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君に一生分の休みを。  作者: 桜庭つむぎ


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12/17

境界に立つ男

寺子屋での暮らしが始まって数ヶ月。桜は、自分が驚くほどこの時代に馴染んでいることに、喜びと同時に微かな恐怖を覚えていた。

(幸せすぎて、たまに息をするのを忘れそうになる……)

ある日の夕暮れ時。村外れの川原で一人洗濯物を取り込んでいた桜の前に、あの男——朔が現れた。

「やあ。相変わらず、その軍師の隣にいる時は、自分が『死人』だということも忘れているような顔だね」

朔は松の枝から音もなく飛び降りると、桜の目前に立った。

「気をつけなよ。この世界に心を奪われ、彼を本物の男として深く欲した瞬間、君をこの場所に留めている『縁』の糸は、ぷつりと切れてしまうかもしれない」

朔は細長い指を伸ばし、桜の頬を撫でるように動かした。指先からは、生きている人間とは到底思えない、氷のような冷たさが伝わってくる。

その時だった。

少し離れた土手の陰で、迎えに来た久我が足を止めていた。

(……何だ、あの男は)

久我の全身に、戦場にいた頃のような鋭い警戒心が走る。

会話の内容までは聞こえない。だが、男の纏う空気が、この世のことわりから外れていることだけは本能が告げていた。

そして何より、その男が親しげに桜の頬に触れ、桜もまた、拒絶することなく悲痛な表情でそれを受け入れている。

久我は思わず、腰に差した竹光の柄を強く握りしめた。

今まで見たことのない、桜の「秘密」の片鱗。

「……君が彼のために『奇跡』を使うたび、砂時計の砂はこぼれ落ちる」

朔が消える直前、ふいと久我のいる方向へ視線を向け、勝ち誇ったように薄く笑った。

一陣の風が吹き抜け、桜が目を細めた瞬間。目の前にいたはずの朔の姿は、掻き消えるように失われていた。

「朔さん……」

川原に一人取り残された桜は、自分の震える両腕を抱きしめていた。

そこへ、久我が音を殺して近づく。

「……サクラ君」

「ひゃっ!? せ、先生……いつからそこに?」

慌てて顔を上げた桜は、動揺を隠しきれていない。

久我は彼女の潤んだ瞳と、先ほどまで「何か」がいた虚空を静かに見つめた。

「今、誰かと話していなかったかい?」

「えっ……い、いえ! 誰もいませんよ。ちょっと、独り言を言ってただけで……あはは、変ですよね」

桜は懸命に誤魔化そうと、無理に明るい声を出す。

久我はそれを追求しなかった。だが、彼の胸の奥には、冷たいおりのような疑念と、正体不明の男に対する激しい拒絶感が刻み込まれた。

(……あの男は何者だ。サクラ君、君は何を隠している……?)

夕闇に溶けていく彼女の背中を見つめながら、久我は、自分が彼女を「ただの居候」以上の存在として強く繋ぎ止めたいと願っていることに、まだ気づかずにいた。

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