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求める先には

 大平の世を甘受する江戸時代……。

 陰鬱いんうつとした表情を浮かべながら、よわい十五ばかりの肉薄とした少年は刀を大事そうに抱えて、山中を進んでいた。

 先に述べておくが、今の彼は武士ではない。れっきとした武士であれば、麻布の服など纏わぬし、髪も伸ばしたままにせずにまげを結う。

 何よりも少年には、帰るべき家もなければ、どこかに仕えてもいなかった。そのような者は浪人と称する。

「…………ふぅ」

 額や首筋にべっとりと密着している汗を手で拭き取りつつ、少年は歩みを止めて一息をつく。湿気を含んだこの不快な暑さは、体力を少しずつ削っていた。

 奪われた体力を回復させるべく、腰に提げていた瓢箪ひょうたんを手に取り、栓を開けた。瓢箪の中には、三刻ほど前に入れた水が入っている……はずである。

 少年は瓢箪の先端に口をつけて上に傾け、水を含もうとした。

「む……」

 何かに気づき、瓢箪の呑み口を大きく開けた口に向けたまま上方向に離した。呑み口から一滴の雫が喉奥に響いた。

 雫は酷く生ぬるい。それにこれでは足りない。少年の体力を回復させるにも渇きを充たすにも値しない。

 これは、どこかで新たな水を補給せねばなるまい。幸い、ここは山中だ。川か湧き水くらいはあるだろう。

「探すか……」

 瓢箪の栓をしながら、まなこをゆっくりと動かし、耳をすませて辺りを注視する。

 似たり寄ったりの木、少年の腰首まで届くほどの丈の高い雑草。水の流れる音源はなし。

 現状においては水を補給することは不可能である。推奨されうる行動としては二つ。下山するか、水源があることを期待した上で山奥に進むかだ。

 暫し考えた後、足を山奥に向けて動かした。水源がある確証は無いが、それとは別に確かめたいことがあった。この山に、少年が目的とする人物が住んでいるという情報が真かどうかを。

 今まで探し人の情報を得たことはあったが、全て誤情報か人違いだった。だが、今回は今度こそは本当のはず。

 ここの山麓やまふもとの住民から得た情報は、名前も姿も雰囲気も少年が長年追い求める人物と一致していた。

 なればこそ、中途半端なところで下山するわけにいかない。必ずその人物と会わなければならないのだ。

――会って………………殺害する

「絶対殺す……殺す殺す殺す殺す殺す――」

 突如、少年は眼を鋭く光らせ、怨みこもった呪詛を紡ぐ。心深くに根付く闇を乗せて紡ぐ。

 すると、複数の羽ばたく音と共に木の枝が揺れた。少年の闇を当てられて逃げたはとであった。

 一瞥し、少年は闇を出し続けながら草で覆われた獣道を突き進む。

 一日たりとも忘れえぬ、あの光景。鮮血に染まった部屋。縦に二つ、鋭い剣筋が刻まれていた両親の死体。死に顔は安らかなものでなく、恐怖に歪んだもの。

 殺害現場に入る前に門前ですれ違った男の姿。何かに囚われた瞳、生臭い匂いを発していた長身の男。のちに彼のものが、両親を殺害したのだと気付くには時間は掛からなかった。

「――小山権三郎! 己の、俺の、仇討相手」

 忌々しく言い放ったそこに、年相応の顔はなく、少年――と呼ぶには憚れる、険しい鬼の形相があった。これでも少年は誰にでも愛されていた。善良なる両親に、隣人たちに見守られながら少年は、優しくおおらかに性格で日々を送っていた。

 しかし、善良な彼の性格を大きくねじ曲げたのが、九年前の両親が殺害されたこと。あの日以来、仇討ちのために力を追い求めて、真剣を振るうようになり、周囲からは腫れ物のように扱われ、笑いや喜びといった正の感情を忘れ去った。

 仮に誰か一人でも少年と向き合い、違う道を示してあげていれば、仇討ちとは無縁の道を選ぼうとしたかもしれないし、優しい彼に戻れたかもしれない。人はきっかけがあれば、いつまでも変わることができる。それはいつの時代でも変わることのない真理だ。

 変わるきっかけすら与えられなかった彼は、言い方が悪いが不幸であろう。仇討ちという目的を達成できたとしても、心が癒されるわけがあるまい。ただ、虚しさが残り、先には希望すらない無意味な行為だ。

 確かに意味がないのかもしれない。仇討ちが成功したら、両が帰ってくるわけでも現状が劇的に変わるわけではない、それでも――

  それでも無意味なこととは知りつつも、少年は諦めることができない。いや、仇討ちという復讐しかない、というが正しい。

 他に何をしたら良いのか、何を生き甲斐にしたら良いのかが思い浮かばず、権三郎を憎むこと以外にすべきこと見つからない。

 復讐という目的が少年の生きる糧であり、それに代わるものを自分で見いだすことはできない。

 故に、誰にも道を示されなかった少年には、復讐の道を進むしかなかった。

「アイツのせいで、アイツのせいだ!」

 ひどく不安定な精神が天秤のように揺れ動き、辺りに心の内を撒き散らす。

 爪を肌に食い込ませるまで手を握りしめ、歯を食いしばって進むたびに、隠れていた動物たちが、少年から逃げていく。 九年掛けて熟成された、怒り・憎しみといったような負の感情の塊が、動物たちを本能を恐れさせるほどまでに、少年が燻し出す雰囲気は異質である。

「逃がすか、絶対に逃がすものか」

 昂ぶるドス黒い感情に少年の歩みは早くなり、進み方も自暴自棄になる。小枝が肌を引っかこうとも、棘ある草が密集していようとも、避けることはせずに構わず入っていく。

 次々に血に滲む傷が、増えていくに合わせて思わず押さえたくなるほどの痛みが走る。というのは常人の感覚、今の少年の表情は憎悪に染まっており、痛覚というものは身体から疑似的に乖離していた。

 そのため、どれほど傷つこうと死に至らない痛み程度なら感じることがない。絡繰からくりだ。それも人の負を詰め込んだ絡繰だ。

 絡繰は征く、己の仇を探しに深緑の森へ。天はただ導く、そのものの運命を……。




 あれから、どれほどの時間を消費しただろうか。自らの身体を案じずに突き進んだ少年にはわからない。

 しかし尋常量の汗からして、かなりの体力を消費したのは確かである。その証拠に少年は、木の幹に寄り掛かりながらうなだれていた。 

 さきほどの憎悪に染まっているときは、疲れも痛みも感じない無痛覚状態となるが、元の精神状態に戻ったときにそれは返る。決して万能なものではないから、無痛覚状態に行ったことが、まとめて返ってくる。

 疲労、痛みなどが全て返った結果が今の状態だ。木陰で休まなければなほどに疲労している。

 「さすがに無理があるな」

 目線を動かして、周囲を探るがどれもみな緑、透明に澄んだ液体はない。

 少年は深く息を吐き出し、まぶたを閉じた。どうせ、しばらくの間は疲労で動けないのだから、ついでに仮眠を取ろうとした。

 が、すぐにやめた。水のせせらぎが聞こえたのだ。それと更に遠くからは落ちる音が聞こえる。

 少年は立ち上がり、背筋を伸ばして水音を頼りに足を動かす。滝の音は遠くから聞こえるが、せせらぎは近い。おそらくはこの辺りに小川が流れているはずだ。

「冷たっ!」

 足の肌を刺すような、ひんやりとした冷たさに、少年は思わず声を上げた。

 視線を下に向けるまでもなかった。いつの間にか、小川に足を突っ込んでいた。

 少年は身を屈めて、身体が求めるままに水を手ですくい、飲み込んだ。

 喉を潤し、体内に吸収する。久しぶりに飲んだ水が、身体中に広がって、少年の疲労を癒した。

「あとは滝か。もしやとは思うが」

 水を思う存分飲んだ少年は、口元を拭いつつ思案した。

 小川が流れて来る方に行けば、確かに水源であろう滝に行き着く。もしかしたら、案外そこに権三郎がいるのではと思った。

 確実にとは言えないが、なんとなくいそうな気がする。それに闇雲に山中を歩くよりかは目標に向かう方良い。

 少年はとりあえず滝を目指して冷静に歩む。障害物があれば避けて通り、雑草が邪魔するならば、一歩ずつ踏み倒しながら進んだ。

 先ほどの自暴自棄のような行動とは打って変わった慎重な進みだった。

 であれども進む速度は一定で、徐々に滝音に近づいていく。

 滝が近い。少年は慌てずに山中を歩み、ついに雑木林から抜けた。

「あ……!」

 驚き声が少年から漏れる。

 目前に広がる眩い空間に、石畳みの地面、透き通った湖に、淡々と降り注ぐ滝。見張るものではあるが、少年の視線は、それ以外の一点に集中していた。

 滝をジッと見つめて、立ち佇む長身の痩せた男。瞳には無情に滝だけを映し、人間味が希薄である。

 それに加えて男が持つあの真剣。現在ではあまり見かけられない三尺ほどの野太刀だ。

 その男……

「小山権三郎っ!」

 少年は仇の名を叫んだ。その叫びは憎悪を含んだものであった。

 男――権三郎は少年へと身体を幽鬼の如く、ゆらりと向けた。

 権三郎の瞳は何かに囚われていて虚ろ。少年の記憶にある、姿のそのものだった。

「……何だ? 仕事の依頼か? あいにくだが、今はそんな気分ではない」

「依頼だと?」

「用心棒、人斬り、その他諸々のことだ。しかし、その様子だと依頼ではないようだ」

 憮然とした態度で権三郎は言い、視線を空に移した。

 空には喉元が鬼灯のように赤い黒い鳥が一羽、飛んでいる。その鳥を一心に見続けていた。

「それでは両親が殺害を依頼したのは誰だ! 答えろ!」

 少年は激昂した。

 権三郎がなぜ鳥を見るのかより、両親の殺害を誰が依頼したかのほうが大事だ。

 激昂する少年に再び権三郎は向く。

「知らん。殺害する者の名も依頼した者の名など聞かんから、知らん。だが、一つだけわかることがある」

「何だ!」「己が憎いのだろう。今にも斬り掛かって来そうな勢いだ」

 常人であれば、卒倒させる憎悪の矛先は権三郎、一点に突きつけられている。

 だというのに権三郎は涼しげな表情を浮かべるのみだった。

「ならば話は早い。俺と決闘しろ」

 少年は権三郎の方に人差し指を向け、眉間にこれでもかというくらいに、しわを寄せて睨み付けて決闘を申し入れた。

 その表情は、人ならざる修羅の面を被っているように錯覚しそうであるが、正真正銘の彼の顔だ。

「断る、といっても無駄のようだ。いいだろう。殺人剣を馳走しよう」

 権三郎の言葉が決闘の成立となり、互いに太刀に手を掛けた。

 その状態で視線を交わせ、一拍おいた。 一触即発の空気が張りつめる。蜘蛛の糸を引っ張っているかのようなほど、危うい空気だ。

 そうして双方は鍔を弾き、引き抜いた。長さが異なる無銘の刃が光に煌めく。

「御命、頂戴致す!」

 先に動いたのは少年。素早く間合いを取って臨戦の状態に構える。

 立ち位置は権三郎の真正面、剣先を相手の喉元に向ける。

 正眼構えだ。剣術において基本であり、攻めや守りに素早く移ることができる調和された構え。

 技の移りの速さや手数の多さ、あらゆる物事に柔軟に対応することから、水の構えとも呼ばれる。

「――――――」

 少年は息を殺して権三郎から目を逸らさずに、キッと見据える。

 さあ来い、小山権三郎。情報通りならば大上段で来るはず……。しかしそれがお前の最期。おれの最期。

「巌流が一番弟子、小山権三郎……」

 虚ろな表情で緩やかに構える。その瞬間につけ入られる隙は一分もない。

 右足を引いて、剣先を頭上に高く振り上げることで胴がガラ空きになる。それは、守りを全て捨て、攻めのみに特化した隙だらけの大上段構え。

 されど大上段に隙は無し。大上段は全ての構えの内で最強を誇る。

 一度打ち下ろせば、人の振りに真剣の質量と自然の重力が合わさった、最大剣速を生み出して相手を一撃で絶命させる。

 加えて、大上段のみならず上段は、振り上げた構えであるが為に異様に大きく見える。その姿に対峙者は恐怖を感じて、斬り込むことを躊躇う。

 しかし、使用者にも欠点はある。大上段は一度打ち下ろしたらそれまで、即座に切り返すことは叶わず、一瞬無防備になる。

 すなわち、初太刀を外したら相手の一太刀を脳天に浴び、絶命することを意味する。

「――参る」

 言葉と共に滲み出た、静かなる威圧感に少年は一瞬たじろぐ。

 向けられた殺意の眼光。大上段構えと長刀が放つ威圧にたじろいだのだ。

 頭は危険を告げる。身体は恐怖で萎縮を促す。

――うるさい、黙れ。そんなものは無視しろ。

 身体の底から引き上げるは負の想念。憎悪と怒りで身体の隅々を染め上げ、顔を歪ませる。

 少年は完成した。恐怖も威圧にも屈しない疑似的の無痛感覚。

 これならば怯むこともなく、少年の持ちうる最速を発揮できる。

 最速を持って権三郎の初太刀を避けて一太刀浴びさせ、仇討ちを成就することができよう。

 しかし、権三郎は相当の手練れ、少年は勝てるなどとは思っていない。かといって、敗れるとも思わない。

 仇討ちの成就のみを優先させるのだ。勝利することも敗北することもない方法、刺し違えることしかあるまい。

 一撃必殺の大上段の初太刀を躱し、二撃目を放たれる前に喉を突く。

 恐らくだが突いただけでは、権三郎の二撃目は止まらずに刃は少年に届き、相討ちとなろう。

 その際の死の恐怖などはない。仇討ちを成就して死ぬならば、それは好都合というもの。両親の仇を取って死ぬならば良い。

「…………」

「…………」

 呼吸周期、まばたきするまでの時間、剣先……互いに見つめて動きと癖を探り合う。

 探り合うだけで両者は微動しない。しかし、すでに熾烈な勝負は始まっていた。刃を交えてはいないが、水面下での戦いは繰り広げられている。

 どちらが先に動くか、崩れるか。剣先が動いた場合、どう対応するか。静かなる攻防がそこあった。

「…………」

「…………ッ」

 権三郎の剣先が僅かに右方へ動いた。右大上段――だとすれば袈裟斬りか、左小手。

 どちらかと少年が見極めていると、ふと……両親の死体が頭に浮かぶ。左肩から斜め下にかけて一つ、斬り傷。もう一つは右半身縦。

 軌道予測。左肩から袈裟斬り、振り斬ったところで刃を反転させて下段から直線斬り。それが権三郎の攻め方だろう。

 動きは静止。コマのように回り続ける静止の図。はたの目から見れば一種の絵だ。

 先にしびれを切らすのは権三郎か少年か。予想はできない。全てを知るぞは天のみ。

「…………」

「…………」

 場は完全に静寂。水の流れる音が浮いて聞こえる。鳥の鳴き声が響く。

「――――!」

 先に動くは権三郎。長大な刃が少年を斬り刻まんと迫る。一撃必殺の袈裟斬り。

「…………ふっ!」

 読めていた技など恐るるに足らず。身体はどう動けば良いか分かる。

 少年は刃を傾けて右斜め後方へ大きく下がり、袈裟斬りを躱す。

 が、少年の動きよりも権三郎の剣速の方が速く、肩口を少々斬った。

 少年は怯まない。この程度の傷では、疑似的な無痛状態の彼に痛みは届かない。故に即座に動くことができる。

 権三郎は刃を完全に振りきり、技後硬直を起こした後に、刃を切り返そうとして弧を描く。その瞬間だけ無防備な身体を晒す。

――好機!

 できた隙を少年は見逃さない。剣先を喉に目掛けて体重を乗せて押し出すように刺突!

 やった! と少年は思う。もうすでに技は繰り出された。この動きを止めるのは不可能。


「――秘剣」


 荘厳な声が少年の耳に入る。何かをしようとしているが、もう遅い。権三郎の刃が少年に届いても相討ちとなる。勝負は決した。

 …………本当に?

 本当にそうだろうか。この勝負は相討ちとなり少年の悲願達成で決するのか。

 何か忘れてはないか。長年、剣で飯を食っていた権三郎が、この程度でやられるわけがなかろう。


「――燕」


 真剣が加速する。通常の斬り上げでは、再現できない速さで少年の身体を斜めに切り裂く。

 切り裂く過程で甲高い音が鳴る。鉄と鉄をぶつけ合うような音、真剣だ。

 双方の真剣は途中でぶつかり合い、打ち負かされた少年のが空を舞う。

 少年は眼を見開き、動揺する。己の最速の突きが、いとも簡単に破られるとは、思ってもいなかった。

――速すぎる!

 権三郎の手はまだ動く。切り上げた速度を維持しながら構えを一瞬取る。


「――返し!」


 右半身に上段からの一閃を受けて、華を咲かす。それは見事な紅い華であった。

 少年はその紅い華に見惚れ、仰向けに倒れ込む。頭部に衝撃と真剣が落下した音が響いた。

 衝撃の弾みに、少年の疑似の無痛感覚が途切れ、せき止められた激痛が溢れだす。

 抉られた後頭部に左胸の斬り口、腰まで斬り開かれた右半身からくる、日常では味わえない痛みが少年を襲う。

「げはっ、ぎひっ、いあああぁぁぁぁっ!」

 人が発するとは思えないほどの苦痛の奇声が上がる。

「こんのガァァアッ!」

 憎悪を込めて仇を睨もうとしたが、意識が朦朧として権三郎の姿が霞む。少年の死が近いのだろう。

「ごんっざぶろうオオオォォォォォッ!」

 少年は力を振り絞り、左手を弱々しく震わせながら権三郎へ伸ばす。ありったけ怨みを乗せて、彼は惨めに手を伸ばし続ける。

 なぜ自分が死ぬ。なぜ奴が生きる。天は……なぜ悪を見過ごす。自分が間違っているのか……自分の方が悪であると言いたいのか、ふざけるなよ。

 因果応報も何もないじゃないか。この世は間違ってやがる。悪に報いがない世など間違っている。

 あああ…………権三郎。死ね、お前も誰かに敗れて惨めに死ね。自分が望むはそれだけ。

 ……もう、げ……んか……い……くろいとり……アレ……は……つば……め……か……?





 少年は目的を達成することなくあっけなく絶命した。誰でもない仇の手に掛かって絶命したのだ。

 それはさぞかし無念であろう、屈辱であろう。だがこれも天が選んだ道、少年の選んだ道、是非もあるまい。

「相も変わらず、酷い死だな」

 権三郎は、血溜まりに浸る少年であったモノを、まじまじと見つめる。

 腰で裂かれた右半身の腹部からは、赤褐色の臓物がぶちまけられ、血と小便が混じった強烈な悪臭に、壮絶な表情。とてもじゃないが、安らかな死とはかけ離れたものだった。

「…………」

 いつも見慣れた光景であるから、すぐに興味を失い、視線を空へと移す。

「燕……」

 曲線の翼を持つ黒い鳥が一羽、空を飛び回っていた。小刻みに翼をはためかせて、辺りをグルグルと素早く飛び回る。

「アレを斬らねば、秘剣は完成せん」 権三郎の虚ろな瞳には妄念、あるいは執念と呼ばれるものが宿る。

 何もかもをも犠牲にしてでも、叶える者の念が宿っていた。

 権三郎は真剣に付着している血を振り払い、大上段に構えて燕を待つ。

 想念を一つにする。権三郎の心は燕を斬ることだけで、他の考えは一切ない。

 ただひたすらに燕を斬ることだけを想い続ける。

 燕が近づく。

「――秘剣・燕返し」

――初太刀を振るう

 中々の速さではあるが、燕を斬るには遅く、簡単に避けられた。だが、これは燕を目的の場所へ誘い込むための布石だ。

――右斜め上へ斬り返す

 燕は弧を描いて方向転換し、尾を権三郎に向けて逃げようとする。

 方向を転換したがために、やや速度が落ちた今が斬る機会である。

――上段から振り下ろす

 権三郎の一念の剣が、背を向けた燕を両断――しなかった。

「なぜだ! なぜ斬れぬ!?」

 権三郎は肩をわなわなと震わせて、思いをぶちまける。剣速は充分、太刀筋も確かにに燕を捉えていた。それなのに燕を斬れなかったのだ。

 真剣を落として膝をつき、両手に顔を向ける。

「おおおぉぉぉぉぉっ! 一体なにが足りないというのだ。己のどこが悪いのだ。極めて、なお極めても燕が斬れぬのでは、なれないではないかっ! 私は亡き師に……佐々木小次郎になれないではないかっ!」

 天を仰いで彼は葛藤を口に出すが、返す者はいない。

 仮にいたとしても、他人になりたいという願いには、困惑して結局は答えられないであろう。

 人は誰かに憧れ、模倣することはできるが、なることはできない。仮になろうとしても途中で必ず挫折する。そうして無理だと悟り、自分自身となる。

 しかし、権三郎は違った。憧れが強すぎて諦めるということをせずに、佐々木小次郎になろうとした。

 太刀筋の癖、立ち振舞い、口調、はてには歩き方まで模倣して己を佐々木小次郎に昇華させた。

 ある意味一種の狂った愛の現れであろう。

「あと一歩……あと一歩だ。秘剣さえ覚えれば」

 権三郎は立ち上がり、秘剣・燕返しで燕に斬りかかる。

 結果は斬ることはできなかった。それでもなお、権三郎は斬りかかり、失敗する。

 何度も何度でも燕返しを放ったが、燕には一つも届かなかった。

 それはそうだ。彼の燕返しが失敗するのは当然のことである。

 そもそも燕返しとは、佐々木小次郎が冗談で燕を斬ろうとすると、本当に斬れてしまったことから、周囲に囃し立てられて名付けられたものだ。

 偶然生まれた遊びの剣技であり、理論的に構築された技非ず。

 佐々木小次郎でも知らぬ、無自覚の剣才が燕を斬る。つまり、燕返しは佐々木小次郎のみが使える技である。

 どれほど真の太刀筋に迫ろうと、佐々木小次郎でない限り燕は斬れない。

「燕返し!」

 気づかぬ権三郎は叶わぬ技を会得しようと、この地にて刃を振り続けた。



 そうして、数年後。彼は師の名を騙って、決闘を行い敗死した。

 勝者の名は――宮本武蔵。

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