第四章
馬を走らせて東北に向かい、月が二回円になるのを見た頃、ヒュターイの首都、ヘイフォンにたどり着いた。焼き煉瓦の城壁の外にまで無秩序に民家や茶屋などがあふれ出し、ロールバルトの都市とは対照的だった。
城壁をくぐった頃、太陽はまさに南中に輝かんとしていたが、その光もヒュターイの冬を和らげてはくれなかった。路端には雪の塊が溶けずに残り、舗装されていない道は酷くぬかるんでいた。
「これが、世界一の超大国ヒュターイの首都……」
エリカは感嘆の言葉を洩らした。
確かに、道行く人の数は、他国とは比較にならない。人と肩をぶつけずに歩く事ができないほどだ。飲み屋の隣りに宗教施設があり、その向かいに民家が建っている……というような無秩序さが、混乱に拍車をかけているようだ。
この雑踏の中から、ロールバルトの領事館を探すのは、酷く手間取るだろう。ヒュターイ人に道を訊ねながら歩き回り、小運河のほとりにその建物を見つけ出したとき、すでに日は西に傾きかけてきた。ロールバルト風に建築された領事館は、周りの建物から浮き上がって見えた。
領事館の警備官は、アルディ人二人と、ロールバルト人二人が馬に乗って近寄ってきたので、警戒の色を見せた。
「何だ、お前達は」
黒いチェニック、手に槍を持った警備官二人が四人の前に立ちはだかった。
「わたしは、エリカ・アストラ・ファビアーノ、彼らはその仲間達よ」
エリカは、腰に手を置き偉そうに言った。
「は?」
横柄な態度に、警備官は一瞬きょとんとした顔をした。すぐに、槍を握る力を強めるのが分かる。アルケンの顔から血の気が引き、レンは眉をしかめ苦々しい表情をした。
「は、じゃないわよ。ロールバルト共和国ティアルバルトに居住するファビアーノ伯の娘よ」
「何を言っているんだ、おのれ、曲ものめ!」
警備官の一人がエリカに槍を突きつけた。さすがのエリカも、後ずさる。
「な、なによ。善良なロールバルト国民に、武器を向けるって言うの? それが領事館のやることかしら」
「妖しい奴はみんなそう言うんだよ。立ち去れ、さもなくば拘束し、徹底的に取り調べをしてやるからな」
「ま、待って下さい!」
アルケンは、ようやく会話にわって入った。
「僕たちは、旅のものです。しかし、ヘイフォンはおろかヒュターイに来たことすら初めてで……」
「旅だぁ、ロールバルト人がアルディ人を連れて旅か。しかも、貴様らのような子供が……」
「僕たちは学生です。学究の旅をしているのです」
「学生だと。確かに学生が旅をすることはあるが、何でヒュターイまで来るんだ?」
「知識を求めよ、例えそれが地の果てであろうとも……、我らの預言者の言葉だ。人が知識を求めるのに、距離は関係なかろう」
それまで黙っていたレンが口を挟んだ。
「お前らの宗教の預言者の言葉など知らんわ! やはり全員妖しいな、しょっ引くか」
レンは、腰に下げた刀の柄に手をかけた。警備官達も臨戦態勢だ。
「エリカ、あなたエリカよね」
突然、アルケン達の側面に立った誰かが叫んだ。西日を背にした少女が一人立っていた。
「お嬢さん……」
警備官達の動きが止まった。
「シン・ファル、シン・ファルね。ひさしぶりー!」
エリカが大声を出した。
「やっぱり、エリカね。ヒュターイまで何しに来たの」
「あなたに会いに来たの」
「それだけ? その人達は、誰? ロールバルト人ではないようだけれど」
「事情は、あとで説明するわ。それよりも、この警備官達を何とかして」
「あなた達、お仕事ありがとう。けれども、その子はわたしの友達で、身元は保証するわ。ティアルバルトのファビアーノ伯と言えば有名でしょう」
「それは、この人も自分でそう名乗っていましたが……、お嬢さんが言われるなら本当なのですね……」
警備官達は槍を下ろした。
「よく来てくれたわ、歓迎するから中に入って頂戴!」
「お嬢さん、ファビアーノ伯爵公女はともかく、他のものを建物内に入れるのは危険なのでは?」
「そうね。でも、放っておくわけにもいかないから、武器だけお預かりしてよろしいかしら」
シン・ファルは、帯剣しているレンとその部下のファタイに向かって言った。
「致し方あるまい」
領事館の中庭で身体検査を受けたあと、四人は迎客の間に案内された。
*
「まあまあ、エリカちゃん。久しぶり!」
迎客の間で、マホガニー製のテーブルを囲うように座っていると、シン・ファルが女性を連れてきた。白磁のような肌という表現がぴったりの清楚な女性だった。
「何年ぶりかしらね……、会うの。あなたのお父さんにはお世話になりました」
女性が笑うと、場の空気がパッと明るくなった。彼女こそ、シン・ファルの母……つまり領事の妻であることは間違いなかったが、姉と言っても通じそうな程若々しかった。
「わざわざ会いに来てくれるなんて、とても嬉しいわ。皆さんでいっしょに食事でもしましょう。そちらの男性方は?」
アルケンとレン達は一斉に立ち上がって、女性に挨拶した。レン達の風変わりな挨拶に夫人は少し驚いたようだが、あくまで笑顔を絶やさなかった。
「わたしは、ヘレナ・ファルと言います。在ヘイフォン総領事、メイプル伯の妻です」
挨拶が終わると、皆が席に着いた。
「ところで皆さんは、何をしにヒュターイに来たの?」
それは、当然の疑問だろう。
「わたしたちは、古代文明の……」
また余計なことを言われるのを、アルケンが阻んだ。
「僕たちは、学究の旅に来たんです。何しろ、ヒュターイは世界の中心、学問も発達していると聞いたので」
「そう……、アルディ出身のお二方は何で?」
「俺達は、ヒュターイにいる同胞に会いに来たのだ。その旅の途中、彼らと出会ってウマが合ったのでね」
「確かに、先の戦争以後、アルディからヒュターイへの留学者は多いからね」
「ふむ……」
レンは複雑な表情をした。アルディでも、変わり身の早い若者達は自分達の文化を捨てて超大国の様式を身につけようとしているのかも知れない。それがよいのか悪いのか、レンにも判断がついていないのだろう。
「初めて見るヒュターイの感想はどう?」
「色々な国の人が集まって、無秩序な所ね……。ただ、中にロールバルト人が奴隷のように働かされているのを見たけれど」
ヘレナ・ファルは渋い顔をして娘の方を見た。
「それは、奴隷のようにではなくって、本物の奴隷だわ……」
「何ですって!」
「今更驚くことではないはずよ。ロールバルト共和国は毎年数百人の奴隷をヒュターイ皇帝に献上している」
「そんな……」
「代わりにロールバルトはヒュターイの豊かな物産を下賜され、平和を維持している」
政府から全権をゆだねられた領事の妻、ヘレナ・ファルは淡々と語る。
「おかしいわ。ロールバルト共和国に奴隷という制度はないわよ! 誰もが幸福に生きる権利を持っているわ」
エリカは声を荒げた。
「権利という言葉はヒュターイにはない」
「ヒュターイの話しをしているんじゃないの。ロールバルト政府は、市民が最低限の生活を維持できるようにする義務があるはずだわ」
「奴隷になるのはどうしようもない犯罪者か、食い詰めものばかりよ」
「でも、彼らがそこまで追い詰められるのは、世の中がおかしい……つまり為政者がおかしいって事にならない?」
「奴隷としてヒュターイ皇帝に献上されるというは、彼らへの最後の救済措置ともなっている。皇帝に認められれば、奴隷身分から解放されて軍人や官僚になる道も開けている」
「そんなの、いい訳だわ!」
エリカは机を叩いた。アルケンには彼女の優しさがよく分かった。アルケン自身、下層民に属していたから、奴隷という運命を辿る可能性もあり得た。全体の利益のために、少数者が犠牲になる……、それが世の中の残酷な掟なのだ。
「エリカ、確かにあなたの言うことは正しい。これから、あなたのような考えの人がロールバルトの中心になっていけば、世の中は変わるかも知れない」
掟は変えられるか? それ程楽観的な見方はできなかった。
「ヒュターイは、そこまでしなければならないほど強いの?」
彼女の口調は落ち着いたものに変わっていた。
「強い」
ヒュターイに敗北したアルディの高官レンが言う。
「禁軍だけで十万。地方の兵をかき集めれば百万以上動員できるだろう。だが、一番やっかいなのは兵器だ。射程距離がわれわれの弓矢の五倍はある弩、何より恐ろしいのは火薬という兵器だ。あれで、我らの兵がどれほど殺されたか……」
火薬、ロールバルトでは噂で聞いても、誰も見たことのないそれが、ヒュターイでは当たり前のように使われているのだった。
「媚びへつらうしかないって言うの?」
「残念ながら、今のところ真っ向勝負は無理ね。敗北することが分かって戦いを挑むよりは、偽りの平和の方が望ましい」
「……そう」
珍しくエリカは、大人しく黙ってしまった。多分、ヒュターイの繁栄ぶりを見て、さすがに観念したのだろう。
「まあ、今日ご覧になったとおり、ヒュターイは愚かな国ではないわ。法が整備され、庶民は生活を楽しんでいる。大陸のど真ん中でヒュターイが頑張っているから、他の地域は自分達の内政に専念できるという利点もある」
ロールバルト風に調理された食事が運ばれてきた。久しぶりのロールバルト料理だったが、胡椒などの香辛料がふんだんに使われていて、本国で食べるよりも豪華な気がした。 同じロールバルト人がこの国で奴隷のように働かされているのに、このように豪勢な料理を食べるのに後ろめたさを感じた。エリカも同じ気持ちなのか、複雑な表情をしている。
「さて、わたしは公務があるからこれで失礼するわね」
ヘレナ・ファルはナプキンで口をぬぐうと、きびきびした動作で立ち去っていった。彼女はロールバルト貴族の中では良識派だろう。だが、アルケンのように貧しい出自のものからすれば、羨みと嫉妬の視線で見てしまうのは禁じ得なかった。
残された領事の娘、シン・ファルが口を開いた。その目は、油断ならない政治家のように鋭かった。
「あなた達、本当は何しに来たの。エリカ、学校をさぼってまで旅に出た理由は何?」
「それは……」
エリカは口ごもる。それをごまかすように、レンが喋り出してくれた。
「それについては、俺が説明しよう。俺達の王が、このフェイフォンに連行されたのは知っているだろう」
「……知っているわ」
「俺はアルディの役人だ。フェイフォンにとらわれている王を救出したい。その協力を彼らに頼んだのだ。なにしろわれわれはヒュターイに有力な足がかりがないからな」
「本当に、そうなの?」
シン・ファルはエリカをじっと見た。エリカは黙って頷いた。
「だけれど、レンさんとあなた達が出会ったのはアルディでしょう。アルディまで旅をしたのは、どういう理由によってなの?」
「それは、学究の旅だ。古代文明の遺産を集め調べるために」
アルケンは何とかぎりぎりの線で、上手くごまかそうとした。
「帝国がアルディ王国から古代文明の遺産をかっさらっていったと聞いて、ここまでやってきた」
「なぜ、古代文明の遺産なんて手に入れなければならないの? わたしも少しだけ見たことがあるけれども、文字は誰も読めないし、何に使うのか分からない道具ばかり……」
「アルディには、現代人にもある程度分かる言葉で書かれた写本があるらしい。それを見ることができれば……」
「そうなの……。確かにわたしも、今よりずっと文明が進んでいた古代について知りたいと思うことはあるけれど、それで旅をしてしまうなんて……」
一説に、古代文明の人々は空を飛び、星々の海にまで進出していったという。この空の外側に何があるか、彼らは知っていたのだ。
「分かったわ。でも、残念ながらこの領事館にそう言った宝物は流れて来てないわ。ヒュターイの宮廷に一括して集められているのでしょうね」
「我らの王も、宮廷に捉えられているのか」
レンが、身を乗り出した。
「おそらく、地下牢にとらわれているのでしょうね。噂では広大な王宮の下には、地下空間が広がっているんだって。でもそれは、禁中の人間しか知らない。助け出すなんて、できっこないわ」
食卓に、沈黙が流れた。世界一の大国の王宮、そこに侵入するなど、無謀でしかないのだろうか。だが、アルケンには思いついたことがあった。彼は立ち上がり、部屋の隅に置いてある、膨れあがった背嚢の中身を出し始めた。動物の皮に包まれた本が何冊も出てきた。古代文明の技術で作られた、何百年経っても古びない特殊な本。あくどい商人、ブランキスコから奪ったものだ。その中の一冊が、今回の目的のヒントになるかも知れなかった。
「これを見てくれ」
テーブルの上に並べられた皿をどけ、本を開いた。
「これが何に見える。多分、これは地形図だ」
みんな身を乗り出し、図をのぞき込む。
「言われてみれば、地図に見えなくもないわね」
本の表紙は、当然古代文字が書いてあった。アルケンには即座に地形図と分かったのだが、まさか古代文字が読めるなどとは言えない。どうして地形図と分かったのか、根拠を示さなくてはならない。
「そしてこれが……」
アルケンは、油紙に包まれた、ペラペラの紙を取り出した。毒々しく彩色されたその紙は、最近作られたフェイフォンの地図だ。
「これは、大分模式的に作られているが、僕たちがよく見慣れている様式の地図だ。地形図のこのページと見比べてみると同じ部分を示していることが分かるだろ」
フェイフォンの北方にある高い山並み、南にある大きな沼、左右の小さな丘陵地帯、皆地形図に描かれているものと配置が同じだ。さらに、古代文明以来使われてきた巨大な街道も描かれている。
「確かに、これがフェイフォンの古代の姿だったのかも知れないわね。建物が描かれていないようだけれど、古代には何もなかったのかしら?」
「いや、地形図だから建物を省略したとも考えられるな。で、次のページ」
アルケンはページをめくった。細かな方眼の上に、ミミズが何匹も適当に這ったあとのような図が描かれている。
「何よ、これ」
古代文字を読み下せるアルケンには、その図の意味がすぐに分かった。その事を隠して説明するのは、至難の業だ。
「よく見てみろ、うっすらと前のページに細かく描かれていたものが拡大されているはずだ」
前のページで画面の中央付近にあった滝や、小川とおぼしきものが薄い水色で描かれていた。
「まず、これは現在の帝都フェイフォン周辺を拡大して描いた図だと考えられる」
皆、二つの図を交互に見比べて、アルケンの言ったことを検証しようとした。
「それは、分かるわ。でも、そうするとこのアリの巣の断面図みたいな絵柄は何を示しているの?」
「ご名答! まさに蟻の巣穴さ!」
アルケンは机を叩いた。エリカはぽかんと口を開いている。
「成る程、これはフェイフォン地下に廻っている、地下洞穴の図ということか」
レンの一言で、皆合点がいったようだ。
「この地下洞穴の一部か全部か知らんが、ヒュターイ人は地下牢などに利用しているんじゃないだろうか。そして……」
アルケンは地形図のある場所を指さした。
「今も、この辺りに滝があることは間違いありませんね?」
「……多分、伏虎の滝と言われている、大きな滝の事だと思うけれど。フェイフォン郊外の名所だわ」
「その滝の裏側に、おそらく地下洞穴への入り口がある。そこから、王宮の地下牢への侵入も可能かも知れない」
レンが、アルケンの肩を何度も叩いた。
「わ……、何を」
「素晴らしいじゃないか、アルケン君! 早速、準備にかかろう!」
「まって、皆さん」
浮き足立つ皆の中で、シン・ファルだけが冷静な声を出した。
「ロールバルト共和国とヒュターイ帝国は同盟関係にある。もし、ロールバルト領事がヒュターイの王宮に賊の侵入を許したとあらば、どうなるか分かるわね」
「何が言いたい」
レンは、殺気だった目でにらみ返した。シン・ファルは屈しない。
「わたしが、ヒュターイ当局通報し、あなた達を牢獄送りにすることもできる。領事の娘としては、むしろそれが義務だわ」
それを聞いたエリカは大声で笑った。
「何を言っているの、シン・ファル。あなたがそんなことをするはずがないじゃない!」
エリカの喰った屈託ない笑いに、シン・ファルは拍子抜けしたようだった。
「昔からあなた、こういう秘密の場所を冒険するの、大好きだったじゃない。いつだったかも、迷いの森に入り込んで……」
エリカは、幼い日の昔話を語りはじめた。
「あー、もう、分かったわ! わたし、どうしようもなくワクワクしているのよ! あなた達といっしょに同行させて頂戴!」
シン・ファルは敗北を認めた。
「だが……、いいのかね、本当に。ロールバルトとヒュターイの戦争に繋がる可能性があるぞ」
「ヒュターイとの同盟など、表面的なことに過ぎない。少しでもその足を挫くのが、わたし達の裏の役割よ」
世の中はきれい事で成り立っているのではない、様々な手練手管こそが秩序を保っているのだという、エスド子爵の言葉を思い出した。世の中を変えていくためにも、それは必要なのだろう。
だが、そうして策略を練っていくうちに底なし沼にはまり、ロールバルトの政治家達は理想を失っていくのだった。
*
アルケン、エリカ、シン・ファル、レン、ファタイの五人は、いかにも外国から来た旅人という出で立ちで、滝壺の前に立っていた。
真夜中、天には星々が輝き、地の人々は眠りについている。五人とも、首から小型のランタンをぶら下げていた。
「地形図は頭に入っている。この滝の裏側から、地下洞穴に通じているはずだ」
「暗闇だ。水に濡れた岩は滑りやすくなっているから、気をつけろ」
皆、手探りで、滝の淵にある岩を伝っていく。シン・ファルが転びそうになったのをアルケンが助ける。誰も喋らない。
滝の裏側には、確かに人が一人通れるほどの穴があった。
レンが、無言で穴の中に入る。続いてアルケン……。
暗闇の中を、手探りで歩いていく。最初、身をかがめなければ歩けないほど狭かった洞穴が、両手を広げられるほどに広くなっていく。それにともない、なぜか明るくなってきたような気がする。
「明るいな」
レンが小声で呟く。
「やはり、この奥に人がいるからか。用心していくぞ。見つかったら最後だ」
アルケンは、ベルトに挟んだナイフを掴む手が震えているのが分かる。ヒュターイの精鋭と戦いになったら、膾にされるだろう。コソコソと、油虫のように進むしかない。
明るく視野が開けてきたのは、気のせいではなかった。それは、松明等の明かりではなかった。壁自体が、青白く発光しているのだ。
「なんだ、これは」
レンの言葉を受けて、ファタイが壁を触ってみた。アルケンも意識して触ってみると、ふかふかとした感触がする。
「苔ですね、苔が強い光を放っているんだ」
やがて、洞穴はツルツルのの整備された通路へと変わっていった。苔は天井にびっちりと生え、どういう分けか床や側面の壁にはあまり生えていない。床も壁もツルツルとした固いものでできているが、素材がなんなのか全く分からなかった。
「まさか、これも古代文明の遺産」
通路は縦横無尽に張り巡らされているが、基本的に例の地形図の通りの道だった。
「アルケン、本当に地形図は頭に入っているのだろうな。君の頭が一番の頼りだぞ」
とレン。
アルケンは無言で頷いた。
「でも、デタラメに歩いてもあまり意味がないわ。持ってきた地形図を見せてもらえない?」
シン・ファルが右手を差し出した。背嚢からそれを取り出し、無言で渡す。回廊の光量は、地形図の細部を見るに十分な明るさだった。
「昨日の夕方、会議したとおりに行きましょう。まず、この辺りに……」
シン・ファルが地図の南西部を指さした。
「地下牢がある。地図を見る限り地下牢とこの回廊は繋がっている。もちろん、後の改修で作りが変わっている可能性はあるけれども、行ってみる価値はある」
シン・ファルは、帝国への朝貢貿易の度に禁中に入っている。全てを見てきたわけではないが、帝国の高官は自慢げに建物の構造を説明した。他国の建築技術では、これほど広大で高さのある建物は建てられないだろう……と、その時偶然に地下牢のことを知ったのだ。
「予定どおり、二手に分かれよう。わたしとファタイは、地下牢を目指す。悪いが、この地図はわたし達が持っていく。よろしいな。事が上手くいったならまたこの地点で落ち合おう。念のため、この石を目印に置いておく」
レンは大粒の黒曜石を取り出して、床面に置いた。確かにこれなら、外部のものの侵入した形跡とは思われづらいだろうし、かといって見失ってしまうほど目立たないものでもなかった。
「ただし、敵に見つかりそうになった場合にはその限りではない。最悪、互いを見捨てても生き残る。いいな。もし、どちらかがこの場所に先にたどり着き、待っていることができなかったとしたなら、この赤い石を黒曜石の側に置いてくれ」
皆は辺りを警戒していたため、まともに頷くこともできなかった。アルケンが、赤い石を一つ受け取る。誰かが歩く音が微かに感じられ、消えた。
レン達は何も言わずに姿を消した。
「さて……、わたし達はどうする」
シン・ファルがアルケンに訊ねる。アルケンはエリカの様子を窺った。
「ここまで来ておいて、躊躇う理由はないわ! 大広間に行きましょう」
「こ、声がでかい……エリカ……」
慌ててエリカの口を押さえるアルケン。
誰かが、歩いてくる気配がする。三人は、回廊の出っ張りの背後に隠れた。
ちらりと顔を出し、様子を窺うと、先ほど三人が立っていた場所を、女官と思われる二人組が歩いていた。
「何か、声がしなかった?」
「まさか、この禁中で大声を上げるものなどいないわ」
「賊が入ったなんて事はないでしょうね」
「あり得ないわ、厳重な警備をかいくぐって……」
「そうね。そうよね」
どうやら女官達も、滝の裏側に回廊への入り口があることを知らないようだった。強大な帝国の首都の、大きな瑕疵かも知れない。
女達はしめやかな足取りで去っていった。三人は、なるべく身を隠す障害物の多い道を選びながら進む。やっかいなことに、女官達の人口密度はかなり高かった。
三度目に身を隠したとき、おぞましい話し声と共に女官が通りすぎた。
「また、巫女様は生け贄をご所望よ」
「純血の少女を、掠ってこいって将軍にご命令されてたわ。これで何度目よ」
「まあ、あのお方の占いは良く当たるから。皇帝陛下も理屈に合わないことはお嫌いらしいけれど、やめさせることも出来ないんでしょう。良く当たるから」
「むき出しになった内蔵なんかの処分をする、わたし達の身にもなって欲しいわ」
「ん……、誰かそこにいるのかえ?」
女官の一人が、アルケン達の気配に気がついた。まずい。
「と、取り敢えずそこの亀裂に」
三人の隠れている場所の壁には、大きな亀裂がむき出しになっていた。古代には舗装されていたものが崩れ落ち、そのままになっているのだろう。身体を真横にしてなんとかその亀裂に入った。背中に背負った背嚢は、頭の上に担ぎ上げる。中身を必要最低限のものにしてきてよかった。中は、そのままの体勢でようやく進めるほど狭かった。
「む……、ネズミか何かの間違いか。誰もおらぬわ!」
背後から聞こえてきた女官達の声にほっとため息をつく。光る苔も生えない岩盤の狭間をゆっくりと進む。
この隙間も、古代の地形図には描かれていた。このまま行くと……。
先頭のアルケンは、さし込んでくる光を見つけた。外に出てしまうのか……いや……。 そこは、大広間だった。
「動くなよ、二人とも。誰かいる」
隙間から見えるのは、不気味な怪物の彫刻がされた祭壇、巫女らしき人物が立ち、その前に軍人が跪いていた。漂ってくるのは、強烈なお香の匂い。何か儀式の最中なのか。
「慌てるでない、アオ・ダイ将軍。上帝は、必ず我らのもとに宝物をもたらして下さる」
巫女の髪の色は、普通ではなかった。苔の光のせいでよく分からないが、緑色に近い。髪を緑色にする方法などないはずだから、それが地毛なのだろう。
「は、しかしロールバルトでの失敗は痛いものでした。おかげで、宝物の行方が分からなくなってしまった。わたくしの不徳の致すところです」
「確かに、わたしの占いでも宝物が何処にあるのか、明確にはつかめぬ」
待て……、ロールバルトでの失敗だと? エリカが息をのんだのが分かった。
ロングバルト老師を殺害したのは、こいつらなのか。
「宝物の所持者が、なぜわれわれが迫っていることに気がついたのかもよく分からない。だが、将軍」
「は」
「上帝は、粒子の細かな動きまではコントロールしないのだ。それでも、大局的に見て世界をある方向へ動かす力をお持ちだ」
「失礼ですが、どういう意味でしょう」
「砂粒一つ一つの動きを予想しなくとも、砂埃を巻き上げることは誰にでも可能だ。それと同じだ」
「成る程」
「占いでは、我らのすぐ近くにまで宝物はやってきておる。おそらく、この帝都にあるはずだ。それを今捕まえるべきかどうか、まだ思案が必要だが、引き続き探索すべし」
――行こうではないか、我らの理想のために!
巫女は、そう高らかに叫ぶと、将軍をともなって大広間から出て行った。
人の気配は全く消えた。
エリカが背中を人差し指でつついてくる。
「ねえ、どうなっているの」
「いや、人がいたが、大広間からは出て行ったな」
「じゃあ、わたし達もこの隙間から出てみない。もう苦しくて、限界よ」
「騒ぐなよ。出たら一気に祭壇の裏側まで走り、そこに隠れるぞ」
アルケンは大広間から顔を出し、辺りの様子を窺い、右足・左足・胴体の順番で、身体を捻り大広間に出た。すぐに走る。エリカ、シン・ファルがそれに続く。
祭壇はほぼ立方体の形をして、アルケンの部屋一つ分ぐらいの大きさがあった。龍のような浮き彫りがされた柱の上には、極彩色の天蓋が据え付けられている。なぜか血なまぐさい臭いがしたのが気になった。
祭壇の裏側には、空間があり、三人はそこに身を隠した。
「誰もいないようだな」
「なら、祭壇の影から出てこの部屋にめぼしいものがないか探しましょう」
「待って、もしその間に誰か来たら……」
意見がまとまらない。だが、アルケンには気になることがあった。
祭壇の裏側の壁に、文字が刻まれているのだ。古代文字。訳すならば「記録庫入り口」だろう。
アルケンは、試しに壁を叩いてみた。高い音がするが、職人でない彼には、壁の後ろに空間があるかどうか分からない。
壁には、円筒形の突起物がついており、その周りには数字が書かれていた。触ってみると、突起物は回転するようだった。アルケンは地形図を頭に思い浮かべる……。
「この壁の向こう側に、空間があるかも知れない」
「なぜ、分かるの」
「この部分を見てみろ。継ぎ目がある。この壁の一部分が外れる可能性がある」
「本当だ。でもどうやって開けるの」
それが問題だった。どう考えても、壁に取り付けられた突起物が鍵となりそうなのだが。エリカもそう思ったらしく、突起物をグルグル回転させた。しかし、扉が開く気配はない。
ふと、壁の上の方に貼られた茶色い紙に目がいった。古代文字ではなく、ヒュターイ人が使う象形文字が書かれていることから、最近貼り付けられたものだと分かる。さすがにヒュターイの古代文字の読み方には自信がなかったから、シン・ファルに訊ねてみる。
「……、『覚え書き』と書かれているわ。その下は、右4、左3、右2、左という文字が連続して書いてある」
「あの、奇妙な記号は」
確か、ヒュターイ人がよく占いに使う記号だと思ったが、何を意味するのかは知らなかった。長い直線の一本棒と、それと同じ長さになる二本の棒を様々に組み合わせている。
「一本棒の方が無を、二本棒の方が有を意味する記号だわ。それを組み合わせることで、物事の様々な状態を表現するの」
「成る程な。多分、あれは扉の開け方を忘れてしまったときの『覚え書き』だろう」
「分かるの? どうやって開けるか」
エリカが笑顔でアルケンの顔をのぞき見た。
「うーん、例えば無を0と、有を1としたとき、一番最初の記号は右4・110111、二番目の記号は左3・10010、右2・1001000となるな。これは……」
二進法という数字の表記があることは母親からならったことがある。母の家にずっと昔から伝わる秘技で、いずれ役に立つときが来るからと教えてもらったのだ。多分、老ロングバルトすら知らなかった技術だろう。まさかとは思うが、試してみる価値はある。
「自信はないが、試してみる価値はある方法がある」
壁には印がついていて、そこに突起物の数字を合わせることができる。おそらく、暗号の意味は、突起物を右に四回・55の目盛りに合わせて回し、左に三回・18の目盛りに合わせ、右に二回72の目盛りに合わせ、最後に左に回す、と言うことだろう。
「何で、そんな数字が出てくるのよ」
エリカも、シン・ファルも不思議がっていた。アルケンは、自分の予想どおりに突起物を回した。最後に、何かが外れる音がした。
「この世の数字を皆、有と無の二つで表す方法があるんだ。多分、貼り付けられていた紙は、扉の開け方を忘れてしまったときのために誰かがヒュターイ語で暗号を描いたものだろう」
アルケンは、壁を力強く押してみた。それは、ほとんど音を立てずに内側に開いた。まばゆい光が、彼らの目を眩ませる。
「眩しい……、苔の光じゃないぞこれは」
「とにかく、入ってみましょう」
エリカが、目を細めながら室内に入った。
所狭しと木造の棚が並べられているその光景は圧巻だった。全体の広さはよく分からないが、学園の教室一つ分ぐらいはあると思われた。眩しく輝いているのは、天井に張り付けられた白い板だった。どのような原理で光っているのか、全く分からなかった。
アルケンは、棚の上にびっちりと載せられた品々を眺めた。ガラスのように透き通ってはいるが、動物の皮のように柔らかいもの……、本のように開かれ、文字盤が配列された奇妙な固いもの……皆用途不明の古代文明の遺物のようだ。
「これは……、凄い!」
珍しくアルケンが歓声を上げる。
「ヒュターイ帝国が古代文明の遺物を収集しているっていうことは聞いていたけれど、まさかこれほど……」
シン・ファルも目を丸くしている。
「アルディから奪った古代文明の遺産もここにあるな。おっ、これは何かの機械のマニュアルらしいな。アウライ・エルテム……クァトドオ。エルテムって何のことだろう」
アルケンは何気なくそう言った。その後、不審な目で見つめる二人に、青ざめる。
「あなた、古代文字が読めるの?」
「い、いや、それはその……」
もはや、隠しようがなかった。生まれてこの方、必死でその事を隠してきた日々を、不注意から裏切ってしまった重みが、アルケンの心にのしかかった。
「どうも、昔からおかしいと思っていたのよね。古代の地形図を簡単に読みこなしたり、この部屋があることが分かったり。あれ、扉に書かれていた古代文字を読んだのよね」
アルケンは、諦めたようにため息をついた。
「そうだ、僕は古代文字が読める」
「どうして?」
「母から習ったんだ。母がなぜ読めたかは、本当に知らない」
「古代文字が読める。何て、何てこと」
エリカとの旅も、ここで終わりだと思った。古代文字が読めるなどと、そんな気持ち悪い奴と行動を共にしてくれるわけがない。だから、母は絶対に他人に知られるなと忠告してくれたのだ。
「凄いじゃない! それを早く言いなさいよ。これで、わたし達の目標に一歩近づいたわ」
エリカは諸手を挙げて喜んだ。
「素晴らしいことだわ。今度、わたしにも教えてよ」
二人の反応は、アルケンの予想とは違った。
「二人とも……」
僕を気持ち悪いと思わないのか、そう言おうとしてアルケンは口ごもった。なぜか、涙が流れそうなのを必死で堪えていた。
「ふう……、絶対に黙っていてくれよ。面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だからな」
実際にはもう、面倒ごとに巻き込まれているのだが。アルケンは、古代の遺物を物色しはじめた。
「何をしているの」
「いや、今後の旅に使えそうなマニュアルを探しているんだ」
ロングバルト老から渡された宝物の用途が書かれている文献や、ガルドノーシュにあるという装置の操作手引きなどがあれば一番よいのだが。
*
めぼしいものを背嚢に詰めると、アルケン達は、元来た通りに引き返した。レン達との待ち合わせ場所にたどり着く。黒曜石は元通りの場所においてあったが、赤い石は置かれていない。
「しばらく待ってこなかったら、外に出よう」
その時、誰かが歩いてくる気配がしたので、アルケン達は物陰に身を隠した。
レンとファタイ、そして白いヒゲを生やした初老の男が歩いてきた。
「レンさん! 上手くいったのですね」
三人は影から顔を覗かせた。
「ああ。この地下道は、牢獄につながれていた。探すのに手間取ったが、ヒュターイ兵に気付かれる事なく王陛下を助け出せた」
「そちらの方が……」
「ああ、イシーデ・メイフ陛下だ」
とらわれの身だけあって決して美しい身なりではなかったが、王としての威厳は消えていなかった。
「君たち。レンから話しは聞いている。いま、何かお返しできることはないが、礼を言うぞ」
イシーデは三人に頭を下げた。真摯な態度だった。
*
ロールバルトの領事館まで無事にたどり着いた六人は、すぐに旅の支度をはじめた。太陽が弱々しい光を地面に投げかけている。酷く寒かったが、アルケンの心は燃えていた。本当に、自分に奇跡が起こせるかも知れない。何者かが、そう采配しているように思えてならなかった。
領事館の中庭にレン達三人が現われた。立派な馬に乗っている。
「牢破りをしたのだから、ヒュターイとの戦争は免れえまいな。だが、俺達は負けない。周辺の小国と同盟し、必ず独立を勝ち取ってみせる!」
「あなた方とヒュターイの戦争が起こった場合、ロールバルト政府に援助するよう、領事から掛け合わせることもできる」
シン・ファルが言った。
「助かる。願わくば、我らとあなた方に、神のお恵みを!」
イシーデ達はアルディの習慣での挨拶をすると、馬の腹を蹴って走り抜けていった。ヒュターイが警戒網を敷く前に、できるだけ遠くへ逃れる気なのだろう。