第四十四章 思い人がいるのか
蝉が鳴くような暑い日のこと。この日は朝のうちに子供達が遊びに来て、お昼時に家に帰ったっきり、子供達はこの店に来ていない。きっと、お昼ごはんを食べた後に他の遊び場で遊んでいるのだろう。
そんな静かな昼下がりに、倫子はいつも通り店の奥に座って、団扇で扇ぎながらゆったりとしていた。
たまにお客さんは来るけれども、子供達がいないとだいぶ静かだ。賑やかなのももちろんいいけれども、こうして静かに過ごす時間も、またいいものだった。
客足が途切れてしばらく、倫子はぼんやりとしていたけれども、ふと、ガラス戸を叩く音が聞こえた。
「ごめんください」
その声に倫子は入り口の方を向く。
「はい、開いてますよ」
すぐさまにそう返すと、入ってきたのはなにやら浮かない顔をした恵次郎だった。
いかにもなにか思い悩んでいるといった風の恵次郎に、倫子はおずおずと声を掛ける。
「どうしたんですか、恵次郎さん。なんだか浮かない顔をしてますけど」
すると恵次郎は、大きな溜息をついてこう答えた。
「兄さんのお見合いが、また破談になったんだ」
「緑丸さんの?」
そういえば、緑丸は今までに何度もお見合いをしているらしいのに、その度に破談になっていると以前恵次郎から聞いた気がする。
「今回もまた、うまくいかなかったのかしら」
「うまくいかなかったから、破談になったんだろうな」
恵次郎は両手で顔を覆っていかにも困ったような声で言葉を続ける。
「まったく兄さんも、いい歳なんだから早く結婚してくれないだろうか。
いつまでも嫁がいないのは心配だ」
「まぁ、そうですよね。緑丸さんもいい加減いい歳ですものね」
いつまでも結婚しないでいる緑丸のことを恵次郎が心配するのは倫子にもわかる。なんせ緑丸は長男だ。将来的に家を継がせる子供がいるいない以前の話として、嫁がいないとどうしようもない。
ふと、倫子は恵次郎を見て思いだしたことを訊ねる。
「そういえば恵次郎さん、恵次郎さんのお嫁さんは今どうしていますか?」
そう、だいぶ前に恵次郎が結婚したという話は聞いていたけれども、その後の話を全然聞いていなかったのだ。
それで倫子がそう訊ねると、恵次郎は急に表情をゆるめてこう答えた。
「実は、今一人目の子供がお腹にいて……」
それを聞いた倫子は、両手を合わせて思わず声を上げる。
「まあ、それはおめでたい! 生まれるのが楽しみですね」
嫁のことを思い出しているのか、まったく表情が締まらない恵次郎が、手を中空で漂わせながら言う。
「子供が生まれるのが今から楽しみで、いろいろと準備をしていて……
妻の妊娠中、どんなことをしたらいいかを母さんに聞いていろいろやっているんだ。
なにより妻が、僕の子供を体を張って守ってくれてるのが嬉しくて、それで……」
「あらあら、嬉しいことがあってよかったです」
しばらく恵次郎はにこにこしていたけれども、ふと、思い出したように真顔になってこう言った。
「僕に子供ができたのは兄さんも喜んでくれているけど、それより早く兄さんも結婚して欲しいんだ」
緑丸が結婚しないのが余程心配なようすの恵次郎に、倫子も頷くしかない。
「そうなのよね。緑丸さんがいつになったら結婚するのか、私も心配ですもの」
恵次郎がまた溜息をつくので、宥めるように倫子は言う。
「緑丸さんも、早くいい人が見つかるといいんですけど」
すると恵次郎は額を押さえて難しい顔をする。
「いい人か。良さそうな人を父さんと母さんが見つけてきて兄さんに勧めても、いつも破談になるんだ。
兄さんにとっていい人っていうのは、いったいどんな人なんだろうか……」
「うーん、緑丸さんが気に入らない感じなんですか?」
倫子の疑問に、恵次郎はこう答える。
「兄さんは一応、相手に断られてるって言ってるけど、ほんとうは兄さんが断ってるんじゃないかと僕は思ってる」
「それは……難しい話ですね」
恵次郎は眉間に皺を寄せて、唸るように言う。
「なんで兄さんが結婚したがらないのか、僕にはわからないんだ。
僕の結婚は喜んで祝ってくれたから、結婚自体に悪い印象があるわけでもなさそうだし」
思い悩む恵次郎に、倫子も難しい顔をして言う。
「それはもう、緑丸さん本人に訊かないとわからないかもしれないですね」
すると、恵次郎はまた溜息をつく。
「兄さんに訊いても答えないんだ。
いつもはぐらかされる」
「うーん、それだと……」
少し考えて、倫子ははっとする。もしやと思いながら恵次郎にこう言う。
「もしかして緑丸さん、女郎屋通いしてたりとかしませんか?
誰か入れ込んでる女郎がいるとか」
すると、恵次郎は頭を振って返す。
「そんな話は聞かないし、そんな素振りもない。
正直言えば、まったく女に興味がないよりは、女郎屋通いをしててくれるくらいの方が、僕は安心できるんだが」
「そうなんですね。そうなると……」
倫子はまた考えて、これもまた可能性は薄そうだと思いながらこう口にする。
「それなら、誰か心に決めた人がいて、その人のことを待ってるんじゃないかしら」
その言葉に、恵次郎は情けない顔をしてこう返す。
「それならそうと言って欲しいんだ。
誰か好きな人がいて、その人を待ってるっていうならその人と一緒になれるかどうか、父さんと母さんに相談して欲しい。
とりあえず会ってみないことには、どうにもならないんだから」
「それもそうですよね。緑丸さん……謎が多い……」
そんな話をしているうちに、恵次郎は頭を抱えてしまった。どうやらほんとうに、緑丸が嫁を取ろうとしないことで悩んでいるようだ。
倫子は店の隅に置いてある氷水のはいったたらいからみかん水を一本取りだして栓を抜く。それを、恵次郎に差し出した。
「とりあえず、恵次郎さんこれでも飲んで落ち着いて。いったん頭を冷やしましょう?」
恵次郎はみかん水を受け取って洋服のポケットをまさぐる。それを見た倫子は、くすくすと笑ってこう言った。
「そのみかん水は奢りです。
もしお返しがしたくなったら、また他の機会でいいですから」
その言葉に恵次郎は軽く頭を下げる。
「倫子さん、ありがとう。
どうやら兄さんのことで相当熱くなっていたようだ。これを飲んで落ち着くとするよ」
それから、みかん水の瓶に口を付けてひとくち飲む。
「……冷たい」
少し落ち着いたのか、微かに笑みを浮かべた恵次郎を見て倫子も安心する。
「暑いときは冷えたみかん水がおいしいでしょう」
「そうだな。久しぶりに飲んだ気がする」
恵次郎は少しずつみかん水を飲んで、その度に少しずつ落ち着きも取り戻しているようだった。
恵次郎がみかん水を飲み終わったところで倫子が訊ねる。
「ところで恵次郎さん、今日は緑丸さんの話をしに来たのかしら」
それを聞いて恵次郎ははっとして店内を見回す。
「そうだ、今日は買い物に来たんだった」
飲み終わったみかん水の瓶を倫子に手渡した恵次郎は、いつものように文房具が並んだ棚の方へと行く。それから、手早くいつも買っているインクとペン先、それに今日は洋紙も手に取っている。
「倫子さん、これを」
「はい、まいどあり」
手早く勘定を済ませて品物を恵次郎に手渡すと、恵次郎は軽く頭を下げてこう言った。
「それじゃあ、そろそろお暇させてもらう。
なんだか倫子さんにまで心配かけてすまなかった」
「いえ、いいんですよ。心配なのはわかりますし」
「ほんとうに申し訳ない。それではまた」
倫子に背を向けて店を出て行く恵次郎を見て倫子は思う。もし緑丸に思い人がいるとしたのなら、それはどんな人なのだろうと。




