ある男の家路
思い返せば、彼女と出会ったのもこんな蒸し暑い夏の夜だった。
人が混み合う繁華街の中、家路を急ぎながら、俺はふとそんなことを思う。
大学時代、都心の大学に通っていた俺は、周りの同級生とうまく馴染めずにいた。大学に行くまでずっと田舎で暮らしてきた、性根の底からのいなかっぺである俺にとって都会での体験はきらびやかすぎた。
だからだろうか。実家に帰っていた際に、甥っ子のお守りで夏祭りに行ったときに出会った彼女が、ひどく輝いて見えたのは。
はっきり言って、彼女は地味だった。けど、純真で素朴な様は都会での暮らしに疲れていた俺には魅力的に映った。
気が付いた時には彼女に声をかけていた。この女と一緒になりたい、そんな思いが体を支配した。
まあ平たく言えば、一目惚れをしてしまったわけだ。
それからは、まあ紆余曲折あったが、俺は彼女と付き合うことができた。大学に入って3年目のころには、彼女が俺の家に来て同棲をするようになった。もちろん、親の許可をとってだ。
彼女を幸せにする。その思いを胸に刻んで、俺はさらに勉学に励み、世間でいうところの一流企業に就職することもできた。
そしてその1年後、俺は彼女と結婚した。
「……おっと、すいません」
物思いに耽りすぎて、注意力が散漫になっていたようだ。危うく人とぶつかりそうになるところだった。
ぶつかったわけではないが、そこは俺も社会人。トラブル回避のため、とっさに謝罪の言葉を口にする。
しかし、相手は俺に目線をくれることもなくふらふらと立ち去って行った。
「……ふん」
あまり気分のよろしいものではないが、足取りを見るに酔っ払いだろう。絡まれてトラブルになるよりはずっとマシだ。
愛する妻のためにも、早く帰らねば。
それにしても首がかゆい。
そうこうしているうちに、ようやく繁華街を抜けることができそうだ。そろそろ都心に住み始めて10年経つ俺にとって、人混みをすり抜けて早歩きをすることなんて慣れたものだ。
そういえば、同棲をしたいと言ってきたのは彼女の方からだった。
その気持ちは俺にもわかる。彼女もまた田舎育ちの人間だ。都会に憧れがあるのだろう。だが、卒業するころには彼女も都会に飽きているだろう。俺と同じように。
だから、俺が地元の役所に就職したいと彼女に言ったときに反対されたのは驚きだった。
このころ、彼女は都会に慣れたのか、服装が少し華やかになっていた。そんな彼女は俺に対して、就職するのであれば都心部で就職してほしいとお願いしてきたのだ。
生活のこと、結婚のこと、そして子供のこと。そんなことを理由に彼女は都会での就職をしてほしいと言ってきたのだった。
そのお願いを聞いて、俺はひどく感動したのを覚えている。確かに俺も彼女と結婚したいとは考えていた。その思いが彼女と通じ合っていたことに感動したのだ。
役所勤めは絶対にやりたいわけでもない、ただ俺が地元に帰りたいだけの妥協の結論だ。最愛の人がのお願いと比べるべくもない。
そして俺は彼女の願い通り、都心部から通うことのできる企業へと就職することができた。
1年後、俺たちは結婚し、まもなく彼女の妊娠も分かった。
このころ、彼女は髪を染め、化粧も少し派手になっていた。
ああ、それにしても首がかゆい。
俺はふと腕時計に目をやる。
いい時間だ。この時間帯なら、ちょうど彼女は料理を作ってくれていることだろう。生まれた娘も、おとなしいいい子だ。
娘を見た誰もが、この子は母親似だという。それでよかったと思う。正直に言って俺はあまり顔面偏差値は高くない。対して妻は美人と言って差し支えない顔立ちだった。田舎にいたころは地味だった印象も、都会に出て磨かれたのか、今では都会の似合う女性になっていた。
娘も確かに俺には似ていない。けど、俺になついてくれているし、俺もそんな娘を愛している。目に入れても痛くないかわいい娘だ。
そうこうするうちに、家に着いた。
都心から少し離れた郊外の借家だ。
子育てをするならアパート暮らしは嫌だといった彼女のために借りた家だ。正直、金銭面的に無理をした。いかに郊外といえ、都心に近い借家の家賃はまだ就職間もない俺には荷が重かった。子育ての費用も重なれば、なおさらだ。
それでも俺は頑張れた。他人の嫌がる仕事をこなし、積極的に残業をし、無茶な日程の出張だって何度も言った。
すべては愛する妻と娘のため。けれど家族の時間はどんどん短くなっていった。
深夜に帰ることも多くなったし、妻と話すことも少なくなった。
だから、結局俺がいけなかったのだろう。
その日は、まだ春に差し掛かり始めた、まだまだ風が冷たい日だった。たまたま出張の日程が変わり、たまたま会社での仕事が早く終わり、たまたま家に早く帰ることができた。
娘のために、そして何より妻のために、ケーキのお土産まで買ったりして、俺は上機嫌で家に帰った。
そして見た。見てしまった。
家の中で、うっとりとした表情で知らない男にしなだれかかる妻を。そして痴態を。
外の窓越しに、カーテンの隙間から、まるでこの世のものとは思えないものを見て、そしてゆっくりと何処かへ歩き出して、そこからはよく覚えていない。
それにしても、嗚呼、首がかゆい。
俺は懐から鍵を取り出し、ガチャリと鍵を開けた。カレーだろうか、おいしそうな匂いが漂ってくる。
「ただいま」
俺は一言そう呟いて、家に上がった。返事はない。
玄関からリビングにわたる廊下をヒタヒタと歩き、ドアを開けてリビングに入る。テーブルにはちょこんと娘が座っていたが、テレビに夢中なのか俺には気が付いていなかった。
そしてキッチンに目を向ければ、目を見開いた妻と目があった。派手になっていた髪も化粧も落ち着いて、言っては何だが地味な装いになった妻の姿に、俺はふと懐かしさを覚えた。
「そんな……まさか……あなた……」
絶句した妻は、顔面を青く染めながら数歩下がった。カランと手に持ったお玉が床に落ちる音がした。
そんな妻を眺めながら、俺は不思議と穏やかな気持ちだった。結局、俺は妻のことを憎めなかった。たとえ俺を裏切っていたとしても、彼女と作った思い出は俺を裏切っていないから。
かゆい首をボリボリと掻きながら、俺はゆっくりと彼女へ歩み寄っていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女はもはやへたり込んでしまって涙を流しながら、ただただ謝罪の言葉を口にする。
嗚呼。謝ることなんて何もない。君が謝ることなんて何も。すべては俺が悪いんだ。
ただ、もし許されるのなら。俺がワガママを言っていいのなら、ただ――
「ごめんなさい……あなた……」
そう、ただ一緒にいたいんだ。愛する家族と一緒に。
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線香のにおいが辺りを満たす。
季節は盆、ある田舎ではこの時期は常に線香を絶やさない。それは死者を出迎え、悼み、供養するため。それがその年に身内に不幸があった家なら、なおさら。
そんなある家で、春先に息子を亡くしたある母親が、何の気なしにテレビをつける。ちょうどお昼のニュースが流れる時間であった。
『次のニュースです。昨夜未明、東京郊外の一軒家で火事があり、家屋が全焼し焼け跡からは女性と幼児の死体が見つかりました。出火元はキッチンとのことで、警察は火の不始末が原因と―――――』
お盆は死者が帰ってくる日だけど、どこに帰るのかも、誰のもとに帰るのかも、それは死者の決めること。生きている人間の気持ちなんて関係ないよね。
生きているときでさえ気持ちが通じ合うことなんてないのに、死んでたらなおさらだよね。
……ホラーかな、これ