたエルドは、遠慮せずそれを受け取り口を潤した。
「……体調はどうだ?」アイアンメイデンが尋ねる。
「悪くは……ないです。休んだおかげか、魔力も戻っているように感じます」
事実だった。エルドは既に、気力も魔力も十分に回復していた。
アイアンメイデンが立ち上がり、兜を被る。
「……ならば進もう。深淵に向け」
「――僕も一緒でいいんですか?」
「構わない。君を足手まといと否定したこと、謝罪する。君は素晴らしい神官だ。私にはできないことを沢山やってのける」
アイアンメイデンは明後日の方向を見たかと思うと、エルドに手を差し伸べた。
「私と共に来てくれるだろうか? エルド」
「……はい。貴女を支えます、剣姫鉄の乙女」
エルドはアイアンメイデンの手を取り、立ち上がった。
剣先の腐食に触れ焼け爛れたエルドの左手には、包帯が巻かれていた。
エルドはショートスタッフを拾い上げ、アイアンメイデンの一歩後ろを歩き始めた。
深淵を目指す旅は、まだ始まったばかりだ。