第七章 外国の香り
ある暑い日のおやつ時、朝のうちに洗って干していた店で出た洗濯物を取り込もうかと倫子が立ち上がると、ガラス戸が開く音がした。
そういえば、と倫子は思う。おやつ時なのだから、学校が終わった子供達が来てもおかしくないのだ。
もう少し早く洗濯物を取り込みに行けばよかったと思いながら入り口の方を向くと、子供達と一緒に光喜が入ってきて元気よく挨拶をした。
「倫子さんこんにちはー」
光喜に続き、子供達も口を開く。
「おばちゃん、あそびにきたよ」
「今日は光喜兄ちゃんも一緒だよ」
口々にそう言っては、光喜にまとわりつく子供達。やはり光喜は、子供達によく懐かれているのだなと倫子は実感する。
「光喜君も一緒でうれしいわね。今日は一緒に遊ぶんでしょう?」
「うん! いっしょにあそぶ!」
にこにこと笑う子供達に続いて、光喜が倫子に話し掛ける。
「今日は久しぶりにお休みを貰ったから遊びに来たんです。ね、みんな」
子供達がわいわいと盛り上がるのを見て、光喜が久しぶりに来てくれたのだから、洗濯物を取り込むのはあとででいいかと、倫子は店の様子を見ることにした。
子供達が駄菓子やおもちゃを見ているのを眺めている光喜に倫子が訊ねる。
「そういえば、最近仕事の方はどう?
洗濯屋って異人さんのお客さんが多いって聞くけど」
その問いに、光喜は少しぼうっとしてから返す。
「そうですね、最近は日本人の洋服もありますけど、やっぱり居留地の異人さんの服が多いです。
店長なんか、そろそろ通訳無しでも異人さんの注文がわかるようになってきたって言ってますよ」
それを聞いて、倫子はにっと笑って光喜に言う。
「そんなに異人さんが来るんじゃ、そろそろ光喜君も外国語をわかるようになってきたんじゃない?」
正直言えば、ただ異人の言葉を聞いているだけで外国語を覚えるのは難しいだろうと倫子は思っているし、実際自分がそれをやれといわれたらできないだろう。
けれども、仕事に限らず色々なことの飲み込みが早い光喜なら、店長と異人のやりとりを聞いているだけでも、なにかしらの外国語を覚えられるのではないかと思ったのだ。
するとやはり、光喜はにっこりと笑ってこう答えた。
「全部はわからないけど、ちょっとだけわかるようになりましたねー。
サンキューと、メルシーと、ダンケくらいですけど」
それを聞いて、倫子は頷いて言う。
「聞いてるだけでそんなに覚えられれば上等じゃない?
でも、それってどういう意味なの?」
光喜が言ったのが外国語なのは倫子もわかった。けれども、倫子は外国語を聞き慣れているわけではないので、光喜が覚えたと言っている言葉の意味がわからないのだ。
そんな倫子に、光喜はにこにこと笑ってこう答える。
「全部ありがとうっていう意味です。
お客さんに外国語でこう言うと、喜んでくれるんですよ」
「全部ありがとうなの?」
光喜の言葉に、倫子は首を傾げる。あのみっつのありがとうに、どんな違いがあるのかがわからないのだ。
「その、ありがとうがみっつあるけど、どんな違いがあるの?」
素直にそう問いかけると、駄菓子やおもちゃを見ていた子供達も、光喜の方を見た。子供達も、外国の言葉に興味があるのかもしれない。
期待の眼差しを受けながら、光喜はいつも通りのぼんやりしたようすでこう答える。
「サンキューとメルシーとダンケ、どう違うのかはよくわかんないんですけど、なんとなくで使い分けてますね」
「使い分け。なるほど?」
もしかしたら客の気分に寄るのかなと倫子は思う。外国語には、ありがとうの度合いがいくつもあるのかもしれない。
しばらく倫子と光喜が話していたら、子供達がまたわいわいと光喜を囲む。光喜もにこにこと笑って、子供達の頭を撫でたりしながらおもちゃの入っている箱を覗き込んだ。
そうだ、光喜も子供達と遊びに来たのだから、あまり仕事の話ばかりでも悪かったかなと倫子は少しだけ反省する。けれども、光喜が上手く仕事をやれているのかどうか気になってしまったのだ。
光喜は子供達の中では年嵩とはいえ、それでもまだ遊びたい盛りだ。けれども、小学校を出た後はすぐに洗濯屋で働き始めた。弟が小学校を出て働けるようになるまでは、自分も家を支えないといけないと言っていた気がする。それが、いつのことだったかは思い出せないけれども。
おもちゃの入った箱を見ていた光喜が、ビー玉をいくつか手に取って倫子のところへと持ってくる。
「倫子さん、これください」
「はい、まいどあり」
勘定をして、ビー玉を光喜に渡す。その時に、倫子はこう訊ねた。
「またこれでみんなと遊ぶの?」
すると光喜は、楽しみといった顔で返す。
「そうなんです。だいぶ前に、僕と遊ぶのにビー玉買った子がいて、もっといっぱいあった方が楽しいだろうなと思って、その子の分と合わせて」
「あらあら、仲が良いのね」
光喜が子供達に慕われているのを見ると、思わず微笑ましくなってしまう。こんなお兄さんがいれば、子供達も安心だとなんとなく思えるのだ。
おもちゃや駄菓子を見ている子供達に声を掛けている光喜に、倫子は思いだしたようにまた話し掛ける。
「そう言えば、光喜君は駄菓子は買わなくていいの?」
それを聞いて、光喜がはっとした顔をしてお腹をおさえる。みんなで遊ぶのが楽しみで、お腹が空いているのを忘れていたのだろう。
「そうだ、お菓子も食べたいんです。
なに食べよう。おせんべいかなぁ」
光喜がせんべいの入った器を見てから、他の棚にある金平糖を見たりもしている。それでも結局、光喜が買ったのはせんべいだった。他の子供達も、思い思いの駄菓子を買って嬉しそうに笑う。
ふと、子供のうちのひとりがこう言った。
「光喜兄ちゃんね、お店でめずらしいおかしもらうことがあるんだ」
「そうなの? 珍しいお菓子ってどんなの?」
倫子が子供にそう訊ねると、子供は光喜の着物の袖を掴んでこう答える。
「異人さんが持って来てくれるおかしだよね。とってもあまくておいしいやつ」
この子の話し方からすると、光喜はそのお菓子を子供達にも分けているのだなと倫子は思う。
「光喜君にお菓子を分けてもらってるのね」
「うん。光喜兄ちゃん、みんなにわけてくれる」
そんな話をしていると、他の子供達も、また異人さんのお菓子を食べたいと言いはじめた。それを聞いて、光喜は少しだけ困ったように笑う。
「でも、異人さんがいつ持って来てくれるかどうかはわからないから」
それから、光喜が倫子にこう訊ねた。
「倫子さんは外国のお菓子って食べたことあります? クッキーとか」
その問いに、倫子はにっこりと笑う。
「まぁ、私も少しくらいは食べたことあるね」
その言葉に、子供達が沸き立つ。
「おばちゃん、ここでもクッキーおいて」
「倫子さん、外国のおかしもおいておくれよ」
外国の珍しいお菓子をいつでも買えるようになりたいという子供達の気持ちはわかるけれども、クッキーなど異人が好むようなお菓子は、この店に置けたとしても子供達が買うには高価なものだ。だから倫子はこう答える。
「うーん、外国のお菓子を置くのはむずかしいわねぇ。仕入れも大変だし」
すると、ひとりの子供が不思議そうにこう言った。
「このお店には外国のものがいっぱいあるのに」
それもそうだ。子供からしたら、舶来品を仕入れられるのにお菓子を仕入れられないというのは不思議に思うだろう。
倫子は、くすくすと笑ってこう返す。
「雑貨とお菓子は違うからね」
その言葉に子供は不満げだ。けれども仕方ない。子供が欲しがっているのに子供が買えないものを仕入れても仕方ないのだ。
何はともあれ、銘々好きに駄菓子を買った子供達は、光喜と一緒に店を出る。店の前で駄菓子を食べ始めた子供達を見てから、倫子は洗濯物を取り込みに行った。