夜の帳と静かな決算
寺子屋の夜は静まり返っている。
陽と凪の幼い寝息が規則正しく刻まれる中、桜はふと、隣室から微かな衣の擦れる音を聞き取った。
(……先生?)
そっと襖を開け、廊下の影から覗き込む。そこには、昼間の穏やかな教師の顔を捨て、漆黒の装束に身を包んだ久我の姿があった。彼は人知れず、村に忍び寄る野盗や刺客を闇に紛れて退けている。村の安寧は、元軍師である彼の、血に塗れた「裏の顔」によって支えられていた。
数刻後、深夜。
任務から戻った久我は、自室の床に座り込んだまま微動だにできずにいた。脇腹を深く裂いた斬り傷が熱を持ち、意識を削り取っていく。行灯を灯す気力すら残っておらず、闇の中で肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返すのが精一杯だった。
(……あんなに酷い傷、座ったままじゃ眠れるわけないじゃない)
桜は闇に紛れ、彼が極限の疲労で意識を半分手放すのをじっと待った。
やがて、久我の首が力なく折れ、浅い微睡みに入ったその瞬間。彼女は音もなく忍び寄り、その隣に座った。
(よし。今夜は『有給一日分』。傷を全部治すんじゃなくて、痛みを消して……明日の朝には少し塞がってるくらいに調整、っと……)
彼女の掌が柔らかな淡い光を帯び、久我の傷口へと吸い込まれていく。
(先生の一晩の安眠が、私の一日分。……うん、やっぱり最高の使い道だわ)
鋭かった久我の眉間の皺がふっと解け、強張っていた肩から力が抜ける。彼はそのまま、吸い込まれるように畳の上へと倒れ込み、安らかな寝息を立て始めた。
翌朝。
久我はいつものように、何事もなかったかのような顔で居間に現れた。
だが、その内面は激しい動揺に支配されていた。
(……昨夜の傷は幻だったのか? いや、そんなはずはない。だが、この快復の早さは……明らかに人智を超えている)
久我は、何食わぬ顔で立ち働く桜の背中を、険しい眼差しで見つめた。
自分の身体に起きた「奇跡」。それはあまりに都合が良く、そして不自然だった。
(……あり得ない話だが。もし、この不可解な快復に彼女が関わっているのだとしたら、彼女は一体何者なんだ……?)
かつて凄惨な戦場で、どれほど神仏に祈っても救われなかった命をいくつも見てきた。そんな彼にとって、このような「理由のない救済」は、感謝よりも先に、底知れない恐ろしさを抱かせた。
(あの川原の男と、彼女の笑顔。その裏に、私の知らぬ『何か』が隠されているのは間違いない。彼女は聖女なのか、あるいは私を惑わす妖の類なのか。……だとしたら、なぜ彼女はこれほどまでに献身的なのか)
「先生、おはようございます! 先生、なんだか今朝は顔色がとってもいいみたい!」
「……ああ、おはよう、サクラ君。そうだね、昨夜はよく眠れたせいか、体が軽いようだ」
久我は、喉元まで出かかった疑念を味噌汁と一緒に飲み下した。得体の知れない「不気味さ」を感じつつも、彼女が注いでくれた朝餉の味は、あまりに「人間らしい」安らぎに満ちていて。その温かさが、かえって彼の思考をかき乱した。
一方の桜は、そんな彼の葛藤も露知らず、楽しそうに朝の支度をしている。
彼女は心の中で、自分だけのカレンダーを一枚、静かに破り捨てた。
残り、七十一日。
朝の光に透ける彼女の指先が、わずかに薄くなったことに、久我はまだ気づいていない。




