琥珀の追憶
その日の夜。
子供たちが寝静まった後、桜は一人、行灯の微かな光の中で、今日摘んだ薬草を整理していた。昼間、子供たちに答えた「幸せになってほしい」という言葉を反芻する。
(……先生、まだ怒ってるかな)
昨日の、あの久我の豹変。
あんなに恐ろしい声を出す彼を見たのは初めてだった。理由も分からず、ただ一方的に突き放されたような悲しみが、今も胸の奥に冷たく残っている。
(私の何が、先生をあんなに苛立たせたんだろう。……本当は、私のこと、邪魔だと思ってるのかな)
そんな不安に胸が詰まる。けれど、どんなに怖くても、突き放されても、彼を嫌いになることなんてできなかった。
あの日、縁側で不意に触れられた指先。伝わってきたのは、設定資料集には載っていない、生身の男の体温だった。節くれだった大きな手のひらの、不器用なほど慎重で、優しい力加減。
かつて、遠い世界の住人として彼の幸せを願っていた時は、そこに自分の存在なんて必要なかった。彼がどこかの空の下で笑っていれば、それで満足だったはずなのに。
(……画面越しじゃ、こんな熱さ、知らなかったんだ)
今、隣の部屋で静かに筆を走らせている、一人の男性。
「ただのファン」で、見守るだけの存在だった頃は、こんなに胸が痛むことも、彼の温度を求めて苦しくなることもなかった。
「幸せになってほしい」という、かつては無償だったはずの祈りは、肌の温もりを知ってしまったことで、自分でも気づかないうちに「彼の隣にいたい」という切実で生々しい「恋」へと形を変えていた。
(……だめだよ、私。そんなこと思ったら、お別れがもっと怖くなるじゃない)
桜は膝の上で、自分の手をぎゅっと握りしめた。
自分の命を削りながら過ごすこの「休暇」には、いつか必ず終わりが来る。
彼を怒らせ、嫌われることを恐れながらも、それでもなお彼を求めてしまう。
「ただのファン」としての境界線を踏み越えてしまった自分に戸惑いながら、桜は暗闇の中で、消えない指先の熱をなぞるようにそっと目を閉じた。
(……ごめんなさい、先生。こんなに欲張りで、図々しい私で……)
その時、襖の向こうで筆の音が止まったことに、彼女は気づかなかった。
久我もまた、壁一枚を隔てた隣の部屋で、彼女の気配を感じながら、己の理不尽な怒りを悔い、彼女が丘の上で捧げてくれた「祈り」の重さに、一睡もできずにいた。




