第29話 精神迷宮は「月曜日の朝」の匂いがする
悪魔公爵メフィストによって精神世界へ引きずり込まれた俺、アラン・スミシー。
目を覚ますと、そこは見慣れた、しかし決定的に絶望的な場所だった。
薄暗い蛍光灯。
回らない換気扇。
机の上に積み上げられた「至急」「要・再提出」「始末書」の山。
「……旧帝国の補給局、第3課のオフィスだ」
俺は愕然とした。
ここは俺が左遷される前、10年間勤め上げたブラック部署の再現だった。
窓の外は永遠に「雨の降る月曜日の朝」で固定されている。
『ようこそ、アラン君』
背後からねっとりした声がする。
振り返ると、そこには俺を左遷した元上司、汚職将軍(の幻影)が立っていた。
ただし、顔が悪魔のように歪み、手には鞭を持っている。
『さあ、仕事の時間だ。今日のノルマは「銀河全域の領収書整理(手書き)」だ。終わるまで帰さんぞ。……もちろん、残業代は出ない』
「ひぃっ……!」
俺のトラウマスイッチが連打される。
体が勝手にデスクに向かい、ボールペンを握りしめてしまう。
これは夢だ。わかっているのに、社畜としての条件反射が抗えない。
『ククク……どうだ、苦しいだろう? この「終わらない徒労感」こそが、貴様の魂の弱点だ』
天井からメフィストの声が響く。
奴はこの世界を支配し、俺の心を永遠に労働で摩耗させ、廃人にするつもりだ。
「くそっ……負けるか……!」
俺は必死に計算を始めた。
だが、書いても書いても書類が減らない。
電話が鳴る。「クレームです」「納期が遅れてます」「アランさん、ミスってますよ」。
精神が削られていく。
ああ、もう楽になりたい。いっそ思考を停止して、ただの歯車になりたい……。
その時。
俺のポケットの中で、何かが熱く脈動した。
現実世界から持ち込んだスマホだ。
画面が光り、着信を知らせている。
発信者は――『リサイクル・ユニオン(社員一同)』。
『マスター! 聞こえますか!』
パンドラの声だ。
『しっかりして! そこはただの幻影よ! 貴方はもう、帝国の社畜じゃないわ!』
『社長! 目を覚ませ! あんたは「CEO」だぞ!』
ガルドの怒鳴り声。
『アラン様……! 今日の夕食はハンバーグですよぉ! 帰ってきてください!』
リズの泣き声。
……そうだ。
俺はもう、誰かに使われるだけの歯車じゃない。
俺には、帰るべき場所と、守るべき社員がいるんだ。
「……ふっ」
俺はペンを置いた。
『何をしている? 手お休めるな!』
上司(悪魔)が鞭を振り上げる。
俺は立ち上がり、その鞭を素手で掴み取った。
「……黙れ」
『なっ!?』
「俺はアラン・スミシー。……リサイクル・ユニオンの最高経営責任者だ!!」
俺は叫んだ。
その瞬間、俺の体から金色のオーラが噴き出した。
それは「社畜の怨念」ではなく、「経営者の覇気(と、溜まりに溜まった有給休暇への執念)」だった。
「貴様の作ったこのブラック企業ルール……俺が『経営改革』してやる!」
俺は指を鳴らした。
現実世界で培った「事務処理スキル・覚醒版」の発動だ。
「スキル発動! 【業務効率化】!」
バシュウウウウ!!
山積みの書類が、光の速さで自動分類され、デジタル化されていく。
鳴り止まない電話は、自動音声ガイダンス(AIヴィクトリアの声)に切り替わり、クレーマーを撃退する。
薄暗いオフィスは、観葉植物が置かれた明るいフリーアドレス空間へと変貌した。
『ば、バカな!? 私の精神世界が……書き換えられていく!?』
メフィストが狼狽する。
「次はこれだ! 【福利厚生】!」
俺が叫ぶと、窓の外の「雨の月曜日」が割れ、眩しい「金曜日の夕日」が差し込んだ。
上司(悪魔)は「ま、眩しい! 定時の光が!」と悲鳴を上げて消滅した。
「とどめだ! ……【特別ボーナス支給】!!」
俺の手から放たれたのは、札束……ではなく、純粋な「感謝と報酬」のエネルギー弾。
それが天井のメフィストを直撃した。
『ギャアアアアア! こんな……こんなホワイトな波動……受け止めきれんんん!!』
悪魔公爵は、過剰なポジティブ・エネルギー(ホワイト企業の輝き)に耐えきれず、爆発四散した。
――パリンッ!
世界の殻が砕ける音がした。
***
気がつくと、俺は現実世界の執務室の床で目を覚ました。
周りには心配そうな顔をしたパンドラ、リズ、カトレアたちがいる。
「マスター!」
パンドラが抱きついてくる。
「……戻ったか」
俺は起き上がり、頭を振った。
ひどい夢だったが、妙にスッキリしている。
長年のトラウマを、自力で克服した気分だ。
「アラン様、悪魔公爵の反応、消滅しました! ……精神世界で勝ったんですね?」
リズが涙目で聞いてくる。
「ああ。……あいつの経営手腕(ブラック体質)は古すぎたよ。これからは『働き方改革』の時代だ」
俺はニヤリと笑った。
これで精神面での脅威も去った(あるいは克服した)。
俺たちは強くなった。物理的にも、精神的にも。
「さあ、仕事に戻るぞ。……でもその前に、今日は全員で『定時退社』して、飲みに行くか!」
「「「おおーっ!!」」」
リサイクル・ユニオンの士気は最高潮に達した。
だが、そんな俺たちの祝杯を邪魔するように、銀河の彼方から、ヴォイド・イーターの最大攻勢が始まろうとしていた。
第4部もいよいよ後半戦。銀河の命運をかけた消耗戦が始まる。




