第四十一章 はじめてのパン
爽やかな風が吹くようになったある日のこと。いったん客足も途絶え、倫子は店の奥でゆっくりとしていた。
そろそろお昼時。この店によく来るお客さん達も家に帰るなり飲食店に入るなりで食事に備える時間だ。倫子も、いつも通りにお弁当屋さんがお弁当の配達にくるのを心待ちにしていた。
今日は少しお弁当屋さんが遅れているなと思いながらぼんやりしていると、ガラス戸を叩く音が聞こえた。それと同時に大きな声もする。
「オハヨウ!」
この声は。と倫子は思う。咄嗟に入り口の方を見ると、ガラス戸を少し開けて樹が覗き込んでいた。
「倫子さんこんちわ。」
「やっぱり樹さんだったのね。どうぞ中に入って」
倫子がそう声を掛けると、樹はガラス戸を大きく開けて入ってくる。いつも通り、白蝋も肩に乗っている。
店内をきょろきょろと見回す樹に倫子は訊ねる。
「今日は、どんなものをお探しかしら?」
すると樹は、倫子の側に来て手に持っていた紙袋を見せてにっと笑う。
「こんなの買って来たんだけどさ」
「あら、なにかしら?」
紙袋はなにやら膨らんでいるけれども、見た感じ重そうなものでもない。なんだろうと思いながら見ていると、紙袋から香ばしくて甘い匂いが漂ってきた。
樹が紙袋を開けながら倫子に言う。
「元町でパンを買ってきたから、倫子さんと一緒に食べようと思って」
それを聞いた倫子は、くすりと笑う。
「あらそうなの? ありがとう」
元町にパン屋があるのは倫子も知っていたけれども、まさか樹がいっしょに食べるためにわざわざ買ってくるなんて思ってもいなかったので、嬉しくもありがたい気持ちになる。
「倫子さん、これ、切ってきてくれないかな。
さすがにこのままだと食べづらいと思うんだ」
「あら、随分と大きいパンなのね」
樹が開けた袋を倫子に見せるので中を見ると、そこには大きくて四角いパンが堂々と入っていた。
倫子はパンの入った紙袋を受け取り、立ち上がる。
「それじゃあ、切ってくるからちょっと待っててね」
「あいよ」
奥の部屋に通じる戸を開けて、倫子は入っていく。それから、小さな台所で包丁を出してパンを切ろうとする。けれども、パンは柔らかくてなかなかうまく切れない。
「んん……包丁研いだばっかりなのに……」
少し困惑しながらなんとかパンを六枚ほどに切り分け、お皿に乗せる。少し潰れてしまったけれども、このパンはそういうものなのだろうかと倫子は少しだけ思う。
パンを乗せたお皿を持って店に戻り、待っていた樹に、店の奥のいつも倫子が座っているところに上がってもらう。
「お待たせ。ちょっと潰れちゃったけど、こういうものなのかしら?」
倫子の言葉に、樹は座りながら返す。
「まぁ、多少潰れても味は変わらないさ。
さあ食べよう」
「そうね。いただきます」
「いただきます」
倫子と樹がいただきますをすると、樹の肩の上で白蝋が頭を上下させながらくちばしを開く。
「イタダキマス!」
それを聞いて、倫子はくすくすと笑う。
「白蝋君も、色々な言葉をおしゃべりできるのね」
その言葉を聞いてか、白蝋は目を細めて自慢げな顔になる。そんな白蝋の頭を撫でてから、樹がパンを一枚手に取ってじっと見る。
倫子もパンを手に取ってひとくち囓る。縁の茶色い部分は少し固いけれども、中の白い部分はふわふわしていて柔らかく、ほのかに甘味がある。
パンを飲み込んでから、倫子が樹に訊ねる。
「樹さんは、よくパンを食べるの?」
その質問に、樹はパンを眺める角度を変えながら返す。
「はじめて食べるんだよ。だから、こういうの食べ慣れてそうな倫子さんと食べたかったんだ」
「あら、はじめてなのね」
樹もなんだかんだで、知らないものに挑戦する気概があるのだなと思いながら倫子が見ていると、樹はまだパンを囓ろうとしない。
「ひとりで食べるの、不安だったの?」
倫子がそう訊ねると、樹はじっとパンを見て返す。
「そうなんだよ。どんな味がするかわからないから」
それから、すでに数口パンを食べている倫子を見て樹も恐る恐るパンに口を付けた。
「んっ……! これは!」
パンの茶色い部分と白い部分を食べ比べて、樹が驚いたような声を上げる。それから、そのままの勢いで数口食べて、ほうっと溜息をついた。
「ふわふわだし、香ばしくておいしいねえ」
満足そうな樹のようすに、倫子はくすくすと笑う。
「そうでしょう? でも、このパンは切るときに少し潰れちゃったけど、潰れなかったらきっともっとふわふわだったと思うの」
「はぁ、すごい食べ物だな」
普段樹が食べるような饅頭も、こんなふうにふわふわした皮で包まれている。けれどもこんなにふわふわしたところばかりという食べ物ははじめてなのだろう。
倫子が夢中になってパンを食べる樹に言う。
「きっと、居留地の異人さん達は、毎日こういうのを食べてるのよ」
すると、樹は羨ましそうな声を上げる。
「そうなの? いいなぁ異人さんは。こんなのを毎日食べられるなんて、羨ましい」
倫子がパンを一枚食べる間に三枚ほど食べてしまった樹に、倫子が訊ねる。
「樹さんも、居留地に行ってみたい?」
その問いに、樹はもう一枚パンを手に取って、苦笑いをして返す。
「いや、あたしにはきっと居留地は合わないよ。あたしはなんだかんだで、日本人の中にいた方が落ち着くんだ」
「そう?」
「ああ、そうだ」
樹また一枚パンを平らげて、肩に乗った白蝋を撫でながら言葉を続ける。
「外国から来た食べ物はおいしいけど、やっぱり、なんだかんだであたしは日本人なんだ。
異人の中に入ってうまくやれる気はしないね」
「うん、そうね」
異人の中に入って上手くやれる気がしない。という樹の言葉を聞いて、なぜだか緑丸のことが頭に浮かんだ。緑丸は、外国語がわからないのに異人であるバイオレットと友人になり、居留地に出入りしている。今思うとそれは、とんでもないことをやっていたのだと倫子は気づかされた。
パンを食べている樹を見ていると、ガラス戸を叩く音が聞こえてきた。
「倫子さん、お待たせ」
その声に倫子が入り口の方を見ると、そこにはガラス戸を少し開けたお弁当屋さんがいた。
「いらっしゃい。いつもありがとう」
倫子がそう返事をすると、お弁当屋さんは中に入ってきて倫子にお弁当を渡す。
「いやはや、遅くなっちゃってすまないね。
今日は回るところが多くて押し押しになっちまって」
そういうお弁当屋さんに代金を渡して、倫子はにっこりと笑う。
「そういうこともあるわよ。これからまた、他のお宅も回るんでしょう? 気をつけて行ってきてね」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ失礼します」
少しだけやりとりをして、お弁当屋さんはすぐに店を出て行った。
「倫子さん、お弁当があるのにパン持って来ちゃって悪かったかな? お弁当食べられる?」
申し訳なさそうにそういう樹に、倫子はくすくすと笑って返す。
「だって、パンはほとんど樹さんが食べちゃったじゃない。私はまだお弁当も食べられるわよ」
「あ、そうか。へへへ」
照れたように笑った樹はそそくさと立ち上がって奥から降りる。
「それじゃあ倫子さん、パンも食べたし、あたしはそろそろお暇するよ」
「あら、もう帰るのね」
「うん。その前に、せんべいを少し買っていきたいんだけど」
「もちろんいいわよ」
樹が何枚かせんべいを選ぶので、倫子はそれを取り出して紙袋に包み勘定をする。樹はそれを受け取って倫子に手を振る。
「それじゃあ、またね倫子さん」
「ええ、いつでも来てね」
足取り軽く店を出る樹を見て、なんだかんだで馴染んだ味が良いのだろうなと倫子は思った。




