第九章 想いを伝えたい
あるうららかな昼下がり、まだ子供達もやってこず、お客さんも途切れているので倫子はゆっくりとお茶を飲みながらくつろいでいた。
お客さんが来ると忙しいけれど、来なければ来ないで少し寂しいものだと思っていると、入り口のガラス戸が開く音がした。
お客さんか。倫子が咄嗟に入り口の方を見ると、桃色の髪を結い上げた着物姿の女が少しだけガラス戸を開けて立っていた。
「ごめんください。倫子さんいるかしら」
その声に、倫子はぬるくなっていたお茶を飲み干して返す。
「はい、丁度暇していたところですよ。入ってくださいな」
女はそっとガラス戸を開けて入ってきて、きょろきょろと店の中を見る。
「愛子さん、今日はどんなものをお探し?」
女の名を呼んで倫子が訊ねると、愛子と呼ばれた女はせんべいの入った器を見ながらにっこりと笑う。
「今日はおやつ用のおせんべいと、インクを買いに来たんです」
それから。何種類か並んでいるせんべいをじっと見て、視線を何度も往復させる。
「えっと、どれがいいかしら……」
愛子がそう悩んでいるので、倫子がまた訊ねる。
「おやつを買って来て欲しいって言ったのは誰なの?」
「誰というわけではないんですけど、緑兄さんが練習に入れ込みすぎてるから、少し休ませようと思って」
なるほど。と倫子は思う。愛子はこの店に時々来る緑丸と恵次郎の妹だ。兄思いというよりは家族思いの良い子で、こうやって時折、家族のためになにかをしようとこの店に来ることがあるのだ。
倫子はザラメのせんべいの器を叩いて愛子に言う。
「それなら、ザラメのせんべいなんてどう?
練習で疲れたときは、甘いもの食べるとほっとするでしょ」
その言葉に愛子はにっこりと笑う。
「そうですね。それじゃあ、それを六枚お願いします」
「はい、まいどあり」
倫子は手早く器の中からザラメのせんべいを取りだして紙袋に入れていく。そうしながら、愛子の方を見る。どうにもただ買い物をしに来ただけではないような素振りが見える。そこで、倫子は愛子の兄達についてまずは訊ねることにした。
「ところで愛子さん、最近緑丸さんと恵次郎さんはどうしてます?
緑丸さんは練習に夢中って言ってたけれど」
すると愛子は、少し心配そうな顔をしてこう答えた。
「緑兄さんはあいかわらず、仕事の方は順調みたいです。恵兄さんも仕事は順調なんだけど、忙しすぎてなかなか休みがないんです。
だから、今日は私が代わりに恵兄さんが使うインクを買いに来たんです」
一見気ままな仕事をしているように見えるあのふたりも、ちゃんと仕事があるようで倫子は安心する。
「なるほど、ふたりとも忙しいのね。それだと、一緒に出かけることもあまりないでしょう」
兄ふたりと仲が良い愛子が、たまに一緒に出かけるのを楽しみにしているのを知っているので倫子がそう訊ねると、愛子は、少しだけ俯いてこう答えた。
「実は最近、恵兄さんが休みの日に教会に行くことがあるんです」
「教会? なんでまた急に。改宗でもするのかしら?」
近頃は教会での説法も自由にして良いことになり、キリシタンになるものも増えてきている。だから、愛子達もそうなのだろうかと倫子は思った。
すると、愛子はぱたぱたと手を振ってこう返す。
「そうではなくて、教会の牧師さんで、恵兄さんと一緒に勉強をしていた人がいるんです。それで、礼拝をやっているというときにその人のところに行ったら、緑兄さんが教会で聴く歌に興味を持って、それで」
「ああ、恵次郎さんのご学友がいるのね」
教会に行くようになったきっかけはそれでわかった。けれども、恵次郎の学友がいるだとか、緑丸が教会の歌に興味を持ったとかそれだけの理由で愛子まで何度も教会に行くものだろうかとも思う。
なので倫子はにっと笑って愛子に訊ねる。
「教会に行く理由は、ほんとうにそれだけ?」
すると愛子は真っ赤になって頬を押さえる。それから、幾分小さな声でこう返した。
「実は、恵兄さんのご学友の、牧師さんに会うのが楽しみなんです」
この様子だと相当惚れ込んでいるなと思った倫子は、興味深げにさらに訊ねる。
「そうなのね。素敵な方なの?」
愛子は真っ赤になったまま頷く。
「そうなんです。礼拝の時の説法もわかりやすくて、知的な方だなって思って……
それに、教会に行っているみなさんにも優しくて、それで」
言いたいことに言葉が付いてこないといったようすの愛子が、しばらくもじもじとしたあと、両手をぎゅうと握ってこう続けた。
「その人に想いを伝えたいんです」
いつも控えめな愛子が、自分からこんなことを言うなんてと倫子は思う。でも、驚きはしなかった。これくらいの激しい気持ちを持つことは、きっと誰にだってあるのだ。
けれども、愛子は困惑した様子で言う。
「でも、女からこういった事を伝えていいのか、わからないんです。はしたないと思われないかって思って」
その戸惑いも倫子にはわかる。女は控えめにしていろと世間では言われているからだ。
けれども、倫子はあえてこう言った。
「愛子さん、女からでも男からでも、そういう想いは伝えなければ伝わらないのよ」
すると、愛子は黙り込んでますます赤くなってしまう。きっと、どうするべきか悩んでいるのだろう。普段控えめで、兄より前に出ることが無いといっていいほどの愛子が、ここまで強く誰かのことを想っているのだ。倫子としてはなるべく後押ししてやりたい。
愛子は黙ったまま、文房具を置いている棚から、いつも恵次郎が買っていっているインクを持って来て倫子に渡す。倫子は黙ってそれを受け取る。けれどもすぐには勘定をせずに、愛子がなにかを言うのを待った。
そしてしばらく黙り込んでいた愛子が、突然顔を上げて口を開いた。
「倫子さん、便箋と封筒はありますか?」
愛子の言葉を聞いて、倫子はにっこりと笑う。
「文房具の棚の引き出しの中に入ってるわよ。活版印刷で模様の入ったものもあるから、そんなのもどうかしら?」
「あっ、それじゃあ、見させてもらいます」
そそくさと文房具の棚の引き出しを開け、愛子が便箋と封筒を見る。引き出しの中には倫子が行ったとおり、活版印刷で模様の入った封筒もあったけれども、愛子が選んだのは真っ白な封筒と便箋だった。
それを見て、倫子は愛子らしいなと思う。きっと、なにかで飾ったりせず、自分の思いをただ一途に伝えたいのだろうというのがわかったのだ。
「この封筒と便箋もいただいていいですか?」
「はい、まいどあり」
愛子から封筒と便箋を受け取り、そこでようやく、せんべいとインクも合わせて勘定をした。
品物一式を受け取った愛子が不安そうにする。
「どうしよう、ちゃんと上手に書けるかしら……」
上手く想いを伝えられるかどうかが心配なのだろう。そんな愛子に、倫子はにっと笑って言う。
「とりあえず、書いてみないとわからないわよ。だから書かないと。
それにね」
「それに?」
「想いが伝わるかどうかは、文の上手い下手だけじゃないの。だから、思い切って書いてみて。
便箋は何枚か入ってるから、なんなら書き直しもできるし」
それを聞いて、愛子はもじもじしたあとに真面目な顔をする。決心が付いたのだろうか。
愛子がぺこりと頭を下げる。
「倫子さん、ありがとうございます。
とりあえず、書いてみることにします」
「うん、がんばってね」
お礼を言って店を出て行く愛子を見送って、愛子の恋の行く末が上手くいくといいなと倫子は思う。
ふと、なぜだか季更のことが思い出された。