去り行くあなたへ…
第一章 温度のない言葉
居酒屋の喧騒は、壊れたラジオのノイズのように耳に障った。
「ちょっと聞いてくれよ。あの上司、ことあるごとに小言を言ってくるんだ」
私は、琥珀色の液体が揺れるグラスを指でなぞりながら吐き捨てた。
「どんな小言だよ?」
目の前でBが、いかにも他人事といった風に焼き鳥を頬張っている。
「『あなたの書く文章って、なんだか温度がないのよね。事務的すぎて、読んでて疲れるの』……だとさ。文章が冷たいってなんだよ。仕事だぞ? ポエムを書いてるんじゃねえんだ」
《《温度がない》》。
その言葉が、冷めた油のように私の胸にべったりと張り付いて離れない。
Bは苦笑しながら、ジョッキを置いた。
「いや、まあ……言いたいことは分かるけどさ。お前、たまに本当に業務連絡みたいな文章になるよな。血が通ってないっていうか」
「業務なんだから、業務連絡でいいだろ」
「それをそのまま上司に言うから小言を言われるんだろ」
「言ってねえよ。心の中で思ってるだけだ」
「顔に出てんだよ、たぶん」
「……まじで?」
私は反射的に自分の頬に手を当てた。無機質な、乾いた肌の感触。
Bは追い打ちをかけるように、ニヤニヤと笑いながら言った。
「お前に彼女の一人でもいたら、俺がこんな愚痴を聞く必要もなくなるんだけどな」
「……お前、わざと言ってるだろ。俺はお前が、俺の彼女を寝取ったこと、一度も忘れてないからな」
「はー。モテる男もつらいんだよ。あと『寝取る』って言い方は良くないな。お前の彼女から迫ってきたんだからさ」
殺意に近い苛立ちが、胃の底からせり上がってくる。
だが、その怒りさえも、どこか遠い場所で起きている出来事のように感じられた。
「お前いつか絶対しばく」
会話は酒席の騒音に溶けていく。私はBに会計を押し付け、逃げるように店を出た。
第二章 記憶を喰うポスト
夜の空気は冷たく、肺の奥まで白く染めるようだった。
最近のブームである「通ったことのない道」を選び、住宅街の裏路地を抜ける。
ふと、視界が開けた。
そこは、地図にも載っていないような、小さな公園だった。
公園の中央に、それは立っていた。
街灯の薄明かりに照らされた、一台の**《《ポスト》》**。
周囲には住宅もなければ、人影もない。ただ、ポストの横には古びて塗装の剥げたベンチがあり、その上には白い紙の束とペンが、あつらえたように置かれていた。
「……なんで、こんなところに」
近寄ってみると、ポストの側面に一枚の張り紙があった。
『このポストは、手紙に書いた記憶をきれいに消せます。ただし手紙なので、その記憶に関わる人の名前が必要です。消したいほどの相手宛てでも構わないなら、自由に使ってください。紙とペンはポストにあります。書いたら二つ折りにして投函してください』
「疑似的な記憶喪失……か?」
私は鼻で笑った。あまりに馬鹿げている。
だが、指先は吸い寄せられるように、ベンチの上のペンを掴んでいた。
もし本当に忘れられるなら、その方が楽だ。あいつらのことなど、私の人生には不要だ。
私は紙にペンを走らせた。
『言い方がきつくて普通に不愉快でした』
ついでに、失敗した記憶も消してしまおう。
『遅刻した時のことも忘れたい』
宛先が必要だ。上司の苗字は、確か……田中で合っていただろうか。
二つ折りにした紙を、ポストの口に差し込む。
コトン、と小さな音がした。
しばらく待っていると、闇の奥から人影が現れた。回収員だろうか。
「すみませ~ん。このポスト、あなたのですか?」
Cと呼ばれたその人物は、私の問いを無視し、無言で手紙を回収した。
「それ、ちゃんと届くんですか?」
Cはただ私の方を振り返り、深く被った帽子の陰で軽く会釈をして去っていった。
急に冷え込んできた。私は首をすくめ、足早に公園を後にした。
第三章 欠落の心地よさ
翌日、再びBと向かい合っていた。
「お、昨日ぶり。二日連続で誘うなんて珍しいな。ハイボールでいいよな?」
「サンキュー。いや、それがさ、急に上司が謝ってきてさ」
私は不思議な高揚感の中にいた。
「『言い方きつくてごめんね』って。あと、遅刻のこともとやかく言わないって。……まあ、俺は一度も遅刻なんてしてないと思うんだけどな」
「…………お前、今月だけで何回遅刻したと思ってんだ?」
「皆勤賞だろ」
「もう黙って家に引きこもれよ」
Bの呆れ顔を見ても、何も感じない。
ただ、胸の奥が妙にスッキリしている。昨日まであったドロドロした重荷が、綺麗さっぱり消えているのだ。
「……でもさ」
「ん?」
「昨日、めちゃくちゃイライラしてた気がするのに、今は何だか清々しいんだ。朝起きたら、全部どうでもよくなっててさ」
「昨日愚痴ってたからだろ。変な奴だな」
話している最中、奇妙な違和感が脳をかすめた。
……待てよ。私は昨日、どうやって帰った?
「……いや。ちょっと待って」
「なんだよ」
私は席を立った。確認しなければならないことがある。
「悪い、B。ちょっと確かめてくる」
「おい、まだ飲むんだろ?」
Bの呼びかけを背に、私は店を飛び出した。
第四章 再訪、そして上書き
肩で息をしながら、あの公園に辿り着いた。
あった。ポストも、紙も、そのままだ。
私は張り紙を凝視する。
「俺の記憶が……本当に消えたのか?」
だとしたら、これは魔法の箱だ。忌々しい記憶をすべてこの赤い箱に放り込めば、私は完璧な幸福を手に入れられる。
ふと、Bの顔が浮かんだ。
あいつは親友の顔をして、私の女を奪った。今も平然と隣で飲んでいる。
あいつとの「最悪の記憶」も、このポストなら消してくれるだろうか。
私は再びペンを取った。
『俺たち、出会いは最悪だったと思うけど、今じゃいい友達だよな。あと支払いは頼んだぞ』
宛名を書く。あいつの名前は、ええと、佐藤……だったか。
投函した瞬間、再びCが現れた。
「あの、このポストっていつからあるんですか? 昨日も会いましたよね」
「……今回で二回目、であっていたでしょうか?」
Cの声は、感情の起伏がまったくない機械的なものだった。
「その手紙、どこへ届けるんですか? 誰宛てに書いたか、もう忘れちゃって」
Cは何も答えず、闇の中に消えていった。
いい。忘れてもいいのだ。そのために書いたのだから。
第五章 去り行く「私」へ
数日後。私は当てもなく街を歩いていた。
空っぽの頭は、驚くほど軽い。嫌なことは何一つ思い出せない。
「……やっと見つけた!」
背後から声をかけられた。見知らぬ男だ。派手なシャツを着て、必死な形相をしている。
「お前、なんで俺を避けるんだよ。浮気のことなら謝るって。また飲もうぜ」
「……? どなたですか」
「何言ってんだよ! 海にナンパしに行ったことも忘れたのか?」
「……人違いじゃないですか? もう近寄らないでください」
私は男を振り切り、逃げ出した。
最近、こういうことが多い。知らない人間が、親しげに、あるいは恨みがましく話しかけてくる。だが、私の記憶のどこを探しても、彼らの居場所はない。
気づけば、あの公園にいた。
私は震える手でペンを握った。あの男のことも、この不気味な違和感も、すべて消してしまいたい。
『今後、俺に関わるな。それと、俺のことなんて忘れて生きろ』
宛先。……宛先がわからない。あの男の名前は何だ?
まあいい。出してしまえば、ポストが解決してくれる。
現れたCに、私は問いかけた。
「相手の名前を書かずに出したら、どうなるんですか?」
「手紙ですので、《差出人》に返却されます」
Cから手渡されたのは、今しがた投函したはずの自分の手紙だった。
その紙に触れた瞬間、脳内で何かが砕ける音がした。
「……あれ? 俺……何をしてたんだ?」
自分がなぜここにいるのか。自分が誰なのか。
手紙が「返却」されたことで、私の存在そのものを構成していた最後の記憶の糸が、ぷつりと切れた。
「あの、すいません! 俺のこと、何か知りませんか!」
「私はただ、手紙を回収して、届けるだけですので」
Cは事務的に、淀みのない動作で一通の手紙を書き、それを私に差し出した。
「去り行くあなたへ、こちらを」
私はその場に崩れ落ちた。
渡された手紙を開く。そこには、何も書かれていなかった。
あるいは、書かれていたとしても、今の私にはそれを「言葉」として認識する術がない。
私は立ち上がり、魂の抜けた人形のように歩き出す。
自分がどこへ行くのかも、かつて誰を愛し、誰を憎んでいたのかも、もうわからない。
背後では、ただ赤いポストが、次の「忘却」を待って静かに佇んでいた。
辺りには、音一つなかった。
(終わり)
指摘や感想など書いてくれると嬉しいです。
全てに目を通します。




