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君に一生分の休みを。  作者: 桜庭つむぎ


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17/19

軍師の計算違い

昨夜の川原での出来事は、何一つ解決していなかった。

一睡もできぬまま朝を迎えた久我は、いつも通り朝餉を摂り、いつも通り子供たちに読み書きを教えていたが、その所作の端々には、隠しきれない棘が混じっていた。

「……先生、今日なんだか怖いね」

「陽、しっ。……サクラさん、先生と喧嘩でもしたの?」

隣で筆を動かしていた凪が、心配そうに袖を引いて小声で尋ねてくる。桜は「そんなことないよ、凪ちゃん」と力なく笑い返すしかなかった。昨夜から一度も、久我と視線が合っていない。彼が「帰ろう」と差し出したあの手の温度さえ、今は遠い幻のように感じられた。

そんな張り詰めた空気の中、午後の寺子屋に招かれざる客たちが現れた。村の若い男たちが数人、獲れたばかりの岩魚や山菜を抱えて、庭先に集まっていたのだ。

「サクラさん、これ。今朝獲れたばかりの岩魚だよ。食べてくれよ」

「わあ、立派な岩魚! ありがとうございます。陽くんも凪ちゃんも喜びますね」

桜がいつものように「助手」としての丁寧な笑顔を向ける。彼女にとっては、昨日久我を不快にさせてしまった分、せめて自分の仕事だけは全うしようとする必死の振る舞いだった。

だが、それを部屋の奥から見つめる久我の視線は、昨日見た「朔」の残像と、目の前の男たちの卑俗な好意が混ざり合い、沸点に達しようとしていた。

(……昨夜の男だけではない。この村の男たちも、彼女をそのような目で見ているのか)

男の一人が、照れ隠しに桜の肩を軽く叩こうと手を伸ばした、その時だった。

「――そこまでに、していただけませんか」

低く、地を這うような重圧を持った声。

廊下へ姿を現した久我の顔には、柔和な教師の面影など微塵もなかった。

「あ、久我先生……」

「好意は痛み入りますが、彼女は私の『助手』です。……村の祭りに誘うのなら、まずは雇い主である私を通してもらいたい。違いますか?」

一歩、また一歩と久我が庭へ降り立つ。刀を帯びていないにもかかわらず、かつて数多の修羅場を潜り抜けた軍師が放つ殺気に似た威圧感に、男たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

「い、いえ……そんなつもりじゃ……」

「ならば、その岩魚を置いて早々に立ち去られよ。講義の邪魔だ」

氷のような一瞥。男たちが逃げるように去っていくのを、桜は呆然と見守るしかなかった。

「……先生? あの、今の言い方は少し――」

「サクラ君」

久我が振り返る。その瞳の奥には、昨日から溜め込んできた焦燥と、それ以上に「自分でも制御できない感情」に対する苛立ちが宿っていた。

「君は少々、無防備すぎる。……誰にでも、あのように安売りするような笑顔を見せるものではないと言ったはずだ」

「そんな、私はただ、村の皆さんと仲良くしようと……」

「私にとっては、君が誰と仲良くしようと知ったことではない!」

久我は思わず声を荒らげたが、すぐにその言葉を後悔したように視線を逸らした。握りしめられた拳が、微かに震えている。

「ただ……不愉快なんだ。君が私の知らないところで誰かと笑い、私の知らない『何か』と繋がっていると思うだけで……どうにも、計算が狂う」

(……そうだ。この不快感は、戦況が予測から外れた時の焦燥と同じだ)

そう自分に言い聞かせ、彼は逃げるように奥の間へと消えていった。

襖一枚隔てた奥で、久我は一人、荒い呼吸を整えていた。

かつて命も、地位も、名誉も捨てたはずの軍師が、たった一人の「正体不明の娘」に対して抱いた、身勝手で醜い独占欲。

(……私は、何を。これではまるで、嫉妬ではないか)

その答えを認める勇気は、まだない。

しかし、昨日から胸に巣食うドロドロとした熱い塊は、もはや「不愉快」という言葉だけでは、到底押さえつけられないほどに膨れ上がっていた。


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