道標(みちしるべ)の男・朔
深手を負ったはずの傷が跡形もなく消え去ったあの日から、久我の胸中には拭いきれない「不気味さ」が居座っていた。感謝よりも先に湧き上がる、説明のつかない事象への猜疑心。
(あの快復……まるで、誰かが自分の命を分け与えたかのような……)
そんな不吉な推論を振り払うように、久我は寄り合いの帰り道、村外れの川原へと足を向けた。夕闇が降りてくる直前の、世界が青く染まる時間。そこで彼が目にしたのは、洗濯物を抱えた桜と、松の枝に腰掛ける「異質な男」の姿だった。
「やあ。相変わらず、危うい魂だね。今にもこの世界に溶けて消えてしまいそうだ」
朔の虚無を湛えた瞳が桜を覗き込む。
「……また、貴方ですか。朔さん。余計なお世話です、私は納得して使っているんですから。これは私の、最高の『有給』なんです」
「納得、か。でも君の『有給休暇』は着実に減っている。この世界の空気に馴染めば馴染むほど、君を形作っている力は削られていくんだ。……自覚はあるかい?」
桜は、自分の胸元をそっと押さえた。
「……ええ。でも、後悔はしていません。ここに、私の居場所があるって思えるから」
「居場所、ね。あの壊れかけの軍師の隣かい?」
朔はどこか憐れむような色を浮かべて、松の枝から音もなく飛び降りた。
「気をつけなよ。人間は欲深い。君が彼を救えば救うほど、彼は君を『ただの助手』としては見ていられなくなる。独占欲は、時に奇跡よりも残酷だ。……君の命の砂時計が、望む結末まで保つといいけれどね」
その会話を、少し離れた土手の陰で久我は聞いていた。
正確な意味までは掴めない。だが、朔が桜の頬に馴れ馴れしく触れようとした瞬間――久我の指先が、自身の刀の柄を、砕かんばかりに強く握りしめていた。
(……あの男は何者だ。なぜ、あのように親しげに触れる。なぜ君は、それを拒まない)
軍師の心臓が、今は「他者が彼女に触れる」という事実に対する、どす黒く、熱い拒絶感で激しく打ち震えていた。
「朔さん、もう行ってください。先生が……久我先生が、待っていますから」
桜のその言葉に、朔はふいと久我のいる方向へ視線を向け、勝ち誇ったように笑った。
「そうだね。欲深い軍師様が、あんなに怖い顔でこちらを見ている。……じゃあね、社畜さん。次に見る時は、君の指先はもっと『透けて』いるだろうさ」
朔の声が夜の静寂に溶け込むと同時に、彼の姿もまた、夕闇の濃淡の中に混ざり合って失われた。そこにはただ、主を失った風が吹き抜け、桜の髪を小さく揺らした。
桜がその余韻に浸る間もなく、背後の茂みがバキリと低い音を立てた。
「……サクラ君」
背後から響いたのは、いつもの穏やかな、けれど僅かに温度の低い、久我の声だった。
桜は心臓が跳ねるのを通り越し、凍り付いたように振り返った。そこには、夕闇の青を背負い、静かに佇む久我が立っていた。
「せ、先生……。いつから……」
「今、来たところだよ。……少し、冷えてきたね。もう帰ろうか」
久我はそれ以上、何も言わなかった。「あの男は何者だ」「何を話していた」……喉元まで出かかった軍師としての追及を、彼は大人の理性を振り絞って飲み込んだ。もし問うてしまえば、それは自分が彼女の心に踏み込みたいと切望していることを認めることになってしまうからだ。
「あ、……はい。すみません、すぐに……」
桜が慌てて洗濯物の籠を抱え、久我の横に並ぶ。
久我は彼女の足取りに合わせるようにゆっくりと歩き出した。その横顔は穏やかだったが、一度も彼女と目を合わせることはなかった。
(……私は、一体何を苛立っている。彼女は私の所有物でもなければ、自由を縛る権利などないはずだというのに)
「帰ろう」と優しく告げたはずの頭の中では、冷静な軍師としての理性が、必死に自分の感情を「不条理だ」と断罪し続けている。
しかし、隣を歩く桜の柔らかな気配を感じるたびに、朔が彼女の頬に触れようとした瞬間の残像が、どろりとした熱を持って脳裏に焼き付いて離れない。
(あの男は誰だ。なぜ君は、あんな嘘をついてまで私を遠ざける。)
「先生? ……何か、怒って……いらっしゃいますか?」
恐る恐る覗き込んでくる桜。その無垢な瞳すら、今の久我には自分を試しているように見えてしまった。
「……いや。不愉快な虫にでも刺されたかな、と……独り言だよ。気にすることはない。」
そう口にしながら、久我は拳を白くなるほど握りしめていた。
「嫉妬」などという言葉で認めてしまえば、これまでの自分自身が崩れてしまう。だから、彼はそれを「不快な事象」として処理し、必死に自分を抑え込んでいた。
桜は、隣を歩く彼の「静かすぎる優しさ」の奥にある、氷のような硬い違和感に気づいていた。
何か言わなければいけない。そう思うのに、朔との約束や自分の正体を明かすわけにはいかない。言葉を探しては飲み込み、桜はただ、ぎゅっと籠の縁を握りしめた。
寺子屋へと続く夜道。
寄り添って歩く二人の影が、月明かりに長く伸びる。
久我の歩調はいつも通り穏やかだったが、その心の内は、かつてないほどの醜い独占欲で激しく波立っていた。
会話は途絶え、ただ二人の足音だけが夜の静寂に響く。
これほど近くにいるのに、心の距離は昨日よりもずっと遠い。
二人の間に降りた夕闇は、最後まで晴れることはなかった。




