第四十章 菫の香り
暖かな夕暮れ時、お客さんの足も途絶え、子供達もすっかりみんな家に帰った後、倫子はそろそろ店を閉めようかと片付けをしていた。
店じまいをしてガラス戸の鍵を掛けようとしたとき、誰かが来て声を掛けてきた。
「倫子さん、もう店じまいかい?」
現れたのは、いつも通りに舶来品の取引をした後らしく大荷物を持った季更だった。
その姿を見て、倫子はにっこりと笑って返す。
「ええ、そろそろ店じまいよ。季更さんは仕入れをしてきたんでしょう?
もう閉めちゃうから中に入って」
「それじゃあ、こっちから失礼するよ」
季更が入り口から入ってきたのを確認し、倫子はガラス戸の鍵を掛ける。まだ夕日が差しているとはいえ、店の中はだいぶ暗くなっている。その中を、倫子と季更のふたりで通り、いつも倫子が座っている店の奥に上がり、そのままいつもはお客さんを入れない、さらに奥の部屋へと移動する。
部屋に移動した倫子は、まだ夕日で部屋はうっすらと明るいけれども、一応蝋燭に火を灯して座る。季更も、荷物を置いて座り込んだ。
「今日も、舶来品をたくさん仕入れてきたのかしら?」
倫子が上機嫌そうな声でそう言うと、季更は早速荷物を開けて言う。
「舶来品はもちろんだけど、日本製品でも面白いものがあったからいくつか仕入れてきたよ。
最近は、日本のものでも外国製に負けない品質のものが出てきててね。良いことだ」
「あら、そうなのね。どんなものがあるか楽しみだわ」
期待に満ちた倫子に、季更が真っ先に差し出したのは、西洋風の意匠で菫の花が描かれた箱だ。綺麗な紙の箱だけれども、これは小物入れだろうかと倫子が思っていると、季更は意気揚々とこう説明する。
「これはね、最近居留地で流行っている菫の香りの石鹸なんだよ。
居留地でも日本製のこの石鹸が評判でね。それならと思って仕入れたんだ」
「菫の香りの石鹸なの?」
「まぁ、嗅いでみてよ」
手渡された石鹸の箱に、倫子が鼻を近づけて香りを嗅ぐ。たしかに、花の甘い香りがした。その香りに、倫子は思わずうっとりする。
「こんないい香りの石鹸、ご婦人方が好きそうだわ」
「この石鹸、この店に置きたいだろう?」
「もちろん。明日からでも置きたい」
倫子がこの石鹸を店に置くと決まったところで、この石鹸の代金を季更に支払う。なかなかの値段だけれども、この店でよく舶来品を買うようなご婦人方なら、余裕で手が出る価格だ。
「この石鹸、箱も素敵だからきっと注目されるわね」
「そうだね。舶来品が好きなご婦人なら、きっと気に入るさ」
そんなやりとりをして、倫子が店に出す分の石鹸を引き取ろうとすると、季更は余分に一個付けて寄越す。
「季更さん、一個多いけれど」
倫子が不思議そうな顔をすると、季更がにっと笑って倫子に言う。
「一個は、君が試しに使ってみてくれ」
「えっ? でも、これも売り物でしょ?」
倫子が思わず驚くと、季更は積まれた石鹸の箱をぽんぽんと叩く。
「まぁ、売り物は多い方がいいけれど。
でも、使ってみた感じをお客さんに伝えられた方が、売りやすくなるんじゃないかな」
「たしかに、使った感じを知りたいお客さんもいるだろうしね」
木更の言葉に倫子が納得していると、急に季更が身を乗り出して倫子に顔を近づけてこう言った。
「それに、菫の香りに包まれた倫子さんを見てみたい」
それを聞いて、倫子の顔が熱くなる。夫婦になってもうだいぶ経つとはいえ、季更が時折見せるこういった女心を刺激する仕草は、未だに慣れない。どうしても恥ずかしいような、照れてしまうような、そんな心地になるのだ。
倫子は誤魔化すように、改めて手に取っている石鹸の箱を開けて、中身の香りを嗅ぐ。箱を開けて嗅ぐと、甘い香りがいっそう際立っていた。
倫子は照れ笑いをして季更に言う。
「こんなに甘くて可愛らしい香り、私に似合うかしら?」
季更も、元の位置に戻ってくすくすと笑う。
「きっと似合うさ。なんたって倫子さんは可愛らしい女なんだからね」
それを聞いて、倫子はますます顔が熱くなる。頬を手で押さえて、石鹸を胸に抱く。
「そう? それなら、今晩早速使ってみるわね」
「ふふふ、楽しみだよ」
それから、石鹸以外の舶来品などのやりとりもして、店に置く分をいったん片付けてから、倫子と季更は裏口から店を出て行った。
そしてその翌日、倫子は早速菫の香りの石鹸を店頭に出した。気のせいだろうか、なんとなく店の中に甘い香りが漂っているような気がした。
店を開けてすぐの頃に、早速ガラス戸を叩く音が聞こえる。
「倫子さん、開いてますか?」
「はい、開いてますよ」
倫子の返事に、ガラス戸を開けて入ってきたのは、お使い用の風呂敷を持ったかの子だ。
「あらかの子さん、今日はお使い?」
倫子の言葉に、かの子はにっこりと笑う。
「そうなんです。今日は石鹸を買いに来たんですよ」
それを聞いて、倫子はふっと菫の石鹸の方を見る。
「それでしたらかの子さん、昨日菫の香りの石鹸が入ったの。それなんかどうかしら?」
「菫の香りの石鹸ですか?」
「そう、そこの棚の、菫の絵が描いてある箱」
不思議そうな顔をするかの子に、倫子は菫の石鹸を指さす。
するとかの子は、鼻をすんすんと動かして店の中の匂いを嗅いでいるようだ。
「たしかに、なんだか倫子さんから甘くていい香りがします。
もしかして、この石鹸を使ったんですか?」
随分と鼻がいいなと思いながら、倫子はにっこりと笑って返す。
「そう。夫に勧められて、試しに使ったらどうかって言われて、使ってみたの」
それを聞いたかの子は、そわそわしたようすでこう訊ねてきた。
「そうなんですね。
それで、その、旦那さまの反応はどうでした?」
その問いに、倫子は真っ赤になる。昨夜菫の石鹸で体を洗ったあと、季更に散々匂いを嗅がれたのを思い出したのだ。
「あー、えっと、夫にも好評でした」
「燃え上がっちゃった感じですか?」
「それは、その、ご想像にお任せします」
いつになく狼狽えている倫子を見てか、かの子がくすくすと笑う。それから、菫の石鹸をひと箱手に取って倫子に訊ねる。
「ちょっと、香りを聞いてみても良いですか?」
「もちろん。いい香りだから聞いてみて」
かの子は早速、箱に鼻を近づけて嗅いでいる。それから、うっとりとした声でこう呟いた。
「まあ、素敵……どうしよう、私もこの石鹸欲しいかも……」
菫の石鹸を手に取って、いつも買っている石鹸と見比べているかの子。いつもの石鹸に比べて値が張る物なので、どうしようか悩んでいるのだろう。
「うーん、どうしよう。菫の石鹸しか買っていかないと、貞治さんもこの香りになっちゃうし……」
かの子は二種類の石鹸の間でしばらく視線を揺らした後、両方を手に取って倫子のところへと持って来た。
「あら、両方買うの?」
倫子がそう訊ねると、かの子はにっこりと笑う。
「はい。やっぱり、この素敵な石鹸欲しいなって思って」
それから、少し声を落として言う。
「それで、菫の石鹸は私のお小遣いで買うので、お勘定別にしてもらっていいですか?」
なるほど、家計とお小遣いをきっちり分けているのかと倫子は感心する。
「もちろん、別々にしても良いわよ」
「それじゃあ、お願いします」
倫子は石鹸の勘定を一個ずつ済ませ、かの子に渡す。かの子は受け取った石鹸を風呂敷に包みながらうっとりとする。
「この石鹸を使ったら、私もいい香りになるかしら」
倫子はにっこりと笑って言う。
「もちろん、いい香りになりますよ」
すると、かの子は頬に手を当てて顔をほのかに赤くする。
「貞治さん、気に入ってくれるかしら……」
たしかに、貞治が気に入るかどうかはかの子としては気になるだろう。
きっと気に入ってくれると言って、倫子はかの子を送り出した。




