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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

去り行くあなたへ…

作者: 羽ステップ
掲載日:2026/02/14

第一章 温度のない言葉

 居酒屋の喧騒は、壊れたラジオのノイズのように耳に障った。

「ちょっと聞いてくれよ。あの上司、ことあるごとに小言を言ってくるんだ」

 私は、琥珀色の液体が揺れるグラスを指でなぞりながら吐き捨てた。

「どんな小言だよ?」

 目の前でBが、いかにも他人事といった風に焼き鳥を頬張っている。

「『あなたの書く文章って、なんだか温度がないのよね。事務的すぎて、読んでて疲れるの』……だとさ。文章が冷たいってなんだよ。仕事だぞ? ポエムを書いてるんじゃねえんだ」


 《《温度がない》》。

 その言葉が、冷めた油のように私の胸にべったりと張り付いて離れない。

 Bは苦笑しながら、ジョッキを置いた。

「いや、まあ……言いたいことは分かるけどさ。お前、たまに本当に業務連絡みたいな文章になるよな。血が通ってないっていうか」

「業務なんだから、業務連絡でいいだろ」

「それをそのまま上司に言うから小言を言われるんだろ」

「言ってねえよ。心の中で思ってるだけだ」

「顔に出てんだよ、たぶん」

「……まじで?」


 私は反射的に自分の頬に手を当てた。無機質な、乾いた肌の感触。

 Bは追い打ちをかけるように、ニヤニヤと笑いながら言った。

「お前に彼女の一人でもいたら、俺がこんな愚痴を聞く必要もなくなるんだけどな」

「……お前、わざと言ってるだろ。俺はお前が、俺の彼女を寝取ったこと、一度も忘れてないからな」

「はー。モテる男もつらいんだよ。あと『寝取る』って言い方は良くないな。お前の彼女から迫ってきたんだからさ」


 殺意に近い苛立ちが、胃の底からせり上がってくる。

 だが、その怒りさえも、どこか遠い場所で起きている出来事のように感じられた。

「お前いつか絶対しばく」

 会話は酒席の騒音に溶けていく。私はBに会計を押し付け、逃げるように店を出た。


第二章 記憶を喰うポスト

 夜の空気は冷たく、肺の奥まで白く染めるようだった。

 最近のブームである「通ったことのない道」を選び、住宅街の裏路地を抜ける。

 ふと、視界が開けた。

 そこは、地図にも載っていないような、小さな公園だった。


 公園の中央に、それは立っていた。

 街灯の薄明かりに照らされた、一台の**《《ポスト》》**。

 周囲には住宅もなければ、人影もない。ただ、ポストの横には古びて塗装の剥げたベンチがあり、その上には白い紙の束とペンが、あつらえたように置かれていた。


「……なんで、こんなところに」

 近寄ってみると、ポストの側面に一枚の張り紙があった。


『このポストは、手紙に書いた記憶をきれいに消せます。ただし手紙なので、その記憶に関わる人の名前が必要です。消したいほどの相手宛てでも構わないなら、自由に使ってください。紙とペンはポストにあります。書いたら二つ折りにして投函してください』


「疑似的な記憶喪失……か?」

 私は鼻で笑った。あまりに馬鹿げている。

 だが、指先は吸い寄せられるように、ベンチの上のペンを掴んでいた。

 もし本当に忘れられるなら、その方が楽だ。あいつらのことなど、私の人生には不要だ。


 私は紙にペンを走らせた。

『言い方がきつくて普通に不愉快でした』

 ついでに、失敗した記憶も消してしまおう。

『遅刻した時のことも忘れたい』

 宛先が必要だ。上司の苗字は、確か……田中たなかで合っていただろうか。


 二つ折りにした紙を、ポストの口に差し込む。

 コトン、と小さな音がした。

 しばらく待っていると、闇の奥から人影が現れた。回収員だろうか。

「すみませ~ん。このポスト、あなたのですか?」

 Cと呼ばれたその人物は、私の問いを無視し、無言で手紙を回収した。

「それ、ちゃんと届くんですか?」

 Cはただ私の方を振り返り、深く被った帽子の陰で軽く会釈をして去っていった。

 急に冷え込んできた。私は首をすくめ、足早に公園を後にした。


第三章 欠落の心地よさ

 翌日、再びBと向かい合っていた。

「お、昨日ぶり。二日連続で誘うなんて珍しいな。ハイボールでいいよな?」

「サンキュー。いや、それがさ、急に上司が謝ってきてさ」

 私は不思議な高揚感の中にいた。

「『言い方きつくてごめんね』って。あと、遅刻のこともとやかく言わないって。……まあ、俺は一度も遅刻なんてしてないと思うんだけどな」

「…………お前、今月だけで何回遅刻したと思ってんだ?」

「皆勤賞だろ」

「もう黙って家に引きこもれよ」

 Bの呆れ顔を見ても、何も感じない。

 ただ、胸の奥が妙にスッキリしている。昨日まであったドロドロした重荷が、綺麗さっぱり消えているのだ。


「……でもさ」

「ん?」

「昨日、めちゃくちゃイライラしてた気がするのに、今は何だか清々しいんだ。朝起きたら、全部どうでもよくなっててさ」

「昨日愚痴ってたからだろ。変な奴だな」


 話している最中、奇妙な違和感が脳をかすめた。

 ……待てよ。私は昨日、どうやって帰った?

「……いや。ちょっと待って」

「なんだよ」

 私は席を立った。確認しなければならないことがある。

「悪い、B。ちょっと確かめてくる」

「おい、まだ飲むんだろ?」

 Bの呼びかけを背に、私は店を飛び出した。


第四章 再訪、そして上書き

 肩で息をしながら、あの公園に辿り着いた。

 あった。ポストも、紙も、そのままだ。

 私は張り紙を凝視する。

「俺の記憶が……本当に消えたのか?」

 だとしたら、これは魔法の箱だ。忌々しい記憶をすべてこの赤い箱に放り込めば、私は完璧な幸福を手に入れられる。


 ふと、Bの顔が浮かんだ。

 あいつは親友の顔をして、私の女を奪った。今も平然と隣で飲んでいる。

 あいつとの「最悪の記憶」も、このポストなら消してくれるだろうか。

 私は再びペンを取った。

『俺たち、出会いは最悪だったと思うけど、今じゃいい友達だよな。あと支払いは頼んだぞ』

 宛名を書く。あいつの名前は、ええと、佐藤さとう……だったか。


 投函した瞬間、再びCが現れた。

「あの、このポストっていつからあるんですか? 昨日も会いましたよね」

「……今回で二回目、であっていたでしょうか?」

 Cの声は、感情の起伏がまったくない機械的なものだった。

「その手紙、どこへ届けるんですか? 誰宛てに書いたか、もう忘れちゃって」

 Cは何も答えず、闇の中に消えていった。

 いい。忘れてもいいのだ。そのために書いたのだから。


第五章 去り行く「私」へ

 数日後。私は当てもなく街を歩いていた。

 空っぽの頭は、驚くほど軽い。嫌なことは何一つ思い出せない。

「……やっと見つけた!」

 背後から声をかけられた。見知らぬ男だ。派手なシャツを着て、必死な形相をしている。

「お前、なんで俺を避けるんだよ。浮気のことなら謝るって。また飲もうぜ」

「……? どなたですか」

「何言ってんだよ! 海にナンパしに行ったことも忘れたのか?」

「……人違いじゃないですか? もう近寄らないでください」

 私は男を振り切り、逃げ出した。

 最近、こういうことが多い。知らない人間が、親しげに、あるいは恨みがましく話しかけてくる。だが、私の記憶のどこを探しても、彼らの居場所はない。


 気づけば、あの公園にいた。

 私は震える手でペンを握った。あの男のことも、この不気味な違和感も、すべて消してしまいたい。

『今後、俺に関わるな。それと、俺のことなんて忘れて生きろ』

 宛先。……宛先がわからない。あの男の名前は何だ?

 まあいい。出してしまえば、ポストが解決してくれる。


 現れたCに、私は問いかけた。

「相手の名前を書かずに出したら、どうなるんですか?」

「手紙ですので、《差出人》に返却されます」

 Cから手渡されたのは、今しがた投函したはずの自分の手紙だった。


 その紙に触れた瞬間、脳内で何かが砕ける音がした。

「……あれ? 俺……何をしてたんだ?」

 自分がなぜここにいるのか。自分が誰なのか。

 手紙が「返却」されたことで、私の存在そのものを構成していた最後の記憶の糸が、ぷつりと切れた。

「あの、すいません! 俺のこと、何か知りませんか!」

「私はただ、手紙を回収して、届けるだけですので」

 Cは事務的に、淀みのない動作で一通の手紙を書き、それを私に差し出した。

「去り行くあなたへ、こちらを」


 私はその場に崩れ落ちた。

 渡された手紙を開く。そこには、何も書かれていなかった。

 あるいは、書かれていたとしても、今の私にはそれを「言葉」として認識する術がない。


 私は立ち上がり、魂の抜けた人形のように歩き出す。

 自分がどこへ行くのかも、かつて誰を愛し、誰を憎んでいたのかも、もうわからない。

 背後では、ただ赤いポストが、次の「忘却」を待って静かに佇んでいた。


 辺りには、音一つなかった。


(終わり)

指摘や感想など書いてくれると嬉しいです。

全てに目を通します。

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