プロローグ
今までで、一番努力した作品であります。少しでも楽しんでいただければ、光栄です。
かがり火も、採光窓もないのに、その広大な広間は明るかった。壁自体が輝いているのだと男が知るのに、それ程時間はかからなかった。だから、この部屋には影がない。
男は、両膝と頭を、綺麗に磨かれた床に押しつけ、完全に平伏している。ウルシが塗られた甲冑、金糸が織り込まれた絹の衣服などは、彼の地位がそれなりに高いことを示していた。
彼が平伏しているのは、奇妙な装飾が施された祭壇に向かってだった。祭壇と男の距離はかなり離れているが、これ以上近づくのは許されていない。
祭壇の前には、女が一人いた。帯から蔽膝をたらした、古い時代の衣装を身につけており、彼女が巫女であることを示していた。どちらかと言えばやせ形の、背筋の伸びた美しい後ろ姿だった。
巫女は、両手を振り上げては跪き、また立ち上がって両手を振り上げる、その祈りの動作を十回繰り返した後、うずくまったまましばらく動かなくなった。祈念を終えた後、上帝が巫女にささやきかけてくれることがあった。王族たちが崇める偽物の神ではなく、本当に世界を統べるお方が、彼女にだけ……。
しばらく待っても声は聞こえなかった。だが、上帝は彼女の間近におわすという気配……暖かさを感じた。この暖かさがあるからこそ、彼女は生きてこれた。
彼女は立ち上がると、左側の台に置かれていた刀子を、厳かな動作で右手に持つ。刀子は固い玉石から作られた透き通るほど鋭利なものだ。
巫女の目の前には、漆喰で白く塗り固められた腰の高さ程度の台があり、その上に裸の少女が仰向けに乗せられていた。少女の身体には、呼吸するときの胸が上下する動きすらなく、それが死体であることが分かる。ただし、まだ幼い美しさは微塵も壊れてはおらず、数刻前に死んだばかりであった。
巫女は、若葉の持つみずみずしさに激しい嫉妬を覚えた。この少女と大して年齢は変わらないはずだが、紆余曲折を経てきた彼女の肉体には、顔には、もう老いの影が表われているような気分になる。少女は、自分とは違い、幸福だったのだろう。擦り傷一つ、身体にはないではないか。
少女の鳩尾に、刀子を突き立てる。内蔵を傷つけないようなほどほどの深さで。それから、慎重にへその上から下腹部まで、刃を進める。黄色い体液が、傷口からにじみ出る。少女にはそれ程筋肉がついていなかったらしく、あまり力を込めなくともすんだ。
今度は、左脇腹から右脇腹にかけて切り裂いていく。今度は、筋繊維と平行に刃を進めるため、さらに抵抗がない。刀子の切れ味もいいのだろう。
十文字に切られた皮膚や筋肉を、手慣れた動作で捌いていく。まるで、豚から食べられる部分だけを切開していくようだ。食糧に使うのではなく、必要なのはその奥にあるものだ。
おなかの部分に詰まっている内臓がむき出しになった。異様な臭いが、広間中に満ちた。祭壇の上は血液や何かで、赤黒くなっている。人形のような外見でも、中に詰まっているものは皆同じ、穢らわしい臓物だ。
巫女は、少しだけ肩の力を抜いた。肉体を捌くのは、かなり体力を要する。
何か、呪文のようなものを呟くと、ごわごわした布を内臓の上に被せ、一瞬のち、引きはがした。そうすると、体液で布にシミが幾つもできる。上帝からのメッセージだ。
シミは、この国で使われる表意文字によく似ていた。少なくとも、彼女にはそう見えた。一つ一つ、丹念に解読していく。読む力があるものからすれば、どんなところにも上帝の言葉を見いだすことができた。水をまいたときの飛沫の飛び方、農民の子が地面に残した落書きにすら、明日の吉凶が現われる。ただ、本当に重要なことが知りたければ、きちんとした手順を踏む必要があった。
巫女は振り返り、男のいる方を見た。それから上帝の詔を意訳し、意外に優しい声で読み上げた。
「ロールバルト共和国の地方都市ティアルバルトの女学院に、支配の玉壁はある。それを他のものに渡してはならぬ、必ず我のもとにもたらすのだ」
男の肩が震えた。ロールバルトのどこかにあることは予想していたが、ここまで詳細な情報が分かるとは……。この巫女の卜占はほとんど当たる。恐ろしくもあり、頼もしくもあった。
「承知いたしました。直ちに密偵を派遣します」
男は立て膝をついて、巫女の顔を見あげた。口元には、自信の笑みが浮かんでいる。
「支配の玉壁は、その名のとおり、適切に使用するものに、この世界の支配権を与えるとされるもの。もし、下卑た輩の手にそれが渡ってしまえば、世界は滅びる。それだけは何としても避けねばならぬ。そなたのように、それにふさわしい器のものが手にすれば、楽土がおとずれるであろう。必ず、我らの手に、もたらすのだ。行け!」
男は、立ち上がり、深々と頭を下げた後、堂々とした足取りで去っていった。場所さえ特定できれば、手に入れるのは時間の問題のはずだった。上帝も味方して下さっている。
巫女は、男の姿が見えなくなると、小さく笑った。操りやすい男だ。
彼女が支配の玉壁を手にしなければならないのには、男とは別の理由があった。
かつて巫女に救われた男は、巫女の手駒に過ぎなかったが、それと同じように、かつて上帝に魂を救われた巫女は、上帝の忠実な手駒だった。少なくとも、そうあらんとしていた。
かつて、世界への復讐だけを目的としてきた彼女に、別の役割――人類を存続させるという――を与えて下さったのは、上帝なのだから。