決別の儀と確かな幸福
日が暮れ、子供たちも寝静まった寺子屋。
川原での朔との遭遇から数時間、桜は行灯の光の下で、押し入れの奥に仕舞った風呂敷をそっと取り出した。中には、あの日着ていた黒いリクルートスーツが眠っている。
指先で触れる、硬い生地の感触。
それは彼女にとって「帰り道」ではなく、すでに「終わった前職」の形見のようなものだった。
(……あと、七十二日、か)
彼女には、自分の命の残高がはっきりと、心臓の鼓動の重みとして感じられていた。あの日、瀕死の久我を救った代償として、八十日の「有給」から一気に八日間が差し引かれた。失血を止め、毒を消し、彼の運命を強引に「生」へと引き戻した代償だ。
(でも、それだけで済んだんだ。安いものだよね)
彼女は、社畜時代に培った冷静さで「リソース」を計上する。もしあのままオフィスで倒れていれば、この八十日は無為に消えていただけ。それを考えれば、こうして「推し」の隣で過ごせる毎日は、彼女にとってこの上ない高給取りの生活だった。
(一日でも長く。……先生がこの先、畳の上で大往生できる未来まで、私の有給が持てばいいんだけど)
ふと、背後から衣の擦れる音がした。桜は反射的に風呂敷を閉じ、いつもの「優秀な助手」の微笑みを貼り付けて振り返る。
「……何を、見ているんだい?」
背後から響いた久我の声。彼はまだ、昼間に川原で見た「あの男」と彼女の姿を脳裏から消せずにいた。
「先生。……夜風は古傷に障りますよ。早くお休みになってください」
「すまない。君が、あまりに静かに……まるで今にも消えてしまいそうな気配で座っているからね。……その手に持っているのは、君の故郷の服かい?」
久我は、桜が大切そうに抱えていた黒いスーツを指差した。
「いいえ。これは……もう『置いてきた』過去の自分です。二度と着ることはありません」
桜は、かつて自分を縛り付けていたスーツを、迷いなく風呂敷に包んだ。今の彼女にとって、この服を脱ぎ捨ててここにいることは、彼女自身の「唯一の望み」なのだ。
「私は、今こうして先生のそばにいられることが、何よりも嬉しいんです。……だから先生、あんまり難しい顔をしないでください。私は、自分のやりたいことを自分で決めて、ここにいるんですから」
悪戯っぽく、けれど真っ直ぐな視線。悲壮な覚悟ではなく「今が一番楽しい」と言わんばかりの晴れやかな笑顔。
久我は、彼女の言葉の裏にある「何かを削っている」ような透明感に胸をざわつかせながらも、その純粋な幸福の色に、それ以上何も言えなくなってしまった。




