初めての着物と小さな戸惑い
桜は久我から手渡された着物を見つめた。
生成りの木綿に、控えめな花柄が染められた普段着だ。触れると、使い込まれた生地の柔らかさと、どこか懐かしい陽の匂いがした。
「……着替えられるかな?」
久我の声に促され、桜は自室へと戻った。
昨日、あの凄惨な戦場で久我を救い、ここまで歩いてきた黒いスーツをゆっくりと脱ぐ。
現代社会という戦場で自分を守ってきた「戦闘服」だが、この村ではあまりに異質で、鋭利すぎた。泥を払い、丁寧に畳んだジャケットは、彼女がいた世界との唯一の繋がり。それを置いて、手渡された布を纏うことは、彼女にとってこの時代で生きるための本当の第一歩だった。
(えっと、まずはこれ、長襦袢だよね……?)
構造の全く違う衣服に、桜は戸惑っていた。
知識としては知っていても、実際に一人で纏うとなると勝手が違う。なんとか袖を通し、腰紐で固定するが、本命の着物に袖を通すとさらに難易度が上がった。
「う、うーん……あれ? 左が上だっけ? それとも右……?」
合わせを間違えては、縁起が悪い。
必死に格闘していると、最大の難関、帯が立ちはだかった。
「……ぎゃー! これ、どうやって結ぶの!? 結んでも結んでも、ほどけてくる!」
背中で複雑に絡ませ、きつく締め上げようとするが、どうしても綺麗に結べない。腕が攣りそうになり、思わず小さな悲鳴を上げた。
その時、襖の向こうから、久我の落ち着いた声が届いた。
「……サクラ君、困っているようだね」
桜はびくりと肩を震わせた。
恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
「い、いえっ、大丈夫です! もう少しで……多分!」
「そうかい。……しかし、無理をする必要はない。もし手伝いが必要なら、凪を呼んでこようか?」
久我は、わざわざ自分ではなく、幼い凪の名前を挙げた。
彼女が着替えている最中であることを汲み取った、彼なりの紳士的な配慮。扉一枚隔てた向こうにいるにもかかわらず、その適切な距離感が、かえって桜の心に深く染み渡った。
「あ、ありがとうございます……でも、自分でやります! きっと!」
なんとか意地で帯を締め、着付けを終えた頃には、うっすらと汗をかいていた。
しかし、全身を覆う布の柔らかな感触は、ようやく自分がこの世界に、そしてこの平穏な空気の中に受け入れられたような安心感を与えてくれた。
襖を開け、廊下に出る。
縁側に座って書物を読んでいた久我は、桜の姿に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、一瞬だけ、言葉を失ったかのように見開かれた。
あの戦場での凛々しくも異様な「スーツ姿」を脱ぎ捨て、しとやかな村娘のようになった桜の姿。
木綿の裾を揺らし、少しはにかむ彼女の姿は、昨日の雨の中の悲痛な美しさとは打って変わって、春の光のような柔らかな輝きを放っていた。
「……ああ、やはり。よく似合っているよ、サクラ君」
久我は、少し照れくさそうに、しかし真っ直ぐな視線で桜を褒めた。
その言葉に、桜の胸の奥がじんわりと温かくなる。
この世界で、ようやく「伊藤桜」という一人の人間として、彼に迎え入れられた気がした。




