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第二章

 アルケン父子が経営する宿屋は、木造の二階建てだった。部屋は全部で八つあり、少なくとも雨風をしのぐことはできたし、暖かい布団もあった。建物の前面にはオレンジなどを植えた庭があり、小振りの実をつけていた。泊まっているのは、巡礼の男二名と、大商人の代理業者が一人だった。

 雑多に築かれた建物の合間に、太陽が沈もうとしていた。その最後の光が、宿屋を囲う塀の内側に長い影を作り、アルケンの姿はその中に沈んでいた。彼は、とりとめもないことを考えながら、掃き掃除をしていた。小腹が空いてきたのでオレンジでもつまもうかと、手を伸ばす。誰かが呼ぶ声が、確かに塀の外から聞こえてきた。

 確かに、彼の名前を呼んでいた。アーチ型に作られた扉を開くと、陽光を背負ってエリカが立っていた。彼女の目は、涙で潤んでいた。

「どうしたんだ、エリカ」

「先生が、死んだ。殺されたの」

 震える声。

「何だって!」

「だから、殺されたのよ」

 アルケンは愕然とした。あまりに突然の知らせに、返す言葉もなかった。

「わたし、わたし、どうしたらいいの」

 エリカは、アルケンの胸に顔を押しつけて、泣いた。彼女が泣いたところを、見たことがなかった。

「とにかく、中に入ろう」

 エリカの肩に手を置き、門の中にはいるよう促した。


「多分、学校で出される食事に比べれば、貧相なものだろうが、よければ食べて下さい。お嬢さん」

 アルケンの父が、木の器に盛りつけたオートミール、干し肉、オレンジ、野菜の炒め物を出した。確かに、アルケンが食べた学園の食事に比ぶべくもないものだったが、エリカは黙々と食べた。

 そして、半分ほど食べたところで口を開いた。

「先生は、殺された。毒針のようなもので刺された痕があったそうよ。学校で習った、ヒュターイ国の暗殺手段によく似ている」

 ヒュターイとは、大陸随一の力をもつ、東方の帝国だ。ヒュターイの商人はティアルバルトの大市にもよく姿をあらわし、珍しい文物を高価な値段で売りさばいていく。

「まさか、ヒュターイ人が、なぜ先生を殺す必要があるんだ」

「先生の部屋は、メチャクチャに荒らされていた」

「そうか、あれを手に入れるためか!」

 だが、なぜロングバルトがあれを持っているということが分かったのだ。代々、誰にももらさぬよう秘密にしてきたのではなかったか。

「ここに来る途中、共通語で話すロールバルト人を見た」

「ちゃんとした教育を受けたロールバルト人だったら、共通語ぐらい話せるんじゃないか?」

「……共通語は、元々ヒュターイの言葉よ……。ヒュターイがあまりに大国だから、周辺諸国はその言語を学ばざるを得なかった。それに、ここはロールバルトの領土内よ。自分の母国で、あえて共通語を話す意味は何?」

 確かに、普段この町で、共通語が話されているのを耳にするのは、外国人との商談の時ぐらいだ。

「つまり、ヒュターイのスパイが紛れ込んでいる、と?」

 もちろん、国家というものが再興した古来より、スパイは活動していた。平時でも、ヒュターイに情報を流し、報酬をもらっているロールバルト人は幾らでもいるだろう。

「彼らの会話を、注意して聞いたわ。古代のそれは、どんな形をしているんだとか、そんなことを話していた」

 つまり、平時のスパイではなく、あれ目当ての連中がうろついているということだ。

「話を聞いていたが、さっきから出てくる『あれ』とは何だ、スーニュ」

 先ほどまで黙って肉をかじっていただけだったアルケンの父が言った。

「古代人の残した遺産だ。何に使う物かは、さっぱり分からないけれど」

「ほう、見せてもらえるか」

 誰にも見せるなと念を押されていたが、父に見せても害はあるまい。アルケンは腹巻きの中に隠した巾着袋を、父の手に渡した。父は、中身を取り出して、驚いた。

「美しい……、こんなものは見たことがない……」

 父は、円盤の裏表をよく観察し、何か用途の手がかりとなるものを探しているようだったが、結局諦めた。何せ、円盤はガラスよりも磨かれており、文字や記号らしきものはなかった。

「リュシカ……」

 なぜか、父は自分の死んだ妻の名前を呼んだ。

「ああ……、失礼。リュシカは古代文明のことについて、なぜか詳しかったから思い出してしまった。なぁ、スーニュ」

 彼は、アルケンだけに分かる含み笑いをした。

「そうだな……」

「確かに古代文明の遺産だろう。本当の上流貴族たちの中には、何に使うか分からないままに、遺産を集めているという話しだが……。ところでな、スーニュ」

 父の声は、急に低くなった。蜜蝋で作った蝋燭の炎が揺れる。夜風が建物の隙間から入ってきているのだろう。今年の冬は寒そうだという、根拠のない予感がよぎった。

「この事は黙っていろと、ロングバルト先生から言われていたのではないのか」

「もちろんだ」

「ならば、なぜ俺に不用意に話した」

「いや、親族だろ。隠していてもしょうがない」

「俺が、ヒュターイだかなんだかのスパイでない根拠がどこにある?」

 何を馬鹿な、とアルケンは鼻で笑う。

「僕は、生まれたときから父さんと一緒に暮らしてきている。分かりきったことじゃないか」

「親や子を、平気で金や、もっと醜い目的のために売る人間はいる。俺がそうでないと言い切れるか」

「それは……」

 アルケンの背筋に、水滴が垂れたような悪寒がした。まさか、本当にスパイじゃないだろうな。この、布が被せられたテーブルの下からナイフが突き立てられるのではないかと、本気で思ってしまう。

「もちろん、俺はスパイじゃない。お前や、お嬢さんを売るつもりは、まるでない。俺が言いたいのは、他人を簡単に信じるな、ということだ。何か重大な任務を背負って相対するときは、相手の腹を探る狡さも必要ということ。このボロ小屋の外は、敵だらけだぞ」

「ふうっ、確かに、僕が甘かった。あんたの言うとおりだよ、父さん」

『他人は無限に遠くにいる』十数年前に死んだ、老哲学者の言葉を思い出した。『だから、他人を理解することなどできない。他人の瞳の奥には、無限の深淵が覗いている』

 つまり、他人が何をするか、誰にも予想は出来ないということだ。

「だけれど、そんな、他人を踏みにじるために牙を研がなければならない世の中なんて、絶対におかしいわ。違いますか、お父さん」

 黙って二人の会話を聞いていたエリカが、口を挟んだ。

「確かに、おかしいと俺も思います、お嬢さん。だけれど、秘密を共有した相手に、例え裏切る意図がなくとも、ぽろりともらしてしまうことはあるはずです。現にアルケンは、俺に言ってしまった。秘密を知っている人間はなるべく少ない方がいいんですよ」

 無限の遠くにいる他人、だが、ならば自分自身はどこにいるのか。アルケンは普段している哲学的思索を思い浮かべる。人は、自分の心をどのようにして知るのか。

「誰もが、あのいと高きお方のようにはなれない、そういうことです」

「納得はできないけれど、分かりました、お父さん。わたしも、肝に銘じておきます」

 エリカの声は、真っ直ぐなものだった。

「ところで、これからどうするか、だ」

 アルケンも、エリカの方を見つめた。

「これから、暗殺されるのを恐れて一生コソコソ暮らすしかないのか……」

 日が完全に沈み、部屋の中を照らすのは蝋燭と、油に浸した皮を張った窓から少しだけ入ってくる月明かりだけだ。三人は、お互いにお互いの表情を窺い知ることはできなくなった。

 全く、とんでもないものを託されてしまったものだと、恨みがましい気持ちにもなる。宝物を、どこかに埋めて永遠に封印してしまうという手段も思い浮かんだ。だが、ロングバルト老は、二人を信用して、託したのだ。

「コソコソ隠れていても、結局どこから足がつくか分からない。なら、道は一つだけしか考えられない」

「一つ?」

 アルケンの頭の中には、自分達の身を守る方法が浮かんでは消えていった。どれを選んでも、完璧というわけではなく、だから道は一つしかないという言葉は、驚きだった。

「隠れることができないのなら、こちらから出て行ってやるのよ!」

「出ていく? 大人しく、先生を殺した相手に、宝物を渡してしまうということか?」

 それならば、あっさり解決するかも知れない。だが、正体不明の敵が、秘密を知っている二人をそのままにしておくだろうか。いや、そんなはずはない。

「違うわ!」

 エリカの出した大声で、蝋燭の炎がぐらりと揺れた。まるで地震が起きたときのような目眩を感じる。

「声がでかい、エリカ」

 アルケンがたしなめると、エリカは、しまったという顔をして、やがて小声で話し始めた。

「ガルトノーシュの遺跡に、行くの。着いてしまえば、宝を持っているのはわたし達だけなのだから、敵には手が出せない。わたし達が支配者となってしまえば」

「何を言うんだ……」

 ガルトノーシュまでの道のりに、どの程度日数を要するか分かっているのだろうか。しかも、食べ物も習慣も違う国を幾つも通り抜けなくてはならない。

「わたしとアルケンなら、必ず成功するわ。だって、アルケンの頭の良さと、わたしの度胸が組み合わされば、大抵のことはできる」

 組み合わさっても、たいしたことはできない、の間違いじゃないのか……。何カ国語も話せる人間も、数学ができる人間も、度胸がある人間も、世の中には掃いて捨てるほどいる。だが、彼らはせいぜい大商人になって、少なくとも自分の代、ゆたかにに暮らせる財をつくるだけだ。とても、世界の支配者になどなろうとは思うまい。

「確かに、それが最善の案かも知れないな」

 父までが、エリカの暴走を助長することを言い出した。

「敵も、目的のものが移動していれば、発見しづらいだろうしな。このまま、二人がこの地に留まれば、いずれ敵は二人のもとに到る。それだけ、組織力があることは明白だろう」「だからって……」

 アルケンは、何とか抵抗しようと言葉を探す。

「例えば、ロールバルト共和国当局に渡してしまうとか。そうすれば……」

「それは駄目よ。先生の信頼を裏切ることになるわ。秘密を守るために、わたし達に渡したのでしょう」

 アルケンは押し黙った。他に手段はないようだった。

「スーニュ、俺はいつかお前が旅に出ることを予想していた。なにせ、あの母さんから瞳の色を受け継いでいるからな。明日、出発しろ。お嬢さん、それでいいですね」

「ええ、わたしはそのつもり」

 アルケンはぞっとした。何の準備もしていないのに、出発なんてできっこないだろうが。「明日、朝一で市場に行き、まずロバを手に入れろ。それから、保存食、替えの衣服なんかもな。金はできうる限り渡すし、お嬢さんも多少は持っているだろう」

「ええ、へそくりがね」

 学園は、貨幣を所持することを禁じていたが、生徒の親は当然のようにそれを持たせていた。何かあったときに、お金がないでは生きていけないから。

「背嚢や革袋が物置にあるから、それを使いなさい」

 父とエリカは、席から立ち上がった。それにつられて、アルケンも立ち上がり、物置へと向かった。

 都市ティアルバルトの目抜きどおりは、アルケン家から徒歩で半時ほどの所から始まり、無計画に商店が建てられ取り壊されを繰り返したため、迷路のように入り組んでいる。二十年前に大火が発生してからは、石か煉瓦造りの建物が奨励されている。

 アルケンは、旅道具を詰めた背嚢を背負い、腰には葡萄酒を入れた革袋を下げていた。ほとんど酢になってしまったような葡萄酒だが、腐りにくく、また傷口の消毒にも使え、長旅には必需品だと、宿屋に泊まった旅人が自慢していたのを覚えていたからだ。

 その馬小屋商店からは、動物の臭いが漂っている。遠くからでも、馬やロバの体温が感じられるようだ。表通りからは見えないが、時々彼らのうめき声が聞こえてくる。

 アルケンもエリカも、初めてはいるその店の扉を開けた。

「いらっしゃい、エッケッケ……」

 外見は地味だったが、内装に使われている木にはニスが塗られ、壁には一面タペストリーが掲げられていた。騎士がドラゴンと闘う光景を描いた粗雑な作りのタペストリーだったが、それだけでもこの店がアルケンの店より儲かっていることが分かる。

 店の主とおぼしき親爺は、机の前に座って妖しげな笑い声を上げた。

「エッヒッヒ、馬具なら鞍から蹄鉄まで何でもそろうよ……。なんせ、うちのはアントル産の鉄を使っているから、錆びにくく……」

 ペラペラと喋りながら、親爺が近づいてきた。

「ああ……、馬具も必要なんですが、ロバが二頭欲しくって」

 アルケンが言う。

「ほう、ロバ。お目が高いね、何せうちのロバは、滋養のあるものを食べさせているから、普通の所の倍は体力があるよ……。力仕事に使うのかね、それとも、長時間歩かせるのかね」

「どちらかというと、長時間歩かせる方でしょうか」

「ヒッヒ、そういうのなら、ちょうど二頭、店に来ているよ。わしについてきなさい」

 どうも、腹黒そうな男だ。それこそ生き馬の目を抜かれないよう、精一杯の警戒をしておかなくては。アルケンの鼓動が早くなる。

 男が扉を開けると、そこは牧場のような大きな中庭があり、馬が五頭と、ロバが三頭、放し飼いにされていた。

「ヒヒ、昨日、農家から買い取った行きのばかりだよ」

 本当は、こんな店で買うよりも、郊外の農家に赴き直接交渉した方が安上がりだ。だが、郊外まで歩くと、昼を過ぎてしまう。早く旅立ちたい二人にとってはこんな店がちょうど良かった。二人と同じ様な客は結構多いらしく、だからこんな店が結構繁盛しているのだろう。

「旅にでなさるのかね?」

「ええ、まあ」

「馬の方が早いと思うけれど?」

「かなり長丁場になりそうなんで、そういうときはロバの方がいいって聞きました」

「ロバはね、時々暴れる性質があるんだよ。それでもいいのかい。あと、力も馬より落ちるからねえ」

 狸親爺め、値段の張る馬を飼わせようというのだろうが、そうはいかない。

「そうかね。ロバの方がよろしいか。エヒヒ、まあ、うちのは良くしつけてあるから大丈夫だよ」

「はは、そうですか」

 あまり、ロバより馬の方がいいと進めて、結局何も買わずに出て行かれても困るのだろう。柔軟に手のひらを返すところも、手練れの商人といえた。アルケンは苦笑いするほか、術を持たない。

「あんたたち、ロバ用の鞍も、鐙も持っていないだろう……」

 喋りながら、三人は目的のロバに近づいていく。どちらも、白と茶色がまだらに混ざった、よく見るタイプのロバだ。

「さ、この二頭さ。もちろん、ロバに乗った経験はあるよな」

 エリカは、幼い頃から腕白で、馬だのロバだのに乗って駆け回っていた。アルケンも、荘園にいたときに乗った経験はあるが、ここ数年は縁がなかったから、曖昧に頷いた。

「乗り心地を確かめなさい」

 親爺が言うが早いか、エリカは鐙に足をかけ、洗練された動作でロバの上に乗った。アルケンもたどたどしい動作でそれに続く。

 久しぶりに乗るロバの背中は、なんだかぐらぐらと揺れて水の上に浮いている木の葉のような気分になった。何と固唾なを握りしめて、恐怖を堪える。

「ヒヒヒ、大丈夫そうだな。じゃあ、二頭せめて1000バーでどうだ」

「いいわ、それでお願い」

 今まで黙っていたエリカが突然喋った。

「馬鹿、エリカ、それは少し高すぎる」

 アルケンはロバから降りながら声を上げた。

「おじさん、悪いけれど僕らにはそれ程金がないんです。500バーでどうです」

 ロバの相場などよくは知らないが、二頭で1000バーはおかしい。半額でももうけが出るのではないだろうか。

「駄目だね、800バーでどうだい」

「じゃあ、700バーでなんとかお願いします」

「ケケケ、まあ、いいだろう。しっかりした男の子だ」

 いいながら親爺は手を伸ばす。アルケンは財布の中から、銅貨できっかり700バー渡した。


 親爺が見送る中、二人はロバに乗って路地に踏み出した。

「何で値切るなんてみみっちいことをしたのよ」

 大通りに出るなり、エリカが低い声を出した。商人との交渉の時、ほとんど喋らなかったのに、今更何を言い出すのだろう。

「わたしが持ってきたお金と、あなたのお父さんがくれたのを合わせれば、1000バーなんてどうってことない金額のはずよ」

 赤茶けた地面がむき出しになった大通りには、朝早くから人々が行き交っていた。これから商売の準備を始めるもの、日用品を買いに来た中年の男女、裕福なものから貧しいものまで様々な顔を見ることができる。彼らが歩くたびに、砂埃が舞った。

 遠くから、最新式の馬車が走ってくる。

「いや、これから長い旅路だ、少しでも節約しなくちゃ、金がつきたら終わりだぞ」

「だからって。あの店の親爺、なんだか変な目でわたし達を見ていたわよ」

「そりゃあ、商人だから、儲けが思ったより少なくて、恨みがましい目で見たんじゃないのか」

「ふん。だとしても、吝嗇は罪だって司祭様もよく言っているわよ」

「程度の問題だろう」

 どうやら、裕福な伯の子女であるというプライドが、値切るという行為を許せないらしい。だが、今彼女はその身分を隠して旅立とうとしているのだ。車輪が激しく回る音が近づいてきている。

「それに、お金はケチればケチるほど、実際には逃げていくものなのよ。安いものを買ったとして、使い勝手が悪くて苦労したり、すぐ壊れてしまったりで、結局高くつくし。吝嗇家という評判が立ったら、それだけで損だわ」

「だけれど、僕たちは今日から旅に出るんだ。評判なんて関係ないだろう。それに、値切ったからって質の悪いロバが出てきたわけじゃなし……」

「いや、でも、でも!」

 エリカは顔を真っ赤にして何かを言おうとしている。勢い余ってロバの背中を蹴り飛ばしてしまった。

 突然、ロバがいなないたかと思うと、暴れはじめた。酔っぱらいのような足のステップだ。エリカは手綱を握りしめる。だが、ロバは止まらない。

 二頭の馬に引かせた馬車は、真っ直ぐに走ってくる。ロバに気がついた御者が、手綱を引くが間に合わない。

 馬車の筐体に、ロバが鼻先から突っ込んだ。エリカは地面に投げ出され、馬車も横転。御者台だけが立っている。

 アルケンの頭から、血の気が引いた。ロバから飛び降り、よろめきながらエリカに駆け寄る。エリカは俯せに倒れていた。アルケンが揺すると、顔を上げる。目に涙、頬にかすり傷がついているが、大けがはしていなかった。

「大丈夫か、エリカ」

「痛い、痛いわアルケン!」

「どこが痛い」

「体中よ!」

 エリカは大声で叫んだ。

「その元気なら、大丈夫そうだな。立てるか」

「な、なんとか」

 アルケンの助けを借りて、エリカはふらふらと立ち上がった。

「い、一瞬目の前が真っ暗になったわ」

 彼女は、目をしばたたかせて、きょろきょろと辺りを見渡す。

「大丈夫ね。物はしっかりと見える。でも、左腕が痛いわ、強く打ったみたい……」

「ちょっと、見せてくれないか。骨が折れていたら、事だから……」

「とんでもないことをしてくれたな、お二方」

 額から血を流し、壮絶な表情をした男が、二人の前に仁王立ちしていた。赤と青の染色がされた絹のチュニックに、ビロードのマントを羽織っている。だが、高級なその服も、砂埃に汚れていた。

 その脇に、なめし革の衣服を着た御者が、おろおろしながら立っている。

 アルケンとエリカは青ざめた。馬車の筐体は砕け、破片が飛び散っている。入念な装飾が施されたそれが、どれほど価値のある物なのか、アルケンには見当もつかなかった。

「わたしは、イール・ツァンブラーノだ。知っているかね?」

 ツァンブラーノ家と言えば、商人と結託して市政を牛耳っている、成金貴族だったはずだ。そういえば、遊び人の息子がいるとか聞いていたが、こいつがそうなのだろうか。

「知らないわ。何様よ」

 あまりにも偉そうにふんぞり返るイール・ツァンブラーノに対して、エリカも強気の態度に出た。だが、明らかに強気に出る場面を間違えている。

「何だと! お前がロバの操縦を誤ったのだろうが。自分が悪いのによくそんな口がきけるな。名を名乗れ!」

「そ、それは……」

 エリカは口ごもった。ここで、ファビアーノの姓を名乗れば、彼女の実家にまで知らせが行くに違いない。エリカは両親に黙って旅に出なければならないだろうから、それは何としても避けなければならない事態だった。

「ぼ、僕たちはこの町で宿屋を開いているアルケンというものです。た、大変なご迷惑を……。こ、こちらのものは妹のエリ……エリットです」

 何とか下手に出続けて、事を丸く収めなければ。

「ふん、宿屋の娘風情が、ずいぶんと生意気な口をきくものだな。まだ、ガキではないか。さて、今回の事故、どう責任を取ってもらおうか」

「お許し下さい、ツァンブラーノ様。僕たちにできうる限りの賠償はさせていただきますから、平にご容赦を……」

 ぺこぺこ謝るアルケンのすねに、エリカは蹴りを入れた。

「謝る必要はないわ。謝ったら、こっちが悪いって事になってしまうじゃない!」

 そのセリフが聞こえたか聞こえないか、ツァンブラーノは舌打ちした。

「あなた! こちらが全面的に悪いとでも言うの! 確かにロバを暴れさせてしまったのはこちらかも知れないけれど、道にわたし達がいることが分かっていながら、真っ直ぐに突っ込んできたあなた達にも非があるんじゃないの!」

 それを聞いて、気の弱そうな御者は泣きそうな顔になった。事実がどうあれ、彼は多分、自分も用心がたちなかったと思っているに違いない。

「へ、屁理屈を言うんじゃない! 小娘が!」

 ツァンブラーノの額には、血管が浮き出ている。これはまずい。

「何とか丸く収めてやろうと思ったが、我慢がならん! 市当局に訴えてやる!」

 市の査問委員会に訴えられたら、事は二人だけの問題に治まるまい。ファビアーノ家とツァンブラーノ家が衝突し、メチャクチャなことになるかも知れない。それに、ツァンブラーノ家の息がかかったものが市の行政機関には大勢いる。あまりにも不利だ。

「エ、エリット。何てことを言うんだ! わ、悪いのは僕たちだろうが! あ、謝れ、謝るんだ」

 アルケンは鳴きそうな声を絞り出す。だが、エリカはむっつりと口をつぐんでいる。

「謝ったところで、もう許す気はないからな。さて……、貴族に喧嘩を売ったのだ。待っているのはむち打ちか、市中引き回しか……」

 ツァンブラーノは加虐的な笑みを浮かべた。

「イスク」

 彼は御者の名前を呼んだ。

「集まっている野次馬どもに、警邏を呼ばせろ」

 ツァンブラーノの言うとおり、十人程度の野次馬が遠巻きに現場を見ていた。だが、誰も間に入って争いをおさめようとはしてくれない。

「で、ですが……」

「なんだ、イスク」

「やはり、このような子供を市当局に引き渡すのは、あまりにも可哀想かと思います。罪の記録は一生残るものですし」

 アルケンは、なんだか救われた気分になった。この御者は良識派で、自分と似たようなタイプなのだろうなと思った。

「ふん、では、どうしろというのか」

「内々に、今回壊れたものを弁償させて、それで終わりにしたらどうでしょう」

「だが、こやつらはわしを……」

「そこを何とか」

 御者は深々と頭を下げた。やはり、どんな世界にもいい人はいるのだ、なんだか胸が熱くなった。

「いいだろう。小僧に娘。聞いておっただろう。賠償だけで内々にすませてやる。イスクはわしがもっとも信頼する使用人の一人だからな」

 アルケンはほっと胸を七で下ろした。あと、気になるのは賠償金額だ。馬車などというものは爵位にあるものでもそう簡単に購入できないほど高価なものなのだから。

「待って、ツァンブラーノさん」

 エリカが、あの刺すような声を出した。せっかくまとまりかけた話しを、またメチャクチャにする気ではないだろうなと、アルケンは青ざめる。

「賠償はするけれども、あなたの言い値で払う気はないわ。壊れた馬車の正確な値段を、どうやって見積もるの?」

 確かに、そのとおりだった。アルケンはその頭の回転の速さに、驚いた。アルケンだけだったら言われるがままにお金を払っていただろう。

「もちろん、正確な値段を証明するものはいる。この馬車を売った商会の男だ」

「……」

「二人とも、わしについてこい。馬車には番号が振ってあるし、契約時の書類もその紹介にはあるから、すぐに本当の値段が分かるさ」

 御者のイスクは、馬車から馬のくびきを外している。引っ張って商会まで連れてくる気なのだろう。

「待って、誰かがずるしないよう、全く利害関係のない第三者が証人になる必要があるわ」

 エリカが突然口を開き、野次馬たちを見渡した。

「誰か、この事故の顛末を最期まで見届け、不正が行われないよう商人になってくれる方はいる」

 人々は、皆下を向いたり、話すふりをしてエリカと目を合わせようとしない。当然だ、誰もツァンブラーノ家に係るやっかいごとに関わりたくはあるまい。

「おい、娘、無駄なあがきはやめてついてくるのだ」

 ツァンブラーノがエリカの肩を握りしめたその時、一人の男が手を挙げた。

「いと高きお方の名にかけて、わたしが全てを見届けます」

 それは、ボロボロになってはいるが清潔に保たれているローブを身にまとった修道士だった。

「ありがとう、修道士さん。じゃあ、わたし達と一緒に来て」

 確かに、嘘をつくことを禁じられている修道士ならば、商人としてはうってつけだろう。そして、いかに大金持ちといえども、托鉢修道会のもつ権威に逆らうことは難しいだろうから。

 ツァンブラーノは舌打ちした。

「ジュード派の修道士か……。まあ、どうでもいい。誰が来ようが、結論は代わらんからな」

 彼は鼻先だけで笑うと、歩き始めた。

 五人と四頭は、とぼとぼと商会まで歩き始めた。

 デリゴ商会は、目抜き通りぞいの非常に大きな建物だった。全て、黄色い煉瓦を積み上げて作られた三階建ての建物であり、上層階が商人と使用人たちの生活の場、二階が商取引をする仕事部屋、一階が倉庫となっていた。イスクは馬の番をするため、店の外に留まる。

 店の外に作られた階段を上り、ツァンブラーノはノックしたあと返事を待たずに扉を開け、中に進んだ。

 商会の事務所に入ったとき、アルケンは思わず声をもらした。あちこちの柱には貴金属やテラコッタで作られた装飾品(一部は燭台の役割を果たしている)がかけられており、また壁には、豪奢なフレスコ画が何枚も飾られている。

 ひときは目立つのは、事務所の主の収集品だった。彫刻、装飾品、磁器……。それらは、黒檀で作られたたなに収蔵されており、商取引をする客を圧倒する役割を果たしているのだろう。

 その中には、古代文字で書かれたと思われる色刷りの本があった。ほとんどのものはそれが何に使う物なのか分からないまま、身を飾るために古代文明の遺産を蒐集しているのだった。この商人もそうなのだろう。

 頭に白いものが混じりはじめた商会の主は、四人が入ってくると羽ペンの動きを止め、積み上げられた羊皮紙の間から見あげた。

「これは、ツァンブラーノ様。ようこそおいで下さいました。そちらの方たちは?」

「久しいの、ブランキスコ。実は彼らと事故を起こしてしまってな」

 ツァンブラーノは、ほぼ事実そのままに経緯を説明した。あることないこと並べ立てて少しでも彼に有利な方向に話しを持って行かれるのではないかというおそれは、アルケンの杞憂に終わった。

「そうでございますか……、確か、ツァンブラーノ様にお売りしたのは……」

 店主ブランキスコは、立ち上がると、綺麗に整理された書棚の中から、羊皮紙の束を持ってきた。どうやら、取り扱っている商品の明細らしい。

「この馬車でよろしかったですね……。ああ、商品番号と一致するから、間違いないな」

 ツァンブラーノが持っている走り書きのメモを見ながら、ブランキスコは言った。

「すると、ここに書かれているとおり、25000バーでお売りしております」

「だ、そうだ。お二人さん。きっちり払ってもらうからな。修道士さん、あんたも見ていただろう。どこにも不正は行われていないな!」

「え、ええ……」

 修道士は頷くしかないだろう。

 25000バー、はっきり言って目玉が飛び出そうな値段だ。アルケンとエリカが持っているお金を全て合わせても、まだ10000バー以上足りない計算になる。

 二人が押し黙っていると、ブランキスコが口を開いた。

「おや、所持金が足りませんかな?」

 アルケンはこくりと頷く。

「いかがしましょう、ツァンブラーノ様……」

「取り敢えず、所持金を全て出してもらおう。それから、お前達の所持しているものの中で金目のものは全て出してもらう。その価値は、ブランキスコが試算し、それで足りるなら、いいだろう。足りなかった場合は、いつまでに幾ら返済するか、証書を書いてもらうからな」

 そのセリフを聞いて、一瞬ブランキスコの顔が奇妙に歪んだ。これは、笑みを押さえている顔だと気がつくのに、かなりの時間を要した。まずい、こいつらは何かを企んでいる、しかし、何を?

「待って」

 アルケンが、必死に思考をまとめている最中、エリカが声を上げた。

「これで、どう」

 エリカは、肩から提げた鞄の奥深くから、何かを取り出した。大切に、布で包まれている。

 それは、金のインゴットだった。金の相場など分からないが、馬車一台分ぐらいの価値はあるような気がした。

「ほう、金塊か……。確かに、その大きさの金塊なら、返済に充分足りるが……」

 その場にいるものは皆押し黙った。こんな奥の手を用意しているとは、ブランキスコはおろか、味方であるアルケンすら知らなかった。多分、学校で何かあったときのために、ファビアーノ伯が持たせていたのだろう。

 これで形勢は逆転したか?

「しかし」

 商人の目は、皆を気圧するほどに鋭かった。

「しかし、何よ」

「この金塊には、政府が公認した旨の判が押されていない」

 確かに、ブランキスコの言うとおり、世の中に出回っているインゴットには、それが偽物でない旨、また、金の含有量がどの程度である旨証した判が押されている。

「それがないということは、この塊に何割金が含まれているか分からないと言うことだ」

「じゃあ、どうしろって言うのよ?」

「まあ、お待ちなさい。金の含有量を調べる方法はある。おーい、誰か!」

 ブランキスコは天井からぶら下がっている鈴を鳴らした。やってきた使用人に何かを命じる。すぐに、黒く磨かれた机と、大きな天秤ばかりなどが運ばれてきた。

「これから、そのインゴットについての金の含有量を測定します。この道具たちを使ってね。ああ、もちろんこの机は水平です」

 彼は自分の事務机から、中が中空になった丸いガラス玉を取り出し、机の中央に置いた。

玉は、そこに静止している。

「水平で、間違いありませんね」

 皆は無言で頷いた。

「では、こちらに用意したのが、純度九割、政府公認の金塊です」

 その金塊は分銅のように様々な大きさがあり、左右に刃のついた斧のような形をしていた。ブランキスコが指し示すまでもなく、はっきりとロールバルト共和国政府の認証印が押されていた。

「まず、あなた方のお持ちいただいた金塊が、政府公認の金塊幾つ分の重さなのか、天秤で計ります」

 天秤は大小二つ机の上に載せられており、ブランキスコは大きい方の天秤を使用した。エリカが、どこかに不正はないか慎重に確かめていたが、無論そんなものは見つからなかった。

 まず、エリカの持っていた金塊を片側に乗せ、もう片方に政府公認の金塊を乗せていく。成る程、大きさが様々あるのは、このように使うためなのだ。何度も、小さな金塊を乗せたり戻したりしながら、ようやく釣り合った。

「天秤が釣り合いましたな。では、次の段階に移ります」

 いつの間にか部屋には、もう一つ机が運び込まれていた。その上には、白い陶製の水差しと、細長い取っ手のついた容器、そこが平らな平皿が、それぞれ二つずつ置かれている。それだけで、商人が何をしようとしているのかアルケンにはぴんと来た。

 例えば、同じ大きさの金と鉛の場合、金の方が重い。ということは同じ重さにしようとすると、鉛の方が大きくなる。つまり、水につけたとき、押しのける水の量は鉛の方が大きいのだ。

 各々の金属によってどの程度水を押しのけるのか、その換算表を共和国は作っていた。商人の国である共和国にとって、ものの価値を正確に決める基準は、とても重要だから。

 商人は、平らな平皿を天秤の上に載せた。当然、二つの皿の重さは同じだった。皿は、容器の下に据え付けられる。水の受け皿として使うのだろう。

「同じですね、さて……」

 商人は、細長い容器めいっぱいに水を流し込んでいく。水差しの水は、ちょうど容器一本でなくなるように計算されているようだった。

 その後、ブランキスコは慎重に、容器の中に金塊を沈めていく。水が容器の外にあふれ出し、平皿にこぼれ落ちた。

 水の流れが止まると、商人はゆっくりと容器を持ち上げ、平皿の外に出す。わざとこぼして、重さを変えたりしないだろうかと疑ってみたが、そんなことはなかった。商人は机の上に容器を置くと、机の上にこぼれた水を拭いた。

「さて、この平皿にある水の重さを量りましょう」

 ブランキスコは、小さな天秤に皿を一つ乗せ、鉛の分銅で慎重に重さを計りはじめた。分銅を乗せたり外したりしながら、正確な重さを計測する。

「結果が出ました。わたしの所持する金塊側は255グル、この方たちがお持ちいただいた金塊側は280グル……明らかに何らかの不純物が混じっているようです。例えば、その不純物が鉛だとすると……」

 商人は、黒の蜜蝋を塗った書写板を使い、計算をはじめた。アルケンがのぞき見ると、エリカの学校で教えているよりも新しい計算方法を用いていた。そして、そこにからくりなどなかった。

「ふむ、七割五分、鉛だと言うことになる……、金表面の色からしてもその可能性が高いですな」

 アルケンは、水に濡れた二つの金属塊を見比べたが、どこが違うのか全く分からなかった。

「とにかく、これだけ不純物が混ざっているともはや金塊とは呼べませんな。残念ながら、馬車代の足しにはならなかったようだ」

「だ、そうだ」

 ツァンブラーノは、表情を変えずに腕組みだけを解いた。

「修道士さん、あなたも不正が行われていないことを見たであろう」

 修道士は無言で頷いた。

「どうしたものかな……。持っているもの全て、机の上に並べてみろ。場合によってはそれら全部を頂くからな」

「そんな……」

 あのエリカが、何も言えずに真っ青な顔をしている。もし、所持品を全部ぶちまけてしまえば、あの古代の宝物も見つかってしまうだろう。それだけは何としても避けねばならなかった。

 アルケンは、二つの容器が置かれた机をじっと見つめた。商人が拭き残した水滴が、幾つか光っている。

「エリカ……、君に金塊を託したのはファビアーノ伯だな……。他の人達じゃないな?」

 耳の側で、そっと聞いた。

「ええ、それが何か?」

 見返したエリカの目は、涙で濡れていた。

「君のお父さんを信じろ」

 それだけ言うと、いきなりブランキスコの方へ詰め寄った。そして、彼の脇にあった容器の水を舐めた。

 苦味を感じるほど尋常でない塩辛さだった。多分、限界まで塩を溶かし込んだのだろう。

 それを見た、ブランキスコとツァンブラーノは青ざめた顔をした。

「塩水ですね、ブランキスコさん。この点、どう釈明されます」

 喋りながら、もう一方の水を舐めると、それは真水だった。

 同量の真水と、限界まで溶かし込んだ塩水とでは、その重さは大きく異なる。金塊を鉛の塊と見せかけてしまうほどに。

「これは、明らかな詐欺行為だ。修道士さん、ご覧になりましたね」

「ほ、本当に塩水なのか」

 修道士が舐めようとするのを、ブランキスコは必死で妨害する。

「や、やめろ!」

 今までの冷静さとは打って変わり、ひっくり返った甲虫のように見苦しく手を振り回している。

「お退きなさい、ブランキスコ殿。わたしには真実を見極める義務がある」

 修道士はその強じんな腕でブランキスコを押しのけた。

「お、俺は知らん、俺は知らんからな……」

 ツァンブラーノは壁際を伝い、少しずつ扉の方へ移動していた。

「ツァンブラーノ殿、逃げても無駄ですぞ。わたしと、この少年たちは全てを見ている!」

 修道士が一喝すると、ツァンブラーノはその場でへたり込んだ。

「ふむ、確かに塩水だな」

 修道士は被っていたフードを外した。その顔は、アルケンたちと十歳ほどしか違わない若々しいものだった。

「随分慣れた様子でしたが、今まで何人を騙してきたのですか……」

 アルケンは、老人のようにため息をついた。正直、またこの手の連中に出会ってしまったという感じだ。弱いものに群がり、全てを奪おうとする恐るべき奴ら。アルケンのように貧しいものは、これからずっと彼らと闘っていかなければならないのだ。

「この町の裁判所はどこにありましたかな? アルケン殿」

 修道士は険しい顔でアルケンを見た。

「いや、それよりも……。今回の件、大事にされたくなければ……」

 アルケンは、悪魔のような笑顔をになった。

 アルケンたちは、修道士ナットの紹介で、小さな隊商のメンバーに加えてもらった。隊商のリーダーは、アルケンに数学や語学の才能があることを知ると、商取引見習いとして雇ってくれた。エリカはナットに付き添っている修道女で、隊商に神の祝福を与えてくれる重要な役割を負った。

 ブランキスコからかっぱらった頑丈な馬の背に揺られるアルケンに、修道士ナットが話しかけてきた。彼も、栗毛の馬に乗っており、それを自在に操っていたから、もとは騎士なのかも知れない。アルケンに馬の乗り方を教えてくれたのも、彼だった。

「アルケン殿たちの旅の目的は?」

 隊商の道行きには、木々と小麦の休耕地が広がっている。見渡す限り、茶色の地面が広がり、彼らの他に人の気配はない。皆、リンゴなど果樹の収穫に追われているのか。遠くでは水車が回っている。

「巡礼です」

「それは、聞いた。だが、巡礼でアルディを目指すのか……。あそこは異教の地です」

 彼らが加わった隊商は、一ヶ月をかけて南のアルディ王国を目指すことになる。だが、そこは教会の教えとは異質の宗教を持つ土地だ。巡礼しようにも、拝むものがない。

「あらゆる土地は、神のものです。異教の地と我らの地の区別などない」

 アルケンはごまかそうとして、上手くいい言葉が出てこなかった。だが、ブランキスコは大きく頷いた。

「確かに、あなたの言うとおりだ。わたしもそう信じているから、神の痕跡を異教の地にも見いだそうとして、アルディを目指すのです」

 アルケンは、少し眉をひそめた。共和国の一部の司祭たちは、異教徒に戦いを挑むべきだ、と主張している。唯一正しいのは教会の教えであり、それ以外ものもを礼拝する蛮族は、掃討してしまっても構わない、と。その傾向は、教会の上の身分になれば成る程強く、しかしそれが実現しないのは、異教徒が侮りがたい武力を持っているからに過ぎない。

 修道士ナットもそうした種類の人間なのだろうか。

「具体的には、わたしは異教徒たちの学問を学びたい……。彼らは独特の哲学を持っていて、数少ない書物を読む限り、わたし達の哲学よりもより、高い水準に達している」

「成る程」

「なぜ、神は不信心ものであるはずの彼らにそれ程の知恵をお授けになったのか」

「……」

「われわれと彼らで、神の呼び名は違えども、同じものを信じているのではないか……と」

 同じものを信じる……か。だが、アルケンは全く逆のことを時々考える。

 例えば、リンゴのことをロールバルト語では「リンゴ」と呼ぶが、ヒュターイの言葉では「レイム」と名付けている。どちらも呼び名が違うだけで、同じものを指示している。だが、神はこの世界に姿を現すことはない。誰も見たことのないその高き存在を、教会は様々な修飾語で説明する。「完全者」、「無限者」、「創造主」……。だが、誰もそれを直接名指すことはできない。

 で、あれば、どれほど完璧に神を定義したとしても、ある人と別の人で、心の中に思い浮かべるものは違うかも知れない。少なくとも、同じであると証明するものはない。ならば、同じ教会に形式上属していたとしても、同じものを信仰している保証はない。

「異教徒たちの中にも、われわれと同じ禁欲的修道生活を送るものがいると聞きます。彼らと対話し、自らの信仰をより明確なものにしたいのです」

 ナットの言葉には、純粋な熱っぽさがこもっていた。アルケンは、彼の言葉を否定も肯定もできなかった。

「おい、ナット口が過ぎるぞ」

 仲間の修道士がやってきて、注意した。確かに、彼の語ったことは、異端の教えにも聞こえる。かつて、大規模な異端たちの虐殺があったことは、誰もが知っていることだ、そして、アルケンが普段考えていることも、教会の教えに背くものであろうことは間違いなかった。

 アルケンは、自分よりも馬に乗る姿が様になっているエリカのもとへ近寄り、小声で話しかけた。

「なあ、何で詐欺行為をしてまで、ツァンブラーノたちは、僕たちをはめようとしたのかな?」

「ちょうどいいカモだったんでしょう」

「だけれど、もしあんな事をしてばれれば、町から追放されるか、もっと酷い目に遭うことは確実だぞ」

「何度もやってきてばれなかったから、今度も大丈夫だと思ったんでしょう」

「だが、何か引っかかるんだよな」

 彼らは、アルケンたちが「何か」を持っているのを知っていたのではないか。そして、わざと馬車をぶつけたのではないか。あの馬車は、奇妙に壊れやすいように細工がしてあった節がある。

「考えすぎよ。それよりもアルケン、あなたブランキスコから、古代文明の本を巻き上げていたけれど何で?」

 古代文明時代に作られた書物は、かなり残っている。現代の技術にはない特殊な紙を使っていたらしく、文明が滅んで長い年月が経っているのに、風化することなく残っているのだ。

「ああ……、あれは多分、古代の地図帳だよ。ガルトノーシュの遺跡を探すのに便利かと思ってね」

「だって、古代文明の文字は読めないじゃない。あんまり使えないと思うわよ」

「ははは……、そうだった」

 アルケンは頭をぽりぽりかいた。冷や汗が出て、頭皮を刺激したからだった。

 古代文明の本は、例えそれが地図のように図で示されているものでも、無数の記号や、文字、そしてそもそも図の文脈が分からないから、実用的に使えるものはほとんどない。かといって、身の回りを飾るには地味すぎる。だから、大した値打ちはつかないのが常なのだけれど……。

「でも、アルディの王都には、現代に近い言葉で書かれた古代文明の年代記が眠っているってわたしも聞いたことがあるけれど、運がよければそれを見ることができるかもね」

 エリカはアルケンの耳元で囁いたあと、

「まあ、取り合えずアルディまで頑張っていきましょー!」

 と大声で叫んだ。その元気に、隊商の皆が笑った。

 アルディ王国が古代の遺産を保有しているというのは、国の上層部では有名な話しだった。


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