境界に立つ男
寺子屋での暮らしが始まって数ヶ月。桜は、自分が驚くほどこの時代に馴染んでいることに、喜びと同時に微かな恐怖を覚えていた。
(幸せすぎて、たまに息をするのを忘れそうになる……)
ある日の夕暮れ時。村外れの川原で一人洗濯物を取り込んでいた桜の前に、あの男——朔が現れた。
「やあ。相変わらず、その軍師の隣にいる時は、自分が『死人』だということも忘れているような顔だね」
朔は松の枝から音もなく飛び降りると、桜の目前に立った。
「気をつけなよ。この世界に心を奪われ、彼を本物の男として深く欲した瞬間、君をこの場所に留めている『縁』の糸は、ぷつりと切れてしまうかもしれない」
朔は細長い指を伸ばし、桜の頬を撫でるように動かした。指先からは、生きている人間とは到底思えない、氷のような冷たさが伝わってくる。
その時だった。
少し離れた土手の陰で、迎えに来た久我が足を止めていた。
(……何だ、あの男は)
久我の全身に、戦場にいた頃のような鋭い警戒心が走る。
会話の内容までは聞こえない。だが、男の纏う空気が、この世の理から外れていることだけは本能が告げていた。
そして何より、その男が親しげに桜の頬に触れ、桜もまた、拒絶することなく悲痛な表情でそれを受け入れている。
久我は思わず、腰に差した竹光の柄を強く握りしめた。
今まで見たことのない、桜の「秘密」の片鱗。
「……君が彼のために『奇跡』を使うたび、砂時計の砂はこぼれ落ちる」
朔が消える直前、ふいと久我のいる方向へ視線を向け、勝ち誇ったように薄く笑った。
一陣の風が吹き抜け、桜が目を細めた瞬間。目の前にいたはずの朔の姿は、掻き消えるように失われていた。
「朔さん……」
川原に一人取り残された桜は、自分の震える両腕を抱きしめていた。
そこへ、久我が音を殺して近づく。
「……サクラ君」
「ひゃっ!? せ、先生……いつからそこに?」
慌てて顔を上げた桜は、動揺を隠しきれていない。
久我は彼女の潤んだ瞳と、先ほどまで「何か」がいた虚空を静かに見つめた。
「今、誰かと話していなかったかい?」
「えっ……い、いえ! 誰もいませんよ。ちょっと、独り言を言ってただけで……あはは、変ですよね」
桜は懸命に誤魔化そうと、無理に明るい声を出す。
久我はそれを追求しなかった。だが、彼の胸の奥には、冷たい澱のような疑念と、正体不明の男に対する激しい拒絶感が刻み込まれた。
(……あの男は何者だ。サクラ君、君は何を隠している……?)
夕闇に溶けていく彼女の背中を見つめながら、久我は、自分が彼女を「ただの居候」以上の存在として強く繋ぎ止めたいと願っていることに、まだ気づかずにいた。




