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1話 スローライフしたい男

 




 最初に森の中でのんびりとスローライフ生活をしたいと思うようになったのはいつだったろうか。

 最近このことで頭がいっぱいだった。

 透き通るようにきれいな川が近場にある木でできたウッドハウス。

 木の温もりを感じながら川のせせらぎを堪能し、1人読書を嗜む。

 夜は満天の星空の下でハンモックに腰を据えて、ワインを飲む。

 こういう生活を憧れていたのはいつの頃だったろう。

 小学生の頃だったけ、中学の頃だっけ、

 それとも…


「おい!!」


 耳元で叫ばれた怒号に俺は取れたての魚のように、体をビクつかせて、目を見開いた。

 寝起きだったせいか眠気なまこのままに辺りを見回すが、瞬時に自分が今どういう位置にいるのかを理解し、直ぐに意識を覚醒した。

 目をこすり、ぼやけていた視界の解像度が鮮明に見えてきた。

 目の前にいるのは激しい剣幕を見せている同僚の姿だ。


「柊、お前今日までに出す資料は完成してるよな!!」


 先程アラーム音よりも激しい覚まし方を実行した高島が、鋭い口調で俺に詰め掛けてくる。

 普段温厚な高島がこんな口調をしているのが珍しいので、社内全体が少しピリピリとした空気感となっている。

 課長も不在の今日は高島が一番偉い立場なのだ、誰も逆らう気もしないだろう。

 まあ悪いのは俺なんだから庇うも何もないか。


「すみません、まだ未完成です」

「はぁ!? 何様で言ってるつもりやねん!! このプレゼン紙、明日戸尾が使うねんで。どうしろっちゅうんや!!」


 怒ると関西弁になるんだったな。

 新卒の初めての飲み会以来に高島の関西弁を聞いた。

 酔った勢いで上司や課長などの悪口を赤裸々にした俺に対してあの時初めて関西弁で怒られた。

 あの時は、今後悪口言わないようにと愛ある叱りだったが、今回はどうだろうか。

 ぶっきらぼうな態度に怒りを表したのか、デスクに置いてある白紙の紙を手でバンッと叩きつけ、ヒートアップしていった。

 俺に対する圧と勢いが凄いためか、流石に他社員も止めに行こうとする。

 これはさすがに反省すべき内容だ。

 椅子に座っていたのを立ち上がり、深々と頭を下げた。


「本当にすみませんでした。」

「いや、お前の反省なんか聞きたくないんやが。」


 暫時お辞儀の体制のまま考え、「今日の夜までに必ず提出します。」と返した。


「チッ、絶対やからな。」


 腕を組みながら自身の椅子に座り、やっと納得してくれた模様。

 勢いのまま殴られるのを覚悟していた身としては殴られなくてホッとはした。が、再び椅子に着席し、改めて自分の失敗を猛省し、過去の自分を呪った。



 気付いたころから人よりも劣っていることは分かっていた。

 環境、親、学力、運動能力。全てにおいて俺は他人より下だった。

 小中高、誰よりも一番マラソンが遅かったのは俺だ。

 唯一の取柄であった勉強も、高校に通うと範囲の広さに絶望し、記憶力が低かった俺は勉強からも逃げた。

 そこからは、いや最初からだな。俺は何も変わろうとしなかった。

 そのくせ誰よりも負けず嫌いな性格だった。

 だが誰よりも努力しない自分の愚かさを毎日見るや否や吐き気がしそうになる。

 この書類も、徹夜で頑張っていたら今日こんなに怒られることもなかったのに。

 画面が付いていないパソコンが鏡となり、自身の顔が映る。

 そこに映っているのはただの顔だったが、今にとってはどんなに醜いものか。

 何も成し得ていない、誰の役にも立ったことのないゴミクズの顔。

 涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えた。



 あれから同僚と後輩たちの助けの甲斐あってか、何とか終電までには終わらせることができた。

 無我夢中でやっていたため体調管理が儘ならなかった。

 おかげさまで電車内にいた時には脱水症状で死にかけた。

 座席に座りほっと力を抜くと急に頭が痛くなり、そう言えば今日って水飲んでなくてとふと気が付く。

 そこからは電車の些細な揺れでも頭が揺れれば頭痛が酷くなり、終盤は意識も朦朧とし始めてたかもしれない。

 乗車時間は20分弱程度だったが、体感では1時間は感じた。

 今はこう先程までの出来事をコーラ片手に思い返すほどまでには回復した。

 しかしまだ頭痛は継続中。どこでもいいから早く寝たい。


「あっ、」


 それはいつもとは違う道で帰ろうとした時だった。

 心が荒んでいるから灯火が少ない方向へ行きたい。

 今日は家に帰りたくないと謎の言い訳をして、まだ住み慣れていないこの土地の未開の地へと足を運ぶ。

 木が生えているだけの公園だった。

 俺が目撃したのは、

 黒いトランクが公園の微かな光に照らされ俺は疲れている目を擦った。

 今晩はここで少し寝ようかなと考えていた。

 しかし目を離す瞬間、衝撃的な光景を目の当たりにした。

 靴が擦れる音、女の人の微かな叫び声、複数で羽交い絞めにしている光景。

 あっ…… ダメなやつだ。

 仕事ではつかえない自分の危機管理能力が遺憾なくここで発揮され、急いで忍び足でここから離れようとする。

 幸いにも現在事件が起こっている場所は、公園の対面だ。

 30メートルはあるだろう。男たちはまだ気づいてない。

 ここで… ここで逃げなければ。


「あれ? ……なんだ、この気持ち。」


 何故か、足が止まった。

 恐怖で足が竦んだというわけではない。

 分からないがあまり緊張感は持っていなかった。

 自分が惨めに思えてきた。

 ここで逃げたら恥だと思った。

『こんな人生、あってもいらないだろ』

 いつもこの場面で逃げていた自身の心にある一言が染みる。


 ずっと底辺職で、出世も出来ず、友達も出来ず、惨めに死ぬのなら。

 ここであの子を救って、ヒーローとして死ねたなら。

 それは、大層、本望かもしれない。


 体が動いた。

 心ではない。体が勝手に半グレらしき人物の前に動いていた。

 そしてすかさず声を上げる。


「このクソ野郎がぁぁあああ!!!」


 このクソ野郎は誰に向かって投げたかは分からない。

 もしかしたら同僚の高島に向かってクソ野郎と言っていたのかもしれない。

 だが、クソ野郎と言う言葉はこの場面では完璧な常套句だった。


「はぁ!? や、やばい」


 怖いもの知れずだと思っていたが、案外第三者が参入するとこいつら半グレでも少しは驚くんだな。

 その行動を転機と見た俺は車で紐を付けられていた女性を引っ張り出した。

 顔なんて見る余裕すらない、ただ若い女性だけなのは分かった。


「逃げろぉぉおおお!!」


 俺の必死の叫びの甲斐あってか、女の子は外に放り投げだされた瞬間、裸足のまま逃げて行った。

 手と足に縄を縛られる前だったからちゃんと逃げれている。

 ホッとしたのも束の間、激しいパンチが俺に襲われる。

 一瞬で意識を失いそうになるが最後の果たしを務めるために何とか踏ん張る。

 やはりだ。

 半グレ3人衆のうちの2人が女の子めがけて走りに行こうとしている。

 あの距離じゃすぐに捕まってしまう。

 そしたら水の泡だ。

 だから、

 俺は走り出そうとした半グレ二人の両足を一本ずつ手で掴み、行くのを拒んだ。


「なにすんだよクソ野郎!!」


 鋭いパンチがまたまた入る。

 耐えろ、耐えるんだ。

 歯茎の隙間から血が流れているのがわかる。

 こんなに痛い思いをしたのは初めてだ。

 だけど、なんだかこれもいい気分だった。

 会社で働いてクタクタの状態なのに。

 1分耐えろ。1分耐えたら流石にどんなに遅くても逃げれる。

 痛みで軽く震えた拳を再び握り返し、自分よりも若者で筋肉量も格上の相手であろう3人を死に物狂いで掴み離さない。

 背骨に猛烈なパンチが入る。

 パキッと音が鳴った。

 瞬間すさまじい痛みが背中、いや体中に駆け巡る。

 どうやら背骨にひびが入ったようだ。

 その衝撃のせいで少しばかりか3人の足を掴んでいた俺の手が解けてしまった。

 すかさず地べたから3人全員が起き上がり、そのうち二人が女の子が逃げて行った方向へとかけて行こうとする。

 だがすぐに足は止まった。

 よかった。

 その姿を目にした俺は、痛みよりも先に安心感に包まれた。


「逃げれて… よかった、」


「うっせぇ!!!」


 直後、俺の視界は蛍光色のスニーカーに染まった。

 追いかけようとした2人のうちの一人がもう諦めたのか俺の蹂躙を始めようとする。

 しかし大胆だな。

 始めから顔に蹴りを入れるなんて。

 すると、問答無用で俺の髪の毛を引っ張り上げ、倒れていて顔が地面と対面の状態から、エビ反りしているような状態にへと上げられた。


「おいおっさん、俺らあいつを逃がしちまったんだけど。」


 ぼやけた視界には鋭い剣幕をした3人たちが鮮明に確認できた。

 そんなに鳴るかと言うほどに指をポキポキと折り、少しだけか笑みを浮かべていた。

 あぁ、ここで俺は死ぬのか。

 改めて彼らの顔つきを拝見し、もう1時間後には俺は息をしていないだろうと強く実感した。


「取返し、付けてくれるよなぁ」


 最後に小さい『あ』が付いてることによりこんなにも怖さが倍増するのか。

 背筋に怖気と骨折しているであろう背骨の痛さが混ざり合い、何とも言えない状況。

 覚悟はしている。助けようとしたあの一歩から俺は死ぬのだろうと覚悟は決めていた。

 だがやはり殴られ、迫られ、脅されるとなるといざ誓ったあのことは忘れてしまうのだろうか。


「いや… た、たすけてくれ…」


 無意識に心が助けを乞うてる。

 しかも今から俺を殺すであろう半グレに対して。

 何を言っているのだと言った瞬間我に返って下唇を嚙んだ。

 熱くなる口唇を感じていると、3人は酷く笑った。


「ギャハハハハハハハ、助けてっていってやんの。ギャハハハハハ」


 笑いの中に少し嬉しさが要り交えている。

 俺が助けを乞う光景を見たかったのか。


「でもざんねーん。お前の責任はちょー重いんです。」

「死んでも死にきれない罰を与えてから牢屋に入りますよ。」


 そして、悪魔のように俺の体を蹂躙し始めようとした。

 まずは背中に対面していたこの中で一番ガタイがデカい男。

 動きが停止し、しゃがんで背中を預けていた俺は格好の餌食。

 すぐに殴ろうと首、そう、頚髄辺りに鋭いパンチを食らった。

 一瞬でヤバイと思った。

 音が、感覚が、痛みが、


「お、おい、そこ殴ったらいけんでしょ、」


 殴られた瞬間首から下の感覚が遮断された。

 目に映る景色には少しばかりか動揺を隠しきれない、俺を殴っていない前方の二人の姿が視認できた。

『なんだよ、殺すとか言っていたのに。何動揺してるんだよ。』


 心の中でそう呟いた瞬間、体が、いや頭より下が、機能を停止したのかドンッと無抵抗のまま地面に倒れた。

 その光景はまるで終盤のジェンガのように、重要な個所を誤って取ってしまいそのままジェンガが雪崩のように崩れてしまうように。

 俺は頚髄を殴られ骨折したから倒れた… この場合誰が負けになるんだろうな。

 殴ったあいつ?

 でも罪という負けに問われるのは全員だろうな、殺しに直接関与しなくても。


 ……あー、考えるのってつまんねー。



「おい! 速く車の中に入んぞ!!」

「ど、どうするんだよ! こいつこのまま死んだら」

「お、俺は…」


 1人は証拠を隠蔽しようと、1人は俺の心配をしようと、1人は現実を逃避しようと。

 三者三様の考えをしてこの場がパニックとなっている。

 元々こいつらは俺を殺す気はなかった様子だ。

 敢えて過大に言うことで、一瞬でも地獄を見せようとしていたんだろう。

 不運にもこいつらが馬鹿で、しかも当たり所が悪いのが重なり、このような惨事が起こった。


 まぁ、そんなことどうでもいいや。

 どうせ死ぬし。

 死ななくても一生ベッドに寝たきりだな。

 そう1人で考えるとすっと心が晴れやかになり、高揚感に包まれた。

 自分の感性に正直びっくりしたが、これは死ぬ間際に起こる一種のホルモンバランスの崩れだと自己暗示した。

 高揚感にさいなまれた後、俺はかすかに残る意識の間、自身の人生を振り返った。


 …あれ、何にもなかったな俺の人生。

 幼い頃に親父が借金残したまま自殺して、母親がこんなダメ男にはなってはいけないと家事は放任主義のくせに、勉強は徹底的で、毎晩のように塾に行かせた。

 そのせいで鬱になり国立大の受験もせず浪人するのも嫌だったから、俗にいうFランという大学に入って最悪の仕事に就いて…

 もういいや、その後は、お察しだ、


 死ぬ間際に人は幸せな過去の記憶という走馬灯を見るらしいのだが、俺には全く幸せな記憶というのが流れてこなかった。

 もしかしたら走馬灯を見るのは幸せな人生をした人限定なのかもしれない。

 瞼が途端に重くなり、瞳を閉じた。

 死神が俺を地獄に引き寄せようと魂を引っ張り上げるように感じる。

 そんな状況下でもあいつらのことを考えてしまった。

 あいつらちゃんと精進して立派になってくれよな。

 後、女の子、助けれてよかった。

 最後にいいことできて良かった。最期も最悪に死ぬと思ってたから…さ、

 考えることもダメになってきた。もう死ぬかもしれないんだ。

 そう覚悟をした。


「お前の望みはなんだ」


 急に目の前は光に包まれた。

 おかしい、完全に目を閉じているはずなのに。


『誰だ、』

 

 瞳の先に人の姿も影もいないのに、なぜ俺はこう答えたのだろうか。


「私は神だ。」


 その一言に俺は失笑した。なんて陳腐な話なのだろうか。

 神様?そんなのいるわけない、いたとしても俺になんの用があるのか。あまりにも惨めで慰めに来たのか?

 冗談交じりに俺は光ある方向にこう答えた。


「手短に話す。お前の望みはなんだ。」


 どうやら俺の話は無視のようだ。

 少しかちんと来たので俺も自称神から賜った、大事な言葉を無視しようとする。

 でもなぜだろう、この言葉を断ったらすごく後悔するだろうと体が信号を送る。

 こんな都合のいい話絶対にないとわかっているのに、自然と口から言葉が、

 俺の長年の夢が、

 愛する父が死んでしまったとき優しかった母が狂い始めたあの時から、

 夢のスローライフルと偽りの嘘を並べ、仮病で会社を休み、1人ベッドの上で厭世的な気持ちのまま涙を流したあの時から、

 目尻から涙が零れ落ちた。


『幸せなスローライフを送りたいです…」


「よし叶えてやろう」


 そう問わず語り口調で言うと、すぐさま俺の視界は暗闇になり、続けて意識も消えていった。


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