表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

君に届け、この唄

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/01/29


その日、世界は水底に沈んだように薄暗く、ひどい雨だった。


 駅前の純喫茶『琥珀』の重いドアを押し開けると、カランコロンと間の抜けたベルが鳴り、焙煎された豆の苦い香りと、湿ったアスファルトの匂いが混じり合った空気が鼻腔をついた。

 眼鏡が瞬く間に白く曇る。俺はタオルで乱暴に頭を拭きながら、視界の隅で、店の最奥にある席を探した。


 そこに彼女はいた。

 窓際の席で、冷めかけたミルクティーのカップを両手で包み込み、小動物のように縮こまっている。

 時計を見る。待ち合わせ時刻から、既に三十分が経過していた。最悪だ。俺の人生はいつもこうだ。肝心な時にリズムが狂う。


「……ごめん!」


 息を切らして頭を下げると、彼女はゆっくりと顔を上げた。少し怒っているようにも、呆れているようにも見える瞳。だが、俺の濡れそぼった惨めな姿を見ると、ふっと力が抜けたように息を吐いた。


「もう来ないかと思った」

「来るよ。這ってでも」

「ふふ、なにそれ。大げさ」


 俺たちはまだ、恋人同士じゃなかった。

 ただの同級生。時々おすすめのCDを貸し借りして、たまにこうして茶を飲むだけの、名前のつかない関係。

 けれど、俺の肋骨の内側では、壊れかけのメトロノームみたいに心臓が狂ったビートを刻み続けていた。今日こそ言わなきゃいけない。ズボンのポケットの中で、昨日の夜に何度も書き直してはくしゃくしゃにした手紙の残骸が、幻のように指先に触れる気がした。


 俺はホットコーヒーを注文し、届くや否や一口飲んだ。熱湯のような熱さが喉を焼き、少しだけ冷静になれた気がした。

 その熱さを誤魔化すように、俺は勢いよく口を開く。


「あのさ、笑わないで聞いてほしいんだけど」


 前置きをした瞬間、彼女が吹き出した。店内の静寂を裂くような、明るい音色だった。


「なにそれ。そんな深刻な顔して言うこと? もう笑っちゃうよ」

「だ、だよな……。いや、でも真面目な話なんだ」


 俺は深呼吸をした。肺の中の空気をすべて入れ替えるように。

 好きだ、とか、愛してる、なんて言葉は、銀幕の中の二枚目俳優が言うから様になるのであって、俺みたいな冴えない男が口にすると、どうにも台本を棒読みしているような嘘くささが漂う。

 でも、それ以外の言葉が、俺の辞書には載っていなかった。


「俺、君のことが……めちゃくちゃ好きなんだ」


 言った瞬間、店内のジャズがやけに大きく聞こえた。

 彼女は目を丸くして、時が止まったように固まった。それから視線をゆっくりと手元のカップに落とす。長い沈黙。窓を叩く雨音が、ドラムロールのように俺の焦燥感を煽る。

 振られるなら早くしてくれ、と神に祈りかけたその時。


「……私も」


 雨音にかき消されそうな、蚊の鳴くような声だった。


「え?」

「聞こえないなら、もう言わない」

「頼む、もう一回」

「……私も、バカみたいに待ってたの。あんたがそう言ってくれるのを」


 顔を上げた彼女の目じりが、夕焼けのように赤く滲んでいた。

 その瞬間、俺はこの先の人生ですべきことが決まった気がした。

 この不器用で、泣きそうな笑顔を、俺が守らなきゃいけない。何の根拠もない自信だけが、雨上がりの空にかかる虹のように、俺の胸中に広がっていた。



---



 あれから五年。俺たちは都内の狭いアパートで暮らし始めていた。

 「幸せ」という言葉は美しいが、現実はもっとざらついていて、泥臭い。


 俺が目指していた音楽の道は行き詰まり、生活のために就職した小さな編集プロダクションは激務だった。家に帰るのはいつも日付が変わってから。

 ある夜、心身ともにすり減らして帰宅すると、リビングのソファで彼女が眠ってしまっていた。テレビの砂嵐のような音が響く中、テーブルの上にはラップのかかった冷めきった生姜焼きと、二つ並んだ茶碗。


 俺はネクタイを緩めるのも忘れて、その無防備な寝顔を見下ろした。

 彼女の目元に、薄っすらと隈ができている。


 ――君の選んだ道は、俺なんかでよかったのか?


 喉の奥から、苦い塊がせり上がってくる。

 もっと要領がよくて、稼ぎがよくて、毎日早く帰ってきて「おかえり」と優しく抱きしめてくれる男。そんな「正解」の男と一緒になった方が、彼女は幸せだったんじゃないか。

 俺と一緒にいるせいで、彼女という鮮やかな楽曲が、色あせていってしまうんじゃないか。


 そんな不安が澱のように溜まり、ある休日、些細なことで俺たちは衝突した。

 洗面所の使い方が汚いとか、そんなくだらないことが引き金だった。

「いつも迷惑ばかりかけてごめん」と素直に謝ればいいものを、俺は自虐的な言葉のナイフを振り回し、彼女を傷つけた。「俺といない方がいい」「お前のためにならない」なんて、試すような卑怯な言葉を吐いた。


 彼女は怒らなかった。泣きもしなかった。

 ただ、静かに俺の隣に座り、テレビのリモコンを手に取った。

 バラエティ番組の馬鹿げた笑い声が流れる。

 彼女は何事もなかったように「あ、これ見たかったやつ」と笑い、俺の肩に頭を預けてきた。その重みが、俺の強張った心をゆっくりと溶かしていく。


「……重い」

「重くない。あんたが勝手に背負い込んでるだけでしょ、バカ」


 彼女は画面を見つめたまま、独り言のように言った。


「私はね、ドラマに出てくるような立派な奥さんになりたいわけじゃないの。ただ、あんたの隣で、くだらないことで笑って、時々ケンカして、そうやって歳を取りたいだけ。それが私の選んだ人生なの」


 その言葉は、どんな名曲のサビよりも深く、俺の魂を震わせた。

 泣いて、笑って、過ごす日々。

 そんな泥臭い日々すらも愛しいと思えることこそが、俺が生きている意味なんだと、彼女に教えられた夜だった。



---



 気が付けば、季節は早回しのフィルムのようにいくつも巡っていた。


 鏡に映る俺の髪には白いものが混じり、目じりの皺は深くなった。彼女も同じように歳を重ねたが、笑った時の少女のような愛らしさは変わらない。むしろ、年輪を重ねた分だけ、その笑顔は柔らかさを増し、まるで上質な古楽器のような深みが出ていた。


 毎年、桜の季節になると、俺たちは川沿いの道を歩いた。

 付き合い始めた頃から続く、二人だけの小さな儀式。同じ古びたベンチに座って、同じ構図で写真を撮る。アルバムには何十枚もの「同じ景色」が並んでいて、けれど二人の顔だけが少しずつ変わっていく。


 俺はそのアルバムを時々眺めては、くすぐったいような、それでいて胸が締め付けられるような切なさを感じた。

 永遠なんてない。わかっていたはずなのに。


 ――あと何回、一緒にこの桜を見られるだろう。


 そんなことを考え始めたのは、いつからだったか。

 その予感は、残酷なほど正確に的中した。


 秋の終わり、彼女がよく咳をするようになった。

 最初はただの風邪だと思っていた。でも、痩せていく頬、食欲の落ちた食卓、そして病院から届いた一通の無機質な封筒が、俺たちの穏やかな日常に決定的な亀裂を入れた。


 医者の説明を聞きながら、俺はテーブルの下で彼女の手を強く握っていた。

 握り返す力が、前より弱くなっていることに気付いて、俺は唇を噛んだ。血の味がした。


「大丈夫だよ」


 帰り道、木枯らしが吹く中で彼女が言った。


「怖くないの?」

「怖いよ。でも、あんたがそんな泣き出しそうな顔してる方が怖い」


 彼女は痩せた指で俺の眉間を突いた。


「ほら、皺。また深くなった」



---



 冬が来た。


 彼女はほとんどベッドの上で過ごすようになった。

 俺は仕事を休み、できるだけ彼女の側にいた。


 窓の外で粉雪が舞う夜、彼女が不意に言った。


「ねえ、覚えてる? 初めて会った日」

「ああ、覚えてるよ」

「あんた、コーヒーこぼしそうで手が震えてた」

「……余計なこと覚えてるな」


 俺は笑った。笑うしかなかった。


「あの日、雨だったね」

「ひどい雨だった」

「でも、あんたが来てくれて、雨なんかどうでもよくなった」


 彼女は窓の外を見つめた。

 白い吐息が、ガラスを曇らせる。


「私、幸せだったよ」


 過去形で言わないでくれ、と叫びたかった。

 でも、喉が詰まって、声が出なかった。


「あんたの隣で、笑ったり泣いたり怒ったり。全部、全部、宝物だった」


 俺は黙って、彼女の手を握った。

 骨ばって、冷たくなりかけているその手を、少しでも温めようと、両手で包み込んだ。


「俺もだよ」


 やっとそれだけ言えた。


「俺の方こそ、ありがとうなんて言葉じゃ足りないくらい、感謝してる。君がいなかったら、俺は空っぽのまま一生を終えてた」


 彼女は微笑んだ。

 あの喫茶店で、告白を受け入れてくれた時と同じ、少し泣きそうな笑顔だった。


「ねえ、約束して」

「なんでも」

「私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べて。ちゃんと笑って」

「……」

「約束」


 俺は頷いた。頷くしかなかった。


 その夜、彼女は俺の手を握ったまま、眠りについた。

 穏やかな顔だった。

 苦しそうな表情はなくて、まるで、ただ長い夢を見ているだけみたいに。


 朝が来た時、握り返す力は、もうなかった。



---



 再び、春が来た。


 俺は一人で、川沿いの道を歩いていた。

 桜が満開だった。花びらが風に舞って、水面に薄紅色の雪のように降り積もっていく。


 あのベンチに座って、俺はアルバムを開いた。

 何十年分もの「同じ景色」。その全部に、彼女の笑顔がある。若い頃の、ちょっと照れたような笑顔。子どもが生まれた年の、疲れているけど誇らしげな笑顔。孫を抱いた年の、仏様のような柔らかな笑顔。


 そして、最後の一枚。

 去年の春、二人で撮った写真。

 彼女はもうだいぶ痩せていたけれど、それでも俺に向けてピースサインをしていた。


「……今年も来たよ」


 誰もいないベンチで、俺は呟いた。

 隣には誰もいない。風が通り抜けていくだけだ。

 でも、不思議と寂しくなかった。


 風が吹いて、桜の花びらが俺の肩に落ちた。まるで、彼女がいつものように軽く頭を預けてきたみたいに、確かな重さを感じた。


 俺はジャケットの内ポケットから、一枚の手紙を取り出した。

 彼女の遺品を整理している時に、鏡台の引き出しの奥から見つけた、俺宛ての手紙。

 封筒には「へたくそな愛を歌ってくれたあなたへ」と書かれていた。


 震える字で、こう綴られていた。



  ――――――――


  あなたへ


  ありがとう、じゃ足りないって、あなたはいつも言ってたね。

  私も同じだよ。言葉なんかじゃ、この気持ちの半分も伝えられない。


  だから言葉にしない。

  私たちの間には、言葉より確かなものがあったでしょう?


  あなたが握ってくれた手の温もり。

  隣で笑ってくれた声。

  喧嘩した後、ぶっきらぼうに淹れてくれたコーヒーの香り。

  全部、私の宝物。


  ねえ、あなた。

  私は先に行くけど、待ってるから。

  急がなくていいよ。絶対に急いで来ちゃだめ。

  ちゃんと生きて、ちゃんと笑って、おじいちゃんになって、声がガラガラになってから会いに来て。


  その時は、また隣に座らせてね。

  あなたの隣が、私の特等席だから。


  愛してる。

  大好きだよ。


  ――――――――



 俺は手紙を胸に当てて、滲む空を見上げた。

 青空に、桜が舞っている。視界が歪んで、世界が光の粒になる。


 声はもう、若い頃みたいに出ない。

 がらがらで、掠れて、きっと誰が聞いても下手くそな雑音だと思うだろう。


 でも、俺は歌う。

 喉が張り裂けてもいい。

 誰にも聞こえなくていい。

 空の上にいる君にだけ届けばいい。


 俺の人生は君に出会うためにあった。

 俺の声は君の名を呼び、君に愛を伝えるためにあった。


 いくつもの夜を越えて、俺たちはここまで来た。

 泣き笑いと、喧嘩と、仲直りと、何気ない日曜日の陽だまりと。

 全部が俺たちが作り上げた、最高のシンフォニーだった。


 だから俺は、歌い続ける。

 この命が終わる日まで。

 君がくれた愛を、君に返すために。


 世界で一番不器用で、世界で一番幸せな、俺だけの愛の唄を。


「……愛してるぞ、ばーか」


 風が吹いた。

 桜の花びらが、一斉に空へ舞い上がっていく。まるで拍手喝采のように。


 俺は笑った。くしゃくしゃの顔で、涙を流しながら笑った。


「待っててくれよ」


 そう呟いて、俺はベンチから立ち上がった。

 まだ歩ける。まだ歌える。まだ、生きていける。

 君との約束がある限り。


 彼女と過ごした日々を胸に抱いて、俺は桜並木を歩き出した。

 一歩、一歩、リズムを刻むように。


 隣には、もう誰もいない。

 でも、俺の右手の掌には、今も君の温もりが残っている。


 これからも、ずっと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ