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第11章 アポイントメント

名も知らぬ相手からの電話が、どこか心の片隅に残ったまま数日が経った。

週末、蒼汰は久しぶりに実家へ足を向け、父が最近覚えたというおでんをゆっくり味わっていた。


「蒼にぃはさ、今の仕事、楽しい?」


妹が珍しく仕事のことを聞いてきた。


「ん? まあ楽しい……というか、忙しいときはあるけど、充実はしてるかな。職場環境も悪くないし」


「そっか。いいなぁ」


その声の奥に、ほんの少し沈んだ色があった。

しかし、蒼汰はその気配に気づかぬまま箸を進めていると、向かいに座っていた母からスリッパで脛を小突かれた。


「雪乃は?社会人生活、どうなんだ」


「社会人生活って……ふわっとしすぎじゃない?」


照れたように笑いながら、雪乃は兄へ軽くツッコミを返した。

その笑いには、聞かれたことへの嬉しさが、ほんの少し混じっていた。


「なんだろう……すごくグローバルって感じ!」


「いや、その説明のほうがざっくりしてるだろ」


「日本企業で働く友達いわく、日本文化ってほんと社風に出るらしいんだよね。上下関係とか礼儀とか派閥とか……。でも私のいる会社は外資だから、国籍も価値観もバラバラ。とりあえず“個人”として扱われてる感じはある」


「いいじゃん。働きやすそう」


「まぁね。ただ、本社がアメリカだから、本社との会議の時差だけは地獄」


「会議、何時からなの?」


母が絶妙なタイミングで会話に割り込み、雪乃に質問を返した。


「日本時間だと、朝の8時とか、逆に夜10時とか。朝は眠いし、夜は一日分の疲れが出てるし……そもそもアポ取りだけでも一苦労なの!」


「雪乃、昔から朝弱かったもんな」


蒼汰も朝が得意なわけではない。

けれど、雪乃はそれ以上に生粋の夜型だった。


「そこも課題。でも、これが社会人一年目の修行なんだって思ってる」


「ええ。でも、無理だけはしないでね!」


母は雪乃の声に深刻さがないと悟ったのか、ふっと表情を緩めた。そして、軽い足取りでキッチンへ向かった。


「お父さん、なんだかもっとおでんが食べたくなっちゃった!おかわり!」


「おっ!50代で成長期か?たくさん食べな!」


話がひと息ついたころ、ダイニングテーブルの上で蒼汰のスマホが震えた。


「あ、ごめん。電話」


そう言い残し、蒼汰は席を立ち、自室へと向かった。


「こんばんは。田尻さんのお電話でお間違いないでしょうか?」


受話口の先から、落ち着いた女性の声が静かに漏れた。


「はい、そうです」


「私、竹山と申します。今、お時間少しよろしいですか?」


「大丈夫です」


「ありがとうございます。まず最初に――謝らせてください」


「え?」


「私、佳澄の友達です。今、田尻さんが使われているその電話番号の前の持ち主の」


「そうだったんですね」


「この前、偶然吉木と久しぶりに会いまして。そこで、あなたが佳澄に連絡を取りたがっていると聞きました」


「……あの方、吉木さんっていうんですね」


「はい。彼、言い方がきつかったり態度が不器用なところがあって……失礼があったと思います。本当にすみません」


「いえ、私も突然のお願いをしてしまって……驚かせてしまったのはこちらのほうです」


「彼は佳澄の元交際相手なのですが、少し未練が残っているようで……。

一方の佳澄は、執着されるのが苦手でして、ずっと距離を置いていました。

SNSもすべてブロックしてしまっているので、行き場がなくなり、電話をしてきたのだと思います」


「……なるほど。色々ご事情があるんですね」


「先日、田尻さんがお話しされていた佳澄宛ての電話の件ですが、もしよろしければ、佳澄と一度お話いただけませんか?

オンラインでも構いませんし、私たちは都内ですので、遠くなければ直接お会いすることもできます」


「ありがとうございます。私も都内在住ですので、ぜひお会いできればと思います」


「では、来週木曜日の19時、東京駅丸の内南口近くの、二の丸ビル5階にある《シナモンロールカフェ》でいかがですか?

あと、できれば、事情を知っている者として私も同席させていただきたいのですが」


「2月13日(木)の19時ですね。同席の件も大丈夫です」


「ありがとうございます。当日、私たちの顔が分からないと思いますので、カフェの入り口に到着されたらお電話いただけますか?」


「承知しました。到着次第、この番号におかけしますね。ではまた」


最初、この知らせに蒼汰は素直に喜んだ。

だが、いつもの癖だ。喜びの余韻は長く続かず、代わりに不安がじわりと胸の奥で膨らみ始める。


――前回の電話から今に至るまでのやり取りすべてが、巧妙な詐欺だったとしたら?

――集合場所に向かったところで、待っているのは一般女性二人ではなく、犯罪集団だったら?


唐突に浮かんだ可能性が、思考を湿らせる。


行くべきなのか。それとも避けるべきか。

雄也に同行を頼むべきか。彼なら前回の柏崎さんの件も知っているから誘いやすい。

しかし、この話が嘘偽りではないのだとしたら、男二人で現れるのは、逆に彼女たちを多少でも怯えさせるだろう。


――安全でいて、かつ互いに負担のない方法はないものか。




蒼汰は部屋を出ると、そのまま階段を軽快に降り、キッチンへ向かう。

冷蔵庫からデザートに取っておいたバスクチーズケーキを必要以上に丁寧に取り出そうとしている妹に声をかけた。


「雪乃、来週木曜日の夜、空いてる?」


「その日は会議もお昼にあるだけで、忙しくないから大丈夫だと思うけど、どうして?」


「知り合いと会うんだけど、少し付き合ってもらえないか?東京駅で」


いつもどこか不器用だった兄が、妹を気遣い、手を差し伸べようとしている。

その変化が嬉しくて、母として誇らしく思う。


「いいじゃない、雪乃。行ってきなさいよ。たまにはお兄ちゃんにご馳走してもらったら?」


「デザートもある?」


「あるある。好きなもの食べていいよ」


「やったー!じゃあ行く!お店とか詳細は、私にチャットで送っておいてね!」


妹が同行すれば相手も安心する。

そして、もし危険な状況になったとしても――運動神経抜群の妹なら、自分より早く逃げ切れるだろう。


完璧だ。完璧すぎる。

蒼汰の表情には静かな満足が浮かんだ。

デザートの代金など、その安心に比べれば取るに足らない。

お読みいただきありがとうございます。

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