表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/50

第四十九章 船が出る

 寒い日の昼下がり、この日も暖をとるために、倫子は店の奥で七輪に火を入れて当たりながら、お茶を淹れていた。

 今は冬休み。朝のうちは子供達がこの店でおもちゃや駄菓子を買って、店の前で遊んでいた。その子供達もお昼時には家に帰り、お昼ごはんを食べ終わった今頃は、他の場所へ行って遊んでいるのだろう。

 静かな昼下がりは、少しだけ寂しい気持ちになる。この寂しさは子供達の声が聞こえないからなのか、それとも、他に理由があるのかはわからない。

 寂しい気持ちを振り払うために、お茶に合わせるお饅頭でも焼こうかと倫子が立ち上がると、ガラス戸を叩く音が聞こえた。

「はい、開いてますよ」

 咄嗟に入り口の方を見て返事をすると、静かにガラス戸が開いた。

「よお、倫子さん」

 そう言って入って来たのは、緑丸だ。いつものような元気は無く、落ち込んだように俯いてしまっている。

 いったいどうしたのだろうか。倫子は一瞬そう思ったけれども、すぐに思い当たる節が見つかった。先日、港から異人達の船が出たので、その船に乗って、ついにバイオレットが国に帰ってしまったのかもしれない。

「緑丸さん、大丈夫?

とりあえずこっちに来て下さいな」

 倫子はそう声を掛けて、緑丸に淹れたばかりのお茶を差し出す。それから、お茶請けにせんべいの入った器からざらめのせんべいを一枚取りだして、それも緑丸に渡す。

 ざらめのせんべいは緑丸の好物だから、きっと元気が出るだろうと思ったのだ。

「これは私の奢りですから、遠慮なく召し上がって下さいな」

「ああ、なんか気を遣わせちゃって悪いな」

 緑丸はお茶をひとくち飲んで、手に持ったせんべいをじっと見る。それから、ぽつりとこう零した。

「このせんべい、バイオレットのお気に入りだったなぁ」

 そういえば、バイオレットもたいそうせんべいのことを気に入っているようだった。日本語の名前を覚える程度には。

 倫子は思いきって緑丸に訊ねる。

「もう、バイオレットさんは帰ってしまったんですか?」

 その問いに、緑丸は頷く。

「ああ、この前出た船に乗って帰っちまった」

「お見送りはしたんですか?」

「……しに行ったよ。少しでも長く、あいつの側にいたかったんだ」

 そう呟いた緑丸は、いつもの元気なようすが嘘のように感じるほど気落ちしている。先日来た時のように、強がる気力も無いようだ。

 どうしたものかと倫子は考える。そして、ふっと思ったことを訊ねた。

「バイオレットさんから、なにか餞別はもらってないんですか?」

 そう、バイオレットのことを思い出せるよすがのようなものがあれば、緑丸も少しは安心でききるのではないかと思ったのだ。

 あれだけ仲の良かったふたりなのだから、きっとなにか餞別をしているはずだ。倫子にはその確信があった。

 緑丸は倫子の言葉に、袂をちらりと見て返す。

「もらってる。バイオレットと俺の名前を書いた紙をお互い交換しててさ。

俺はバイオレットの名前を御守り袋に入れてるんだ」

「そうなんですね。それなら、いつでもバイオレットさんを側に感じられるでしょう」

 そういったお守りをもらっているのであれば、きっとバイオレットは遠くに帰ってしまっても、緑丸のことを忘れないでいてくれる。倫子はそう思ったし、緑丸もそう思っているだろう。

 緑丸はまた頷いて、せんべいを囓る。味わうように噛みしめて、飲み込んで、溜息をついた。

「俺、やっぱりバイオレットに付いて行けばよかったかもしれない」

 その言葉に、倫子はなにも返せない。どれほど緑丸がバイオレットの側にいたいのか、バイオレットがどれだけ緑丸と一緒にいたいのか、そのどちらも計り知ることができないからだ。

 緑丸が言葉を続ける。

「でも、やっぱ俺はあいつには付いていけないんだよ。

だめなんだよ、そんなことしちゃ。家族を置いて、ひとりで英吉利に行くなんて……」

 付いていってはいけなかった理由を、緑丸は一生懸命作ろうとしているのかもしれない。そうしないと、バイオレットに付いていかないという選択をした自分を受け入れられないのだろう。

 倫子は緑丸に掛ける言葉を考えて、なんとか言葉をひねり出す。

「バイオレットさんは、また日本に来ることはないんですか?」

 それを聞いた緑丸は、お茶をひとくち飲んで返す。

「故郷での仕事が落ち着いたらまた来るって言ってた」

 どうやら、もう二度と会えないというわけではなさそうだ。いつになるかはわからないけれども、バイオレットがまた日本に来るのなら、きっと緑丸に会いに来てくれるだろう。

「それなら、その時を待ちましょう、ね?

バイオレットさんが緑丸さんのことを忘れるはずないですもの」

「そうなんだよな。そうするしかないんだよ」

 倫子の言葉に緑丸は頷いて、せんべいを囓る。せんべいを全部食べて、お茶も全部飲んで、湯飲みを倫子に手渡す。

「ごちそうさん」

「いえ、少しは落ち着きましたか?」

 バイオレットにいつかまた会えると再確認して、緑丸も少しは落ち着いただろうかと倫子がようすを見ていると、突然、緑丸がぼろぼろと泣き出した。

「あの、どうしました?」

 慌てて声を掛けると、緑丸はしゃくり上げながら話す。

「あいつは、バイオレットは、俺の心の中の一番大事なところに座ったまま動かないんだ。それなのに、次いつ会えるかわからないなんて、そんなの」

 こんなに取り乱すほど寂しいのか。そう思った倫子は、思わずこう言った。

「緑丸さん落ち着いて。

バイオレットさんとしばらく会えなくて寂しいでしょうけど、きっと、お嫁さんをもらえば寂しくなくなりますよ」

 そう、バイオレット以外に、一緒に人生を歩む相手を見つけられれば、緑丸も寂しくなくなると思ったのだ。

 緑丸は涙を拭いながら呟く。

「……そんなものなのかな……」

 どうにも、乗り気でないようだ。でも、それも仕方ないのかもしれない。心の中の一番大事なところにいる人が、手の届かないところへ行ってしまったのだ。またいつか会えるといっても、立ち直るのは簡単ではないのだろう。

 倫子は宥めるようにさらに言葉を続ける。

「それに、海を越えてしまっても、緑丸さんとバイオレットさんは親友なんでしょう?

親友同士のつながりは、そう簡単には切れないと思います」

 緑丸は涙を拭って、鼻を啜って、深く息を吸う。それから、息をついて呟いた。

「そうだな、恵次郎に教えてもらいながら手紙でも書くか」

「それが良いと思います。

そうしていればきっと、遠くにいても側にいる気持ちになるでしょうし」

 手紙を書くと決めたからか、緑丸は少し落ち着きを取り戻したようだ。目は泣きはらしているけれども、自分の気持ちを確認するように、はっきりとこう言った。

「とにかく今は、バイオレットが帰っちまって寂しいんだ。早くまた会いたい」

 こうやって言葉にすることで、自分の気持ちを整理しようとしているのだろう。倫子は頷いてその言葉を聞いて、声を掛ける。

「バイオレットさんもまた来ると言っていたみたいですし、その時を信じて待ちましょう」

 倫子の言葉に、緑丸はぎゅうと手を握って声を震わせる。

「早く来て欲しい。俺、こんなに寂しいの耐えられないよ……」

 親友が遠くへ行ってしまうというのはそんなにも寂しいことなのかと倫子は思う。

 けれどもそれと同時に、緑丸とバイオレットはほんとうに親友だったのだろうかという思いも浮かぶ。

 ふたりの絆が偽りだったと言いたいわけではない。きっと、ふたりの絆は本物なのだと思う。けれども、その絆は親友という言葉に収まるものではないような気がしたのだ。

 緑丸も、バイオレットも、もしかして……そんな考えが頭を過ぎるけれども、これは事実がどうあろうとも、深く追及してはいけないことだ。

 ふたりの思い出は、ふたりの心の中に大切にしまわれているべきなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ