第四十七章 親友との約束
寒くなってきた頃の昼下がり、随分と冷たい風が吹いているのに、子供達は今日も元気に店の前で遊んでいる。
子供は風の子だなと思いながら倫子がぼんやりとガラス戸越しに子供達を見ていると、一瞬子供達が静かになった。それから、大きな声で歓声が上がった。
「みどりまるだ!」
「緑丸があそびにきたぞ!」
「いじんさんはどうしたの?」
ガラス戸越しによく見ると、たしかに緑丸がそこに立っている。けれども、子供達が異人さんはどうしたと聞いているとおり、バイオレットの姿はない。恵次郎の姿もないので、今日はひとりで来ているようだった。
緑丸はまとわりつく子供達の頭を撫でてまわる。
「おう、坊主達。俺達のこと覚えてたか。
あの異人さんは、今日は忙しくて来れなかったんだ。俺も今日は倫子さんに用事があってきたから遊べないんだよ。ごめんな」
その言葉に、子供のひとりが言う。
「それじゃあ、またこんどきたときあそんでくれる?」
「うーん、また今度来た時って約束はできないけど、そのうちまた遊ぼうな」
子供達は残念そうにしているけれども、とりあえずいったんは緑丸から離れた。緑丸は店のガラス戸に近づいて、少しだけ開けて声を掛けてくる。
「倫子さん、いるんだろ?」
その声に倫子はすぐに返す。
「はい、いますよ。どうぞ中へ」
緑丸はガラス戸を開けて店の中に入り、持っていた風呂敷包みを倫子に差し出す。
「これお土産なんだけど、よかったら」
「あら、わざわざありがとうございます」
倫子は風呂敷包みを受け取り、外側から触って感触を確かめる。中には紙袋が入っているようで、その中になにか小さい物が入っているようだった。
「開けていいですか?」
そう訊ねると、緑丸はにっと笑って返す。
「ああ、開けてくれ。よかったらいっしょに食べないか?」
「あ、食べ物なんですね」
倫子は早速風呂敷包みをほどいて中身を出す。中に入っていた紙袋の中には、こんがり焼けたクッキーが入っていた。
「それ、愛子が焼いたんだよ。よかったらお裾分けにと思ってさ」
「うふふ、ありがとうございます」
棚の中からお皿を出して、クッキーをその上に乗せる。それから、座布団をもう一枚用意して緑丸にこう声を掛けた。
「お菓子を持ってくるなんて、今日はお話に来たんですか?」
「おっ、やっぱわかるか」
「わかりますとも」
緑丸に奥に上がってもらい、炉と釜を用意してお湯を沸かす。お湯が沸くまでの間、緑丸が座ってなにを話すのかと倫子は待つ。
緑丸がクッキーを一枚手に取って口を開く。
「最近、夏彦がうちの親の仕事の手伝いしててさ、このままうちの仕事を継いでくれるんじゃないかって」
それを聞いた倫子は、手を合わせてにっこりと笑う。
「あら、それはよかったです。緑丸さんも恵次郎さんも、全然違うお仕事してるから、心配だったんですよ」
「いや、心配かけてすまないね」
緑丸は困ったように笑って、それからクッキーを囓る。
「でも、夏彦に仕事を継いでは欲しいけど、忙しくなって教会の方に手が回らなくなったらどうしようって思ってるんだよな」
それを聞いて倫子は少し驚く。緑丸が教会の心配をしていることが意外だったのだ。
「夏彦さんに、教会の方もやってて欲しいんですか?」
その問いに、緑丸は真面目な顔をして返す。
「ああ、やってて欲しいんだ。
愛子が改宗したから、キリスト教のことを教えてくれるやつは身近に欲しいって思ってさ」
「なるほど、そうなんですね」
そこで、倫子はふと思ったことを緑丸に訊ねる。
「緑丸さんも、改宗するつもりなんですか?」
そこでお湯がふつふつと沸いた。倫子は柄杓で茶葉をたっぷり詰め込んだ急須にお湯を注ぎながら、緑丸の言葉を待つ。
緑丸はこう答えた。
「いや、俺は改宗するつもりはない。ないんだけどさ」
「だけど?」
用意した湯飲みにお茶を淹れながら倫子が訊ね返す。すると、緑丸が少し俯く。
「俺、キリシタンのことを知りたいんだ」
クッキーをまたひとくち囓って、噛みしめて、緑丸が戸惑った様な声でこう続ける。
「キリシタンのことを知れば、バイオレットにもっと近づける気がするんだ」
そこまでして、緑丸はバイオレットのことを知りたいのか。もっと親しくなって、近いところに立ちたいのかと、倫子は思う。
緑丸は、なにか人付き合いをするときに、いつもここまで相手のことを知ろうとするたちなのだろうか。それとも、相手がバイオレットだから特別なのだろうか。
倫子はお茶をひとくち飲んでから、思いきって緑丸にこう訊ねた。
「緑丸さんは、バイオレットさんのことが好きなんですか?」
すると緑丸は俯いたまま、手に持っていた残りのクッキーを口の中に詰め込む。それをまた噛みしめて飲み込んで、顔を上げてにっと笑う。
「もちろん好きさ。大切な親友だからな」
そうか、緑丸にとって、バイオレットはもう、友人とはいえ大切な人なのだ。だから、もっと知りたいと思ったのだろう。
「ほんとうに、仲が良いんですね」
「そうさ。言葉が通じなくても、心で通じるくらいなんだから」
それは、なんとなくわかる気がした。緑丸がバイオレットと知り合ったばかりの頃から、緑丸とバイオレットは言葉が通じないのに、お互いのことがわかっているようだった。それくらい気が合う相手なのだろう。
ふと、緑丸が視線をとしてお茶をひとくち飲んで、ぽつりと言う。
「でも、バイオレットのやつ、もうすぐ故郷の国に帰っちまうみたいなんだ」
「えっ? バイオレットさんが?」
「うん」
居留地の異人が、いつまでもそこにいるわけではないというのは倫子にもわかっていたけれども、いざバイオレットが故郷に帰ると言われると、驚きを隠せなかった。
緑丸が戸惑った様な声で話を続ける。
「それで、バイオレットに英吉利まで付いてきて欲しいって言われてるんだけど、俺、どうしたらいいかわかんないんだよ」
戸惑いだけでなく、切なさの混じったその声に、倫子は下手な言葉は掛けられないと思う。それで、少しの間考えて、なんとか言葉を出す。
「付いていきたいんですか?」
その問いに、緑丸は頭を振って返す。
「付いていきたい。ほんとうは付いていきたいんだ。
だけど、俺は家族のことを置いてひとりで英吉利になんて行けないし、何より俺、バイオレット以外の異人の言葉なんて、全然わかんないんだぜ?
英吉利に行って、上手くやっていける気もしない」
「たしかに、言葉の壁は大きいですよね」
言葉の壁だけでなく、緑丸が言うように、家族を置いていけないというのも本音だろう。緑丸の家は裕福なので、緑丸ひとりがいなくなっても経済的には十分やっていける。けれども、緑丸は両親から可愛がられているし、何より恵次郎と愛子のふたりにとても慕われているのだ。そんな家族を置いて、ひとりで英吉利になんて行けないだろう。
緑丸が泣きそうな声で吐き出す。
「そう、俺はきっと、バイオレットには付いていけない。
だからせめて、あいつのことをもっと知るのに、キリシタンのことを知りたいんだ」
親友が遠くへ行ってしまうというのは、いったいどんな心地なのだろう。鉄道が発達しはじめた今、日本国内であればある程度会いに行くことも可能だろうけれども、バイオレットが帰ると言っている英吉利は、海のずっと向こうだ。そうそう会いに行くことなどできない。
緑丸がぽろりと涙を零す。
「ずっと親友だって、約束したんだ」
正直言ってしまえば、緑丸とバイオレットが一緒に過ごした時間はそんなに長くない。せいぜい四年経ったか経たないかだ。
けれども、その四年は緑丸にとってひどく長くて、短くて、大切な時間だったのだ。
いつか倫子が恵次郎に言ったように、緑丸は英吉利へは行かないだろう。けれども、緑丸の心は日本から離れかけているのではないかと倫子は思った。




