西日に溶ける名もなき熱
ある日の穏やかな午後。
陽と凪が近所の子供たちと遊びに出かけ、寺子屋には久我と桜の二人だけが残されていた。
久我は縁側で古い兵法書の写しを作り、桜はその少し横で、ほつれた子供たちの衣を繕っていた。
カリカリと筆が紙を撫でる音と、衣が擦れる柔らかな音。
時折、遠くで鳥の声が聞こえるだけの、贅沢なほどの静寂。
「……あ」
不意に、桜が小さく声を上げた。
見れば、彼女は指先に針を刺してしまったようで、ぷくりと赤い血の玉が浮いている。
「大丈夫かい?」
久我が思わず手を止め、彼女の側に寄る。
「ええ、大したことありません」と桜は小さく笑い、指を口元へ運ぼうとした。
だが、それより先に、久我が彼女の手首をそっと取っていた。
「見せてごらん。……少し深いようだ」
久我は懐から清潔な手ぬぐいを取り出し、彼女の指先を丁寧に拭った。
節くれだった、けれど温かくて大きな彼の手が、自分の小さな手を包み込んでいる。
桜は、自分の内側が不意に騒がしくなるのを感じ、思わず息を止めた。
久我もまた、無言のまま作業を続けていたが、指先に触れる彼女の肌のあまりの柔らかさに、不意に筆を動かすのとは違う緊張を覚えた。
(……この者は、これほどまでに脆い存在だったか)
戦場で握る刀の柄とも、教え子たちの小さな手とも違う、熱を孕んだ柔らかな感触。
ふわりと漂う、お日様と石鹸が混ざったような彼女特有の匂い。
何百という敵に囲まれた時でさえ味わったことのない、説明のつかない「危うさ」を孕んだ沈黙が、二人の間に流れる。
「……よし。もう大丈夫だ」
久我が顔を上げた瞬間、二人の視線が至近距離でぶつかった。
夕暮れ近い西日が、桜の瞳を琥珀色に染めている。その瞳には、彼への偽りのない、深い敬愛が真っ直ぐに宿っていた。
久我は、その視線から逃げるように、けれどどこか名残惜しそうに手を離した。
胸の奥に、名前の付けられない重たい熱が沈殿していくような感覚。
これまで、身寄りのない彼女を預かる保護者のような、あるいは気さくな同居人のようなつもりで接してきたはずだった。
だが、今この瞬間だけ、彼女が全く「別の何か」として自分の内側に踏み込んできたような気がして、彼は激しく狼狽した。
「……少し、陽に当たってのぼせたようだ。中に入って茶でも淹れてくるよ」
久我はそれだけ言うと、逃げるように立ち上がり、部屋の奥へ向かった。
桜は、自分の指先に残る彼の体温をそっと反対の手で包み込み、遠ざかっていく彼の背中をただ静かに見つめていた。
夕闇が迫る部屋。
久我は台所で冷たい水を一口飲み、自分の内側に生まれた微かな「揺らぎ」を鎮めようとしていた。
知略を尽くす軍師の頭脳を以てしても、今の彼にはまだ、この言いようのない動揺の正体を導き出すことができない。
ただ、明日もその次も、この穏やかな静寂を壊したくないという願いだけが、切実な形を持って彼の中に居座り始めていた。




