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第一章

 太陽の光は筋雲を透過して地上を照らしてくれてはいるが、時折吹く冷たい風をそれ程和らげてはくれなかった。風が吹き、落ち葉を運んでいく。

 煉瓦の上から塗られた漆喰は、きめが細かく、指先で撫でると心地よかった。自分の家もこれほど堅牢に造られていれば、冬凍えることもないだろうにと、ここに来るたびに少年は思う。建物には明かり取りの窓が穿たれており、少年はその側に張り付くようにして、中から聞こえてくる声に耳を傾けた。

「人類は神の前に平等であると、いと尊きお方は言われた。これは、教養ある人間なら皆知っていることだ。神の前で捌かれるとき、それまで蓄えていたお金の量も、権力も関係ない。正しき道に従って生きたかどうかが、肝要なのだ。だが、皆平等ならば、なぜ現実に身分差があるのか。身分差があるように神は世界をお作りになったのか……。これに対して、有徳の学者は皆こう言っている。権力者が権力を持っているのは、人々を正しき道へ導くため神が任命されたからである、と。であるからして、権力者の存在はある程度正統なのだ。では、なぜ我が国では共和制を取っているのか……、神から統治を任されたと称する王などが統治していないのか。だれか、分かるものはいるかね?」

 少年は考える。単純に言って、神がそのような人物の存在を許さなかったからだ。神は、ただ一人に権力を授けるのではなく、多くの有徳者に統治権を与えたもう……それがこの国の聖職者たちがいつも述べることだ。だが窓から聞こえてくる声の主……中年教師の言うことは少し違った。

「なんだ、誰も答える者はおらんのか……。わしの考えでは、こうだ。神の意志は、誰にも分からない。世の中の矛盾も、腐敗も、全て神の御心だと考えてしまっては、何も良き方向に進まない。それは歴史が証明している。よろしいか、世界は確かに神のご意志の反映であるが、それは世界全体としてみたときであり、世界の内側に存在している人間に、神のご意志を理解する力などあろうはずがない。であれば、権力者の権力の根拠に、神のお力を基づけることなどできない。彼らが権力を持てるのは、端的に有能だからである。そして有能であるかどうかを決めるのは、民意なのだ。よって、我が国では、選挙により有徳の者を選び、彼らに政治を委任しているのだ。もっとも、これは主流派の意見とは違うがね」

 全てに神のご意志が反映しているという聖職者たちの説教とはまったく異なる中年教師の話に、少年は熱中した。それは、一人の人間が貧乏だったり金持ちだったりする理由に、神のご意志などという余計な原因を差し挟むことなく、説明できることを意味する。ぶくぶくに太った教会の人間なら言うだろう……、貧しき者は神がそう意図されたから貧しいのであって、神を厚く信仰することによってのみ、彼らに救いの手は差し伸べられるのだ、と。だが、この教師は、それは違うのだと言ったのだ!

 少年は、熱中するあまり、明かり取りの窓の方に身を乗り出していた。

 窓の内側では、高価な制服を身にまとった少女たちが、三十人ほど座っている。こんな素晴らしい話なのに、上の空の者が結構いる。

 と、一番窓際に座っていた少女と目があった。少女は、目を丸くした後、椅子から転げ落ちた。しまった、少し、身を乗り出しすぎた。

「きゃー、変質者よ。変質者がいるわ!」

 少女は金切り声を上げた。波紋を広げるように、教室内は騒然となる。中年教師が、棍棒を手に取ると、窓際に飛んできた。

「変質者、どういうこと」

 少年の姿をまだ見ていない壁際の生徒などは、まだ事態をつかめていないが、

「あの窓の所から、男が覗いていたのよ!」

 と聞くと、立ち上がって、壁際に逃げた。

「やだ、わたし達のこと、ずっと見てたのかしら」

「こっちに来ないで、訴えてやるから! やっ、いまあたしのこと見た!」

「先生、早くつかまえて下さい」

 まるで餌をつつく小鳥の群れに荷馬車が突っ込んだがごとき大騒ぎだった。

「ま、まずい……」

 少年は身を翻すと、学校の裏門めがけて走り出す。中年教師は棍棒を持ったまま、窓から飛び降り、少しよろめいた後で走り出す。

「警備官、警備官を呼べ。早くしろ!」

 彼のだみ声は、校舎中に響く。このぐらい声がでかくないと、教師なんて務まらないだろうなと、意味のないことを考えながら走る。

 すぐに、黒いチェニックを身にまとった警備官たちが姿を現し、少年は取り囲まれる。木の根に躓いて俯せに転んだところを、四人がかりで押さえつけられた。

 先ほどの中年教師が仁王立ちになり、少年を見下ろした。抵抗していた少年だが、この先生なら自分の話を聞いて、変質者ではないと証明されれば解放してくれると思った。

「ふん、粗末な服だな。どこかの貧乏商人の息子か。農民という感じではないな」

 教師は、口ひげをつまみながら喋る。

「木綿の服も着られないような貧乏人が、我が学院に何のようだ。おおかた、生徒が一人になったところを襲おうとでも思っていたのだろう。お前みたいな年頃の奴は……」

 そこで、教師は辺りを見回し、咳払いした。野次馬根性を発揮した生徒たちがパラパラと集まってきている。

「お前みたいな年頃の奴が、一番野蛮だからな」

「ち、違う。俺は、俺は……」

「なんだ、じゃあなんでいたんだ」

「勉強したかったんだ。先生たちの話しを、聞きたかったんだ」

「見苦しいわけだな。お前のような者は小さな市で野菜でも売っていればいいんだ」

「違う、俺は宿屋の息子だ」

「宿屋だぁ。宿屋の息子が歴史哲学の話しを聞いて、分かるはずがない。教育は貴族の子息・子女たちのものだ。お前みたいな貧乏人に聞く権利などないのだ」

 教師のその一言で、少年は情けなくなった。有能なものなら出自に関係なく評価すべきだというのがこの教師の信条ではなかったのか。それとも、あれは建前、生徒の前でいい格好したかっただけで、心の中は太った聖職者たちと同じなのか? 

「さて、観念したようだな。夜警隊に引き渡そう、たちの悪い奴だ……」

「アルケンじゃない? スーニュ・アルケンじゃない」

 生徒の一人が、少年の名前を呼んだ。アルケンと呼ばれた少年は、声のした方に顔を動かそうとしたが、押さえつけられてしまった。

「警備官さん、その人を放してあげて。わたしの知人よ」

 警備官たちは驚いた顔をしたが、押さえつける手をゆるめたりはしなかった。一人は、荒縄を手にしてアルケンを縛ろうとしている。

「知人? ほう、エリカ・アストラ・ファビアーノ……、ファビアーノ家の子女ともあろう方が、こんな貧乏人とどこで知り合われたのかな。ファビアーノ家の御当主はそれ程、無秩序なお方だったかな」

 少女のフルネームを聞いて、アルケンはぴくりと反応した。

「わたしの幼なじみです。よく知っている人です」

 エリカという少女の声は、あくまで凛として、相手を射貫くような所がある。だが、教師は怯まない。

「では、変質者ではないと、あなたは保証するのだな」

「そうです」

「だが、よしんば、この男が自分の主張するように、授業を聞きに来ているだけだとしても、解放することはできない。学園に、不法侵入したのだからな。夜警隊に引き渡し、しかるべき審理を受けさせねば。それが、法治国家たるロールバルト市民の取るべき行動だろう」

「でも、でも……」

 アルケンは口を開こうとした。エリカ、かばってくれるのは有り難いが、法は法だ。それに従わなかったら、本当に慮外者になってしまう。だから、もういい、と。

「ルドヴィク先生、少し待ってはくれませんか」

 老人の声がした。アルケンから声の主の顔は見えない。

「これは、ロングバルト先生……」

 ルドヴィクと呼ばれた教師の声の質が変わった。老人に敬意を払っていることが分かる。「その少年、解放しては下さらぬか」

「しかし……」

「その少年は、昔の教え子でしてな。本当に勉強したくて来たのでしょう。……、あなただって、何かを学びたいと思う人間の心は分かるはずだ。それに免じて、許しては下さらぬか」

「……ロングバルト先生がそうおっしゃるのでしたら、わたしは何も言いません。警備官、放してやれ。持ち場に戻って良いぞ」

 アルケン、エリカはロングバルトの教務室で椅子に座っていた。アルケンは、綿のクッションのある椅子になど座ったことがなかったから、逆に落ち着かなかった。三人の目の前には、人数分の食事が置かれている。ひよこ豆とニンジンのオリーブオイル炒め、塩をかけたもの、焼いた牛肉、ライ麦パン、それにリンゴにラードをまぶし焼いたものだった。

「せっかく来てくれたのだから、もっと豪勢なものを出したかったのだがな、何せ、学園の料理人の腕前は……あまり良くなくてな。材料はそれなりに豪華なのだが、見た目が悪い……」

「いや、そんなことは全然ないです」

 本当に、そんなことは全然なかった。アルケンの家では、ラードのかかった焼きリンゴが食卓に並ぶことなど、まずなかったのだから。干し肉でない肉も、簡単には手に入らない。

「先生、エリカ、ありがとうございます。助けていただいたばかりか、こんな豪華な食事まで」

「いや、わしも嬉しいのだよ。昔教えていたあの利発な少年はどうしただろうとずっと考えていたからね。ま、まずは食事を食べなさい」

 アルケンは言われるがままに、牛肉をナイフで切り裂き、放り込んだ。その瞬間、ぴりぴりした感覚が舌を刺激する。いつかエリカにもらった、胡椒の味だ。続いて、岩塩が融けて口の中に広がる。

 肉を噛んでみる。柔らかく、肉汁と油がしみ出してくる。いつも食べている固い干し肉とは大違いだ。

「うまい……」

 意識しないまま、そう呟いている。

「ときにアルケン、今、ご両親は何をしているの?」

「ああ、今家は、宿屋をやっているんだ。お客さんは結構来るんだけれど、何しろ出費も激しいから、なかなかもうからなくってね」

「じゃあ、家の仕事を手伝わなくって大丈夫なの」

「普段は手伝っているけれど、今は父親と雇った人夫が一人いるから……」

「お母様は」

「二年前に、死んだ。病気でね」

「そう……、優しいかただったわね」

 喋るものがいなくなると、陶器と鉄のナイフやフォークがぶつかる音や、食事をかみ砕く音が部屋を満たす。明かり取りのガラス窓を通して、ぼんやりと歪んだ外の景色が見える。赤や黄色は紅葉した木々、灰色は校舎を囲む塀だろう。

 アルケンはニンジンを口に放り込んだ。オリーブ油をベースにしたソースには、やはり何種類かの香辛料が入っており、ニンジンの甘みを引き立てていた。

「アルケン、君がこの校舎に忍び込むのは、初めてではないね」

「お見通しのとおりです」

「授業を聞きたかったのだな。昔と変わらないな、学ぶことが好きなのだね。この学校は、急進的な説を唱える人物が多いから」

「ええ……、でも、面白かったです。特に数学の授業など、魔法のようです」

「ああ……、数学は神の言葉だと言う者もいるぐらいだからね。この世界のあらゆる秩序は、数学で表現できる、と」

「へえ、相変わらず凄いわね。アルケン数学が分かるの? 外で聞いているだけで?」

「ああ……、幾何学も、代数も、考えれば考えるほど深い……。面白いよ」

「君のその才能を金儲けに活かせば、結構有力な商人になれるんじゃないか。もっとも、君は世捨て人的なところがあるから、興味ないだろうが、ね」

「はは……、宿屋の会計は僕がやっていますよ。父も計算は得意な方ですけれどね」

「これからは、金勘定ができる者が出世するようになるだろう。君も、いつか上に行くと思う」

「あら、わたし、計算なんて全然駄目よ。これから生きていけないかしら?」

「なに、エリカほど胆力があれば、生き残れるさ。なあ」

「はは、本当度胸だけは、昔からあったからなぁ。エリカは」

「な、何よ。どうせわたしがオトコオンナだとか言いたいんでしょう。そのとおりですよーだ。いつか、政治の中枢に入ってこの国を変えてみせるんだから!」

「ほっほっほ。頼もしいな。アルケン!」

 突然、峻厳な口調で名前を呼ばれたので、アルケンは飛び上がった。

「君は、何カ国語ぐらい話せるかね」

「三カ国語……ですね。宿屋に色々な人が来るので。ただ、ほとんどの人は大陸公用語を話せますよ」

「ほう……、幼い頃わしが仕込んだだけのことはあるな。今日、君がここに来たのも、神の思し召しかも知れない。おっと、こんなことを言うと、ルドヴィク先生に笑われてしまうかな。『神の意図が被造物に分かるはずがない。分からないものを原因にしてはならない。地上界に生じる物事の原因は、必ず地上界の理論で合理的に説明できる』と」

「は、はあ」

 何か説教されるのかと思って緊張していたアルケンは、軽やかな老教師の口調に、ほっと胸をなで下ろした。

「古代文字は?」

 聞いて、アルケンはぎょっとなった。アルケンは確かに母親から古代文字の読み方の手ほどきを受けていたが、その事は秘密のはずだった。

「はっはっは、冗談だ、冗談だ」

「本当、冗談きついわよ先生。古代文字が読める者なんて、この世界に存在しているはずがないんだから」

 老人がアルケンを見る目の奥に、何が潜んでいるのかアルケンには読めなかった。

「だが、アルケンの語学力には、目を見張るものがある。ちなみに、○○のことばで、リンゴが食べたいとは、どういうのだ」

「□□………、ですね」

「素晴らしい! さすが、宿屋の息子、生で外国語を体験しているだけのことはある! それを見込んで、君に託したいものがある」

 軽い口調とは裏腹に、ロングバルト老の眉は厳しくしかめられていた。なんだか、妙な予感がした。

 ロングバルトは、鋼鉄の錠前がかけられた、これまた頑丈そうなの長持ちを開け、何かを取り出した。それは、両手のひらに載りそうな、なめし革の巾着だった。袋を開き、中身を二人に見せた。油紙に包まれているので、さらにそれを解く。

 それは、銀色の円盤だった。荷馬車の車輪の断面によく似ているが、ロングバルトの手の影が透けているので、半透明だということが分かる。現代の技術で、このようなものが作れるだろうか。

「まさか、それは古代文明の遺物」

「ええ!」

 ぽかんとしていたエリカも、思わず立ち上がった。

「お見通しのとおり。これは、何代も前の師からずっと伝わってきたものだ。ある力を秘めておる」

 太陽の位置が少し低くなったのか、部屋の中に斜めの光が飛び込んでくるようになった。歪んだガラスを反映して、光は羽の断片のように散っている。光を背にしたロングバルトの表情はよく見えず、まるで輪郭のはっきりしない悪霊を連想させた。

「その、力とは何です?」

 アルケンは、恐る恐る老教師に訊ねる。

「上手くは伝わっていない。ただ、適切に用いる者に世界を支配する力を与えるという」 突然、部屋の中が暗くなる。雲が、太陽を隠したのだろう。光と闇の落差に、アルケンは目眩を感じた。

「世界を支配するちから、とは?」

「分からん。強力な兵器かも知れないし、滅んだ古代の叡智とも考えられるし、あるいは想像できない何かかも」

「本当ですか?」

「本当かどうか、確かめる術はわしにない。古代文明については、伝説以上のことをわしは知らんからな。アルケン、エリカ!」

 ロングバルトは、今日話したなかで一番の大声を出した。イヌに吠えられた子供のように、一瞬震え上がる。

「お前達に、これを託したい」

 老人は、巾着袋の中にそれを戻すと、アルケンの目の前に突き出した。

「なぜ、です?」

「わしは老い先短いみだ。まもなく死ぬだろう。だが、この宝を受け継ぐに足る弟子を、ついにわしは持たなかった。お前達の他は」

「で、でも……」

「お前達に、夢を託したいのだ。古代文明の残した遺産が何だったのか、それを見極めるという」

「僕らに、その能力があるとは思えません」

「わしの師からの言い伝えがある。ガルドノーシュに、その宝の力を解放する装置があると」

「ガルトノーシュ? あの真空地帯のガルトノーシュですか?」

 ガルトノーシュがどんなところなのか、アルケンは正確な情報を持たない。ただ、現在三つの大国の係争地となっていることは知っている。その取るに足りない土地をめぐって何度も悲惨な戦争が起き、結果、ガルトノーシュは力の真空地帯となった。そこを無人とすることで、つまりどの国も統治権を手放し、放置することで、何とか和約がなったのだ。

「ああ、そこに隠された古代文明の遺跡。もし、わしが死んだら、その場所へ行ってはくれないか。多分、人類にとってもうあまり時はない」

「ですが、あの地帯への立ち入りは、固く禁じられているはずです。まして、ロールバルト共和国は境を接してすらいない。あまりにも遠すぎる」

「うんとは言ってくれんのか」

 尊敬するロングバルト老の頼みだ、無碍には断れないが、しかしあまりにも途方もない願いだろう。宝物をしばらく預かるだけなら、どうということはないが。

「もうっ! 何をぐずぐずしているのよ。わたしが預かるわ!」

 エリカはロングバルトの手から巾着を、半ばひったくった。

「先生がこれほど頼んでいるのだから、受け取るぐらいどうってことないでしょう。万一ガルトノーシュを目指すことになったとしても、その手だてはゆっくり考えればいいじゃない」

「ほっほっほ……、エリカは威勢がいいな」

 老人の顔は、まるでこうなることが分かっていたかのようだ。

「でも……、僕たちのような子供に託して大丈夫なんですか。なくすかもしれませんよ」

 アルケンは精一杯の抵抗を試みた。本当に、そんな重大なものを守り続ける自信はない。「子供たちだからこそ、託すのではないか。君たちの人生は、これから長く続く。それだけ、真実探求への道が長いということだ」

「アルケンが持っていたくないなら、わたしが預かるから。ただし、何かあったら協力してよね。これは、三人だけの秘密よ。そうよね、先生」

 老人は、にこやかに笑いながら頷いた。だが、アルケンはその瞳に僅かに感じられる悲しみの気配の意味までは分からなかった。

「これから、長い人生の中で君たちは様々な艱難辛苦と出会うだろう。命の危険にさらされるかも知れない。だが、今から言うことを忘れなければ、大抵の困難は乗り越えられる」「何です?」

「『規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから』、古代にいたとされる伝説の哲学者の言葉だ」

「はじめて聞きます。どういう意味ですか?」

 警句めいたその言葉は、アルケンの知的好奇心を刺激した。いかにも深淵めいている。

「それは、わしから伝えることはできぬ。哲学的命題は、自分自身が人生の中でその答を見つけ出していくしかない種類のものだ。いつか分かる。もっとも、わしがその真の意味を理解するのに、何十年もかかったがね」

 自分で意味の分からない言葉を覚えていることが、人生の困難を乗り越える鍵になるとは、どう考えてもアルケンには思えなかった。そう問おうとしたとき、

「さて、長く話しすぎたな。昼休みの時間も終わりだ。エリカ、アルケンを送ってやりなさい」

 ロングバルトは突然、会話を切った。

「アルケン、先生が来たわよ!」

 大鎌で家畜の飼料にする草を刈り取っていたアルケンの肩を、エリカが叩いた。

「お嬢様……」

 アルケンは、エリカに頭を下げ、その後困ったように自分の父と母を見た。父親は草を刈る手を止め、

「エリカお嬢様、毎回、ありがとうございます。俺ら下賤のもののことを気にかけていただいて」

 と、泥だらけの手で頭を掻いた。母親は、ただ優しそうに微笑みながらその光景を見ていた。

「何言ってるの、アルケンはわたしの友達よ。一緒に遊んだり、勉強したりするのは当たり前じゃない」

 エリカはアルケンの手を掴み、屋敷の前面にある庭の方へ引っ張っていった。

「それからアルケン、わたしのことをお嬢様と呼ぶのはやめて。エリカ、でいいわ」

「でも……」

 アルケンは、両親から、決してファビアーノ家の方々を呼び捨てにしてはならないと教育を受けていた。だが、その教育が建前であることも、幼いながらに理解していた。

「いいから!」

「分かったよ、エリカ」

 広大なファビアーノ家の荘園には、畑の他にも様々な施設があった。鍛冶場、粉ひき場、家畜小屋……、そこではたくさんの人々が汗水垂らして働いていた。彼らの前を通ると、皆二人に挨拶した。時には、「仲がいいね、恋人みたい」とおばさんに冷やかされて、エリカは顔を真っ赤にして怒った。アルケンは、なんだか恥ずかしくて縮こまってしまう。

 ようやく、屋敷の前にたどり着く。建物は、綺麗に切りそろえられた石を積み上げて作られており、屋根も灰色の頁岩で葺かれている。しかも、三階建てだ。アルケンの家は、木造で瓦葺き、もちろん一階しかないから、それだけで羨ましくなる。

 その屋敷の前に、綺麗に剪定された庭木と芝生が美しい庭園がある。アルケンが見あげると、抜けるような青空だった。

 桃の木の木陰に、ヒゲを蓄えた老人が立っており、二人の姿を見ると笑った。

「来たね」

 ロングバルトは、ファビアーノ家の子女、エリカの家庭教師だった。貴族階級が皆そうするように、エリカも一流の教育を受けていた。ただ、違うのは、貴族以外の生徒がいたことだった。

 二人は、芝生の上の定位置に座った。二人の前に老人は立つ。

「さて、授業をはじめよう。今日は、ちょっと無限について話してみようと思うが、よろしいか。エリカ、無限の意味は分かるかね」

「どこまでも果てしがないことでしょう」

「そうだな。では、無限に任意の数を足していったとしたなら、どうなると思う? エリカ。1でもそれよりも少ない数でも良い。また、足す数は、毎回変化してよい」

「どんなに少ない数でも、無限に足せば、答は無限でしょう! 考えるまでもないわ」

「そうだろうな。普通はそう思う。だが、ここでわしは、そうでない例を示そうと思う」

 アルケンは、ワクワクした。なんだか、世界の秘密に到れるような気がした。

「1秒に、10ローグ進む矢があるとする。すると、次の二分の一秒では何ローグ進むかな。アルケン」

「5ローグです」

「ふむ、では、次の四分の一秒では何ローグ進むと思う。エリカ」

「2と二分の一ローグね」

「さらに次の八分の一秒では?」

「1と四分の一ローグね」

「ご名答だな。ところで、二秒では何ローグ進むかね」

「20ローグでしょう」

「そうだな。そうすると、20ローグは、10ローグ足す、5ローグ足す、2と二分の一ローグ足す、1と四分の一ローグ足す、八分の五ローグ足す……と同値となる。この意味がわかるかな」

「つまり、無限に足し算を繰り返しても、答が有限になることがある、ということですね」「そうだ、エリカは分かったかな」

「全然、意味が分からないわ!」

「つまり、こういうことだよ、エリカ」

 アルケンは、芝生の合間を縫う砂利道に図を書きながら説明した。それで、ようやく納得したようだった。

「先生、次々と数を減らしながら足していけば、無限にそれを行っても、答は必ず有限になるのでしょうか?」

「ほう! そこまで突っ込んだ質問をしてきたのは、アルケン、君が初めてだよ。残念ながら、必ずしもそうではないという実例は幾らでもある。例えば……」

 その時、ロングバルトは屋敷の方を見た。見ると、屋敷から中年の男女が姿を現し、こちらの方に向かってきていた。

「おや、これはロングバルト先生ではありませんか。お嬢さんに、課外授業ですかな。稼がれますなあ」

「本当、幾らお金をもらってらっしゃるの」

 どちらも、飽食三昧、ハグキが少し腐っているのか口臭がした。けばけばしい色に染め抜かれた、絹の衣装をまとっている。ファビアーノ家と昔から交流のある、エスド家の当主とその奥方だった。

「ははは、教育は、学問を修めた者の責務です、お二方。確かに、わしも人間ですから、食べていかなくてはならないのも事実ですがね」

 エスド夫妻の厭味を、ロングバルトはさらりとかわした。そこで彼らは、アルケンに目をつけた。

「おや……。随分薄汚い服装の子供がいるが、お前は誰だい?」

「荘園で働かせていただいている、スーニュ・アルケンと申します」

 アルケンはぺこぺこと頭を下げた。

「何と、農奴ではないか! 農奴に何を教えているのです! 先生」

 エスド夫人はアルケンの顔をじっと見て、あからさまに驚愕の声を上げた。

「あなた、見て。この子供の瞳の色、紫だわ」

 確かに、アルケンは母から受け継いだ紫の瞳を持っていた。母は若い頃、その瞳の色で苦労したらしい。だが、ファビアーノ家の荘園では、とやかく言う者はあまりいなかった。これまでは。

「紫だと! この共和国に紫の瞳を持つ人間などいない。どこからの流れ者だ! 共和国の土地にウジ虫のように居座りおって」

「とんでもないことだわ。お嬢さん、こんな者と共にいては、名門ファビアーノ家の名折れですわ」

「立ち去れ、薄汚い下郎が!」

 アルケンは泣きそうになった。そうだ、自分のような身分の者が、エリカと話してはならないんだ。そんなことは最初から分かりきっていたことじゃないか。

 だが、黙って走り去ろうとするアルケンの手を、エリカが掴んだ。

「エスド子爵、あなたのいっていることは間違っています」

 仁王立ちしたエリカは、上目遣いにエスド夫妻を睨みつけた。

「神は、その人の外面ではなく、内なる魂をご覧になっています。たとえ、絢爛豪華な生活を送っていても賤しい魂を持っている者より、貧しくとも尊い魂を持っている者の方が、優れている。それは、あの、いと高きお方がおっしゃったことです。違いますか?」

 聖典の中から引っ張られたその言葉に、エスド子爵夫人はむっとなった。何も言い返せないのだろう、彼らもいと高きお方の教えを信仰しているのだから。

「愚か者とはあなたのことだ、エリカ殿。ファビアーノ子爵はどんな教育をしているんだ」

 絞り出すような声で、やっとエスド子爵はいった。アルケンの手のひらを握るエリカの手に力がこもる。

「わたしの父を愚弄しないで下さい!」

「いいですか、エリカ殿。世の中は正論で成り立っているのではない。秩序を保つためにどれだけ手管が必要か、あなたも大人になったら分かるでしょう」

 そういって、子爵は鼻で笑ったが、眉をしかめていた。その額に現われた皺に、彼の経てきた人生の重みをエリカは感じた。馬鹿馬鹿しい大人の理屈は、意味が分からないと言い返そうとしたが、それを老教師は遮った。

「そのぐらいにしなさい、エスド子爵。あなたが感じている恐怖は分かる。世の中の仕組みが少しずつ変わりつつあるという恐怖を。だが、子供相手にむきになって、みっともないですぞ」

 エスド子爵は舌打ちした。

「ふん、わたしはファビアーノ家のためを思って忠告しただけだ。だが、もういい。失礼する」

 夫妻は、尻の肉をぷるぷると震わせて、木々に覆われた道を去っていった。

「ボーッとして何を考えていたの、アルケン?」

「いや……エリカは昔から、俺のことをかばってくれてたなって思って」

「何よ、突然」

 二人は、学園の門の所まで歩いてきていた。事情をよく知らない門番が、二人を不思議そうに見ていた。門の外側まで、二人は踏み出す。

「今日は助けてくれてありがとう。おかげで、犯罪者にならなくてすんだ」

「な、何よ。あらたまって……」

「幼い頃、君がいてくれたおかげで、僕の心は歪むことなく、成長できたと思う。ありがとう」

 エリカは照れくさそうにもじもじ手を動かし、目を白黒させた。

「そ、そんなことないわ。人間として当たり前のことをしてきただけよ」

 人間として当たり前のことか……。アルケンは、宿屋をやっていて色々な地域から来た人々を知ったが、「人間として当たり前のこと」ほど、相対的なものはない。人殺しが当たり前な国もあると聞く。アルケンの心境は複雑だった。

「ところで……」

 エリカは小声になった。まるで、恐ろしい陰謀を話すときのように。

「わたしとあなたとで世界を支配しない?」

 この幼なじみの少女は、確かにそういった。

「な、なんだ、突然」

「あの宝物を使えば、支配者になることができるのでしょう……」

「先生曰く、だろ。正しいかどうかは」

「先生は、自信のないことは言わない人だわ」

 確かに、そうだった。

「ガルトノーシュってところに行きましょう。そこで、力を手に入れるの」

「それは、夢のまた夢だろう」

「わたしとあなたとで支配者になって、世の中の仕組みを変えるの。出自で差別されないような世の中に、誰もが食べるものに困らない世の中に」

 確かに、昔から彼女はそういっていた。政治の中枢に入り、あくどい政治家を排除して、もっと良い世の中を作るのが夢だ、と。だが、女性の身でそうするには、勉強して、力をつけて、とにかく男の倍の努力が必要だ。

「だけれど、無理だろう」

「あの宝物があれば可能よ」

 エリカは肩にかけたポーチの中から、例の巾着袋を取りだした。

「これは、あなたに渡しておく。学校は寮生活だから、他の生徒に見つかってしまうと大変なの」

 アルケンは、それを受け取らざるを得なかった。

「じゃあね」

 エリカは、校舎の中へと姿を消していった。まもなく教会が鐘を鳴らし、午後の仕事の時間が始まった。

 もう、しばらく学校に忍び込むのは無理だなと肩を落として、石の敷き詰められた街路を歩き始めた。

 老教師は、朝の授業の時間帯になっても教室に姿を現さなかった。決して口うるさくはないが、自分には甘くなかった老教師が、朝起きてこないのは珍しかった。

 しびれを切らした生徒の数名が、宿舎にある老教師の部屋に迎えに行った。ただ、その中にエリカの姿はなかった。あまり頻繁に先生の側にいて、何か秘密を共有していることがばれてしまってはまずいからだ。

「ロングバルト先生、ロングバルト先生、いらっしゃいますか」

 生徒の一人が、老教師の部屋の扉を叩く。返事はない。

 生徒が、扉を引くと、蝶番のきしむ音がして開いた。

 ロングバルトは、カシの木で作られた愛用の椅子に、入り口の方を向いた格好で座っていた。目は閉じている。何か研究の途中で眠ってしまったのだろうか。だが、どこか様子がおかしい。

 室内に入った生徒たちは、驚愕した。

 黒インクが机の上にこぼれ、彼の研究を書込んだ羊皮紙や、大量の蔵書がぶちまけられている。革靴で踏むと固い感触がする破片は、食器棚からぶちまけられた陶器や磁器だ。

日用品を入れた長持ちも、鍵がこじ開けられ、儀式の時に着る礼服などが散乱している。気が狂ったのでなければ、ロングバルトがこんなことをするはずはない。

 勇気を振り絞った生徒が、老教師に近づいた。

「先生、先生」

 肩を揺すっても、ロングバルトは目を覚ますことなく、ゆっくりと板張りの床に崩れ落ちた。

 生徒たちの悲鳴は、エリカのいる教室まで響いた。


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