第四十三章 テーラーの弟子
暑くなりはじめ、長い雨もすっかり明けた頃のこと。倫子は今日も店を開けて、お客さんが来るのを待っていた。
そろそろ、子供達の学校も夏休みに入る頃だ。夏休みに入ったら、この店もまた朝から賑やかになるのだろう。
子供達といえば、最近すっかり光喜の姿を見ないことを思い出す。仕事で忙しいのか、もう駄菓子やおもちゃで喜ぶ年頃でもなくなったのか。少しだけ寂しく思いながら、今頃光喜はどうしているのだろうと倫子は考える。
そんなことを考えてぼんやりしていると、早速ガラス戸を叩く音が聞こえた。
「倫子さーん、開いてますか?」
この声は。と倫子は咄嗟に入り口の方を見る。
「開いてるわよ。どうぞ入って」
「どうもこんにちわー」
そう言ってガラス戸を開けて入ってきたのは、今まさにどうしているのだろうと考えていた光喜だった。
いつもは子供達と一緒に来ることが多い光喜が、今日はひとりで来ている。お店のお使いだろうかと思い、倫子は光喜に話し掛ける。
「光喜君、今日はなにをお探しかしら。
お店のお使い?」
すると光喜はにっこりと笑って、こう返した。
「今日はご報告に来たんです」
「ご報告?」
一体なにがあったのだろう。もしかして、光喜もお見合いをして婚約者でもできたのだろうか。それにはまだ早いような、でも、そろそろそういう年頃のような、なんともいえない年齢だ。
倫子が不思議に思っていると、光喜はにこにこと笑ったままでこう続ける。
「実は、テーラーに弟子入りすることになったんです」
「えっ! ほんとうに?」
光喜の報告に、倫子が思わず驚いた声を上げると、光喜はいつも通りの穏やかな表情でこう言った。
「倫子さんがテーラーに弟子入りしたらって言ったのがきっかけで、僕、あちこちのテーラーに弟子入りさせてもらえないかどうか訊いたんです。
そしたら、弟子入りさせてくれるところが見つかって」
「まあ、それはよかったわ」
弟子入りの件で、このところはこの店に来ていなかったのだろうかと倫子が思っていると、光喜は店の中を見回してこう言った。
「それで、このところは洗濯屋のお仕事をしながら、テーラーに入る前にお手伝いをするという感じで、テーラーの方の雑用もしてたんです。
それでも、このお店に来られなくて」
「そんなに忙しかったのね。
今日来てくれて嬉しいわ」
光喜のその行動力を聞いて倫子が思わず呆然としていると、光喜はキリッとした顔をしてこう続けた。
「倫子さんの言葉がなかったら、きっと僕はテーラーに弟子入りすることなんて考えなかったと思います。きっかけをくれてありがとうございました」
その言葉に、倫子は手を振って返す。
「そんな、お礼なんていいのよ。
私もあの時は、半分くらい冗談で言っただけだったんだし」
「冗談でも、僕はあの言葉に後押しされて一歩踏み出せたんです」
「そう、そうなのね」
光喜の決心を聞いて、倫子はなんと言えばいいのかわからなかった。きっと喜ばしいことなのだろうけれども、これから確実に、光喜の暮らす環境は大きく変わってしまうのだ。光喜がほんとうにそれに付いていけるのか、些かの不安があった。
けれどもその心配もよそに、光喜は明るい顔で倫子に言う。
「洗濯屋のお仕事も好きだったけど、僕がほんとうにやりたい仕事は、きっとテーラーなんだと思います」
「そうなの?」
「そうなんです。だって僕は、洗濯のお仕事しながら洋服を見て、こういうのを仕立てたいって、ずっと思ってたから」
そう話す光喜の顔は、希望に満ちていた。
こんなに明るい希望を背負った光喜に、いまさら洗濯屋に戻れなんて誰が言えるだろうか。光喜は、望んでいた未来を掴もうとしているのだ。
けれども、倫子は一応釘を刺す。
「光喜君、テーラーの修行は厳しいって聞くわよ。途中で逃げ出さずにやれる?」
倫子の言葉に、光喜は明るく返す。
「テーラーの修行が厳しいのは、お手伝いに行ってるときにも見たし、わかってるんです。
それでもいいって思ってます」
そう言ってから、光喜はいったん言葉を切って、ちらりと舶来品の置かれた棚を見る。
「とにかく今は、洋服の仕立てについて勉強したいんです。
もしかしたら、逃げ出したくなることもあるかもしれないけど、でも、やるって決めたんです」
その言葉に、光喜の決心はほんとうに固いのだなと倫子は思う。これならもう、誰が文句を言っても、光喜は引き返すなんてことはしないだろう。
これからまた、光喜は今まで以上に忙しくなる。きっとこの店に来ることも、今まで以上に少なくなる。そのことに寂しさを覚えながら、倫子は光喜に言う。
「そこまで心が決まっているなら、やれるとこまでやりなさいね。
立派なテーラーになるまで、がんばるのよ」
「ありがとうございます。がんばります!」
やる気に満ちた光喜の返事の後に、倫子はさらに続ける。
「でも、できればたまにこのお店に顔を見せに来てちょうだい。
そんなに頻繁にでなくてもいいの。もし暇ができたときに、思い出せたらでいいから」
寂しさの滲む倫子の言葉に、光喜はにっこりと笑って返す。
「もちろん、たまにはこのお店にも来ます。
テーラーのお使いで来ることもあると思うし」
「そう? お使いでくるときはよろしくね」
「はーい、わかりました」
いい返事を返した後、光喜が文房具の並んだ棚を見る。その棚を見て、光喜は倫子に訊ねる。
「そういえば倫子さん、このお店ってインクとかペン先とか、あと洋紙って置いてますか?」
「置いてるけど、それがなにか?」
突然の質問に倫子が不思議がると、光喜はこう説明した。
「テーラーの方でインクとかペン先とか洋紙とか結構使うんですけど、今までお使いによく行ってた人が、色々なお店を回って揃えてたみたいで大変そうだったんです」
「ああ、なるほど」
「それで、このお店に全部揃ってれば、ここにお使いに来られるなって思って」
きっと、光喜が弟子入りしたテーラーはこの店から多少離れた場所にあるか、少なくとも倫子が知らない店なのだろう。インクなど異人向けの書類を書くのに必要なもの一式を揃えているの店を知らないくらいなのだから。
「テーラーの書類は、基本的に洋紙にペンとインクで書くんです。テーラーの近くのお店で揃えようとすると、全部揃ってるところが無いらしくて」
「そうなのね。それなら、たまにこのお店にお使いに来てちょうだいね」
「はい、これからもお世話になります!」
元気よく返事をした光喜は、倫子に頭を下げてからこう言う。
「それじゃあ、僕そろそろ帰りますね。
倫子さんに挨拶するのに時間もらってきたんですけど、この後テーラーの方でお仕事あるので」
「うん。わざわざ来てくれてありがとう。またね」
「はい、また来ます」
光喜は手を振って、店から出て行く。その後ろ姿を見て、倫子はなんとなく気持ちが昂ぶった。
光喜がやりたいことを見つけて、覚悟を決めて、その道で歩き始めた。そのことが嬉しかったし、なによりも光喜は随分と頼もしくなった。きっと、自分で大きな決断をしたからだろう。
倫子の何気ないひとことで、光喜の未来は大きく変わってしまったのだろう。あの時冗談でテーラーへの弟子入りを口にしなければ、光喜は洗濯屋のままだったのだ。
意外な方向へ事は進んだけれども、いい縁を結べたのならそれでいいだろうと倫子は思う。
いつまでも子供のような気がしていたけれども、光喜はもう、子供ではないのだ。自分の脚で立って、自分の脚で歩く。そのための大人の階段を上っている最中なのだろうと倫子は思った。




