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無能な花嫁だと婚約破棄されましたが、縛らない刺繍で残忍王子の誤解をほどいたら溺愛されました

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/06/03

「魔力のない者に、縛り糸を纏う資格はない」


王太子ルカス・ヴァン・エルヴィンの声が、春の夜会の大広間に響き渡った。


シャンデリアの灯りが揺れている。数百の視線が、私に集まった。


私の名前はエラ・フォン・クラリス。公爵家の一人娘。

この国では、縛り糸を持つ刺繍師の価値で令嬢を測る慣習がある。


「縛り糸とは何か」と問われれば、私はこう答える。



縛り糸とは、魔力を込めた刺繍のことだ。


布に刻まれた様々な文様を通じて、相手の感情に触れ、縛りつけることができる。

それは愛情、忠誠、服従——どんな感情でも、縛り糸があれば心に刻みつけられる。


才能ある令嬢ほど、強い縛り糸を持っているとされていた。


でも、私にはその縛り糸を縫うために必要な魔力が絶望的になかった。




「本日をもって、エラ・フォン・クラリスとの婚約を破棄する」


その声が会場に広がると同時に、周りからざわめきが広がった。


同情、嘲笑、好奇…空気が一気に変わった。




私は何も言わなかった。


言い訳をするつもりはなかった。

縛り糸を使えない理由を、この場で説明したところで誰も聞かないだろうと思っていたから。


「申し開きはないのか、エラ」


ルカス殿下が眉をひそめた。


泣き崩れるか、怒り狂うか。

そのどちらかを期待しているのだろうと、目を見てわかった。


私は静かに一礼した。


「長らくお世話になりました、殿下」


それだけだった。


殿下の口元がわずかに歪んだ。

期待した言葉が返ってこなかったことへの苛立ちが、その顔に滲んでいた。


私は背を向けて歩いた。誰も声をかけてはこなかった。




馬車が王都を離れていく。

窓の外に、春の草原が続いていた。




この国では、縛り糸を使える女が価値を持つ。


縛り糸が強いほど格が高いとされる。

だから貴族の女は皆、刺繍師の資格を磨く。


相手の心を縛ることが、愛情の証だとされているからだ。




十五歳になると貴族の子息・令嬢は「鑑定式」を経る。

鑑定師が魔力の量と質を公式に判定し、その結果が記録として残る。



公爵家であれば、人並み以上の魔力があるのが当然とされていた。


ゼロなど、前例がなかった。


鑑定師が結果を告げた時、父の顔が一瞬で固まった。

それからすぐ、いつもの無表情に戻った。その顔を見て、私は何かを悟った。



婚約者へのハンカチも、作れなかった。


この国では花嫁が婚姻の際に、縛り糸を込めた刺繍のハンカチを手ずから縫い上げて相手に贈る習慣がある。


込めた魔力の量と縫い目の精度がハンカチの出来を決め、婚姻の場で披露されることから「花嫁の格と誠意」を示す証になる。


縫い目が粗い、魔力が薄い、そもそも縛り糸を込められないとなれば、花嫁としての評価は大きく下がる。


婚約が決まってから、私は何十枚も縫っては失敗していた。


縛り糸の入れ方を習い、針を動かすたびに魔力を込めようとした。


でも仕上がるものは毎回、縫い目がよれていたり、文様が途中で歪んだりする、人前に出せないものばかりだった。


魔力がないのだから当然なのに、それでも諦めきれなかった。


出来上がったハンカチを一枚一枚、引き出しの奥にしまった。

捨てることもできないし、誰にも見せられなかった。




十四年前のことを、今も覚えている。


母の部屋から見える、棚に並んだ縛り糸の布たち。

窓から差し込む光の中で、母が一枚また一枚と刺繍を重ねていた。



父に愛人ができたのは、私が八歳の時だった。


「また縛れば、きっと戻ってくる」


母は毎日新しい縛り糸を作った。魔力を使い果たすほど刺繍を続けた。


しかし父の足が母の部屋に向くことはなく、むしろ日を追うごとに顔から温かさが消えていった。


「なぜ……なぜ効かないの」


縛り糸の布が積み上がるたびに、母の目が遠くなっていった。


そしてある日、母は倒れた。

医師によると、魔力の使い過ぎによる消耗だったそうだ。


「縛った心は……本物じゃないのね……」


病床の母が最後に残した言葉だ。


私はその時、決めた。



縛り糸は使わない。縛ることで人の心を引き留めようとしない。


本物の気持ちで向き合いたかったから。





婚約破棄をされた後、私は王都を出て、家柄も捨てて旅を始めた。


行く先々の村で、刺繍師として仕事を請け負った。

縛り糸ではない、ただの刺繍だ。


産着に花を縫う。亡くなった人が愛用した布に、形見として一針入れる。

嫁いでいく娘に、温もりを込めた手ぬぐいを贈る。


「エラさんの刺繍は、不思議と長持ちするんです」


ある村の老婆がそう言った。


「他の刺繍師さんのものと何が違うのか、わからないけれど……手に取るたびに、温かくなる気がして」



縛っていないからかもしれない、と思った。


縛り糸は心を引き留めるが、引き留められた側の感情をじわじわと消耗させる。



でも縛らない刺繍は、温かさをそっと包んで、手元に置いておける。


それが「包む刺繍」だと、私は呼んでいた。



秋の初め、山間の小村に立ち寄った日のことだ。


村の広場で刺繍を広げていると、蹄の音が聞こえてきた。

馬上の人物を見た瞬間、周囲の村人たちがざわついた。


「クロード殿下だ……」「あの残忍王子の?」「目を合わせるな…」



黒い軍服をまとった男が、馬から降りた。

漆黒の髪、暗い色の瞳。整った顔立ちには、一切の表情がなかった。



第二王子、クロード・ヴァン・ケーニッヒ殿下。


この国で「感情なき残忍王子」と呼ばれている方だ。

処刑を笑顔で命じるとか、近づいた者を呪うとか、そういう噂を山ほど聞いていた。


殿下は村人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく様子を見ても、表情も変えず、何も言わなかった。



ただ、視線が私の手元に向いた。


「……それはなんだ」


「私が縫った刺繍です」


答えると、殿下の目がわずかに細くなった。


「縛り糸か」


「いいえ。縛り糸の技法は使っていません」


殿下は数秒、無言だった。


やがて私の刺繍台の前にゆっくりと歩み寄ってきた。

周囲には誰もいない。村人は全員逃げてしまっていた。


殿下が産着の布を手に取った。


指先で刺繍の縫い目をなぞる。


「……縛られていないな」


小さな声だった。


「ええ」


殿下が布を持つ手が、ほんの少しだけ、力を緩めた。

私にはその変化がわかった。


「お前は……俺を怖がらないのか」


「ええ、怖がる理由が見当たりません」


殿下がこちらを見た。漆黒の瞳が真っ直ぐに向いてくる。


「噂は聞いていないのか」


「聞いています」


「それでも」


「殿下が無口で無表情なのは、ここに来てからすでに確認しました。残忍かどうかはまだわかりませんから」


殿下の目が、ほんの少し見開いた。それだけだった。表情は動かない。


しかしその目の奥に、何かが動いた気がした。



それから殿下は、村を通るたびに私の前に立ち寄るようになった。


用件は毎回、特になかった。

ただ座って、私が刺繍をする手元を眺めている。たまに短く声をかけてくる。


「今日は何を縫っている」


「亡くなった奥様の形見の布に、ご主人の好きだった花を入れています」


「……そうか」


それだけだった。


次の訪問では、こんなことを聞かれた。


「縛り糸を使わない理由は、なにかあるのか」


「…過去に、母が縛り糸で人の心を縛ろうとして、失敗したのを見ました。縛られた側の心は、時間とともに消耗していきます。それは…本当の愛ではないと思ったからですかね」


殿下は黙っていた。


私も黙っていた。


しばらくして殿下が言った。


「……俺は縛り糸が嫌いだ」


「ええ、知っています」


「なぜ知っている」


「縛られることへの嫌悪が、立ち居振る舞いに出ていますから。他の方の刺繍には近づかないでしょう?」


殿下の手が、膝の上で微かに動いた。


「従者にも護衛にも、縛り糸を渡していないと聞きました」


殿下は一瞬だけ、目を伏せた。


「……幼い頃から、強い縛り糸で縛られた人間を見てきた。縛り糸を受け取った従者は、命令に従う。でも、時間が経つと顔から何かが消えていく…」


「……」


「縛られた人間は、縛り手の鏡になる。それを見ていたくなかった…ということでしょうか」


「……ああ、そうだ」


長い沈黙の後、殿下が言った。


「縛られた感情は信じられない。本物かどうかが、わからなくなる」


私はその言葉を聞いて、手を止めた。


「だから俺は……誰の感情も、信じないようにした」


「それは……」


「でも…お前の刺繍だけは怖くない」


その言葉が、うれしかった。


縛られた感情しか信じてもらえなかった。

縛られていないものを、怖くないと言ってもらえる。それが何を意味するのか、私にはわかった気がした。


殿下は立ち上がる前に、産着の布を一度だけ手のひらで包むようにした。縛り糸のない刺繍が、彼の手の中で静かにそこにあった。


「……また来る」


「ええ、いつでもどうぞ」


殿下が去った後、私は長い間、刺繍の手を止めていた。


私の胸の奥が、静かに動いた。




冬の始まりの頃のことだった。


王都から急使が来た。


王太子ルカス殿下の体調が優れないという。

眠れない、気分が落ち着かない、判断力が鈍っているという報告が続いているとのことだった。


宮廷医が異常を見つけられない中、クロード殿下がなりふり構っていられなくなったのか、ついに私のところにまで訪ねて来た。


「エラ嬢、お久しぶりだ。ここで刺繡屋を営んでいると聞いたが…このコーデリア嬢がルカス殿下に贈った刺繍を見てほしいのだが」


コーデリア・アルドワン伯爵令嬢。

私の婚約破棄後にルカス殿下に近づいた、縛り糸の名手と評判の令嬢だ。


殿下が一枚の布を持ってきた。

コーデリア嬢がルカス殿下に贈ったという刺繍だった。


縛り糸は本来、形式的なものだ。


婚姻のハンカチや主従の誓いの布。文化・伝承として根付いたものではあるが、実際に相手の感情を支配したり、意志を書き換えるほどの効力は、通常の縛り糸では出ない。


そもそも、それほどの力で縛ることは法律で禁じられている。過去に悪用した者がいたために整備された法だ。


だから現代の社会では、縛り糸が「本当に心を縛れる」こと自体、半ば伝説として認識している者の方が多い。



だからこそ、布を手に取った瞬間の感触が、異常だった。

指先が重くなる。違う。重いのではなく——引っ張られる感じがした。


刺繡は隙間なくびっちりと埋め尽くされている。

縫い目を目で追う。

文様の密度が、通常の縛り糸の三倍以上はあった。


「……強すぎます」


「強すぎる、とは」


「縛り糸は適切な密度であれば相手の感情に寄り添います。でもこれは……殿下の感情を上書きしようとしている。これは…心が疲弊するはずです」


クロード殿下の目が、静かに細くなった。


「コーデリア嬢はわかっていてやっているのか」


「わかっていてやっているかどうかは、本人に聞くしかありません。

でも縛り糸が強すぎて、ルカス殿下の自分の感情がわからなくなっているのは間違いないと思います」


「……これは解けるのか?」


「縛り糸は魔力で縛ります。でも私の刺繍には魔力がない…魔力のない刺繍で縛りに触れれば、干渉できる可能性があるかもしれません」



王宮で、コーデリア嬢と向き合うことになった。


そこにはクロード殿下も同席していた。


コーデリア嬢の顔が強張っていた。


「……エラ様が、何の用ですか」


「ルカス殿下にお贈りした刺繍の話をしにきました」


コーデリア嬢の指先が白くなった。


「縛り糸の密度が高すぎます、殿下の体調不良はそのせいです」


「違います。私はただ……」


「縛れば縛るほど、相手の感情は本物ではなくなると思います。この刺繡で、殿下に何をしてほしかったのですか?」


コーデリア嬢の肩が、小刻みに震えた。


「でも……でも、それしか方法がなかったの……」


その声は、追い詰められた者のようにか細い声だった。


「ルカス殿下の気持ちが、縛らなければ向いてくれなかった。強くしなければ、消えてしまう気がした……」


目に涙が浮かんでいた。


私は一歩、近づいた。


「縛った心は、本物ではありません。それは私の母が、命を削って証明してくれたことです」


コーデリア嬢の涙が、頬を伝った。


「……わかって、いた。わかっていたけど……」


私はその布をそっと受け取った。


縛りを解く。魔力のない針で、縛り糸の縫い目の間を通す。


魔力がないから、縛りに拮抗できる。縛られた糸が、ほどけていく。


ルカス殿下が、ゆっくりと目を開いた。


「……俺は、何を」


「大丈夫ですよ、殿下」



後日、クロード殿下と並んで廊下を歩いた。


「お前のやり方は、いつも変わらないな」


「変わりようがありません。私には、皆さんのように縛り糸がないので」


「……そうではなく」


殿下が足を止めた。


こちらを向く。いつも通り、無表情だった。

でもその目の奥に、今は確かに何かがある。


「お前は俺を怖がらなかった」


「…?そうですね、クロード殿下は怖くないですよ」


「残忍だと言われているのに、か?」


「噂と実態は別物です、今まで過ごしてきた時間でそれを実感しました」


殿下の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑った、と言えるのかどうか、判断が難しいくらいの変化だった。


でも確かに、変わった。


「……エラ」


「はい」


「お前の刺繍は、縛らない。それでも……俺だけの手元に置いておきたいんだ」


私は返事をしなかった。


それの意味を、考えた。


「縛られていないのに、離れたくない。これが本物の愛ということなのだろうか」


殿下が、ゆっくりと私の手に自分の手を重ねた。


指先が冷たかった。触れた場所から、じわりと温かさが広がった。


「……傍にいてくれるか」


「はい」


私は答えた。


「縛らなくていいのなら、ずっと」


「ああ、もちろん縛らない」


「では、ずっと傍にいます」


窓の外に、冬の最初の雪が降り始めていた。


白い光の中で、二人は静かに並んで立っていた。


ルカス殿下が後日、私のところに来た。


「俺が間違えていた」と言いながら頭を下げた。

どこか、ずっと前の夜会で見た横顔とは違う顔をしていた。


「あの婚約破棄がなければ、ここにはいませんでした…だから、感謝しています」


殿下は目を丸くした。それから、苦い顔で笑った。


クロード殿下は、その一部始終を廊下の角から見ていたらしかった。


「お前は、恨まないのか」


「ええ、恨む理由がありません。縛り糸がないと、気持ちが軽いんです」


殿下が少しだけ黙った後、言った。


「……そうか」


それが、縛らない愛の始まりだった。


【完】


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