風にのった言霊
桜は、自分が先生をあそこまで怒らせてしまったという恐怖と困惑から、必要最低限のこと以外、彼と視線を合わせることさえできなくなっていた。久我もまた、己の醜い感情を制御できずに声を荒らげた自分を激しく嫌悪し、書斎に引き籠もる時間が増えていた。
そんな、張り詰めた空気の中での翌日の午後。久我が寄り合いから戻ると、寺子屋に人の気配はなかった。
陽と凪、そして桜は裏山へ薬草を摘みに行ったと聞き、迎えがてら足を向けた彼は、野原の手前の木陰でふと足を止めた。
丘の上で、桜が子供たちに囲まれて座っているのが見えたからだ。
(……やはり、私がいなければあのように笑えるのか)
自嘲気味に呟こうとした久我の耳に、陽の突き抜けるような声が届く。
「ねえ、サクラ姉ちゃんにとって、先生ってどんな人?」
隠れて聞くつもりはなかった。だが、「あのように怒鳴り散らした自分」が彼女の目にどう映っているのか。その真実を知るのが怖くて、彼はその場から動けなくなった。
「ええ……先生? うーん、そうだね……」
少しの沈黙。久我は、非難の言葉を覚悟して拳を握りしめた。
しかし、聞こえてきたのは、予想に反した祈るような柔らかな声だった。
「……誰よりも、幸せになってほしい大切な人…かな」
久我は、息を呑むことさえ忘れた。
戦に明け暮れ、多くの命を奪い、自らも死に場所を探すように生きてきた。昨日、彼女に対してあれほど理不尽な感情をぶつけたばかりの自分に向けられる言葉として、それはあまりに眩しく、不釣り合いなものだった。
「もちろん、あなたたちもよ」
笑い混じりの彼女の声。
久我は、木陰から彼女たちの姿をただ見つめた。
西日に照らされた桜の横顔は、いつか縁側で見惚れた時と同じ、琥珀色の光を宿している。
(……幸せに、なりたいなど…一度も、考えたことはなかったが)
胸の奥が、熱い何かに締め付けられる。
自分を「道具」や「脅威」としてではなく、ましてや「恐ろしい男」としてでもなく、ただ「幸せになってほしい一人の人間」として見つめる存在。
その存在の尊さに、久我は生まれて初めて、己の生き方に深い戸惑いを覚え、同時に強烈な「生」への渇望を自覚した。
「わあ、先生だ! おかえりー!」
自分を見つけた子供たちが駆け寄ってくる。
久我は努めていつもの冷静な顔を装ったが、歩み寄ってくる桜と視線が合った瞬間、昨日の己の過ちへの罪悪感と、彼女の言葉への衝撃を隠すように、わずかに目を逸らした。
「……先生、お帰りなさい」
桜の瞳は、昨日怒鳴られた怯えを微かに残しながらも、それでもなお、彼を慈しんでいた。
「……ああ。今、戻ったよ」
短く答えた久我の胸中には、朔の「独占欲は残酷だ」という言葉とは別の、重たくて温かい感情が沈殿していた。




